抜けない釘
増田朋美
抜けない釘
人はだれでも、人にいいたくないというか、隠しておきたいことを持っている。だけど、それだけではない。人にいいたくないだけではなく、自分の中でも消すことができなくて、本当に苦しい思いをする人もいるのだ。それを、どうやって消し去ることができるかは、本人の力だけではなくて、周りの人の力もあるのかもしれない。
その日、伊能蘭の家に、一人の女性がやってきた。名前を山村美紗恵といった。
「はあ、えーと、山村美紗恵さんですね。それで何を彫りたいか、どこに彫りたいか、まず話してみてくれますか?」
蘭は、その女性にいうと、
「それがわからないのです。」
美紗恵さんは言った。
「は?それはどういうことでしょうか。だって、刺青師のもとに来たんですから、それでは刺青を入れるために来たんでしょう?違いますか?」
蘭が思わずいうと、
「ええ、それはわかってます。もちろん、体に入れてほしいという気持ちがあるので、こさせてもらったんです。ですが、体のどこに入れようとか、そういうことは全く考えないで、来てしまいました。」
と、美紗恵さんは答えるのだった。
「そうですか。それなら、じゃあ、僕のほうがいくつか質問をします。まず初めに、あなたは、入れたいところ、つまり、虐待を受けたあととか誰かに殴られたあととか、そういうことはありますか?大体、僕のところに来る人は、それで刺青を入れたいという方が多いのですよ。だから、まず初めに、そういう場所があるかどうか、教えていただけないでしょうか?」
蘭は、画板を出して、彼女のお話を記録し始めた。それを見て、彼女はちょっと嫌そうな顔をした。
「ええ。ちゃんと記録をさせていただきますよ。だって、刺青というものは消すことはできませんからね。ですから一生残ります。それをするわけですから、それでは、あなたの一生を左右することだって十分ありえます。だから失敗は許されないんです。そのためには、しっかりと、記録をさせていただきます。」
「そうなんですか。何か警察に取り調べをされているみたいですね。」
美紗恵さんは言った。
「ええ、取り調べというか、あなたも、人生を変えたくて刺青を入れに来たんでしょう?それでは、まず解決できないエピソードがあるわけなら、それはちゃんと話しておいたほうが良いのです。刺青というのは、極道がするものだと日本の社会では勘違いされていますが、実際はそうではありません。あなたのような、辛いことがあって、それを変えたいから、それを具体的に視覚化したくて、刺青をする。こういう女性が多いのです。だからあなたも、ちゃんと話したいことは話していただきます。」
蘭が親切に説明すると、
「そうですか。刑事さんとは違うのですね。そうですね。何を彫りたいかとか、そういうことはわかりませんが、どうしても消したい過去があるんです。でも、どうしても忘れられなくて。あたしは、学校の先生に、ひどいことされたんです。学校の先生が、どうして成績が悪いんだって言って、私に、自殺の練習までさせたんです。」
と、美紗恵さんは言った。蘭はそれに対して、本当かとか、そういうことは、言わないことにしている。本当であればそれについて十分つらい思いをしているだろうし、嘘であれば、それ以上に悲しい思いをしていることがわかるからだ。蘭はとりあえず、
「辛いんですね。それは、何年前の話ですか?」
と、聞いてみた。
「はい。あたしが今、37歳で、ひどいことがあったのは高校三年生のときだったから、もう、20年近く経ちますね。でも、あたしはその時のことを、昨日のことみたいに覚えてるんです。忘れようとしたけれど、どうしてもできなくて。カウンセリングとかも受けたんですけど、どうしてもわすれられない。だから、龍とかそういうのを入れれば、忘れるんだって自分に言い聞かせることができるかもしれない。だから、来たんですよ。」
美紗恵さんは、申し訳無さそうに言った。蘭は、彼女のことを、否定も肯定もしないで、話を聞くことに徹することにしている。とにかく彼女に話をさせることにしたが、彼女はそれ以上言わなかった。
「そうなんですね。時計が止まっているようになってしまったんですか。それでは本当に辛いでしょう。それでは、大変な思いをしているのはわかりました。他にも、大変な人たちはいますから、安心してください。あなただけじゃないですよ。僕のところに来た方はみんなそんな思いをして、来てるのですから。」
「そうなんですか。あたしだけが、一人でつらい思いをしているんじゃないかって、ずっと辛かったんですけど、それだけじゃないってことも、あるんですね。いい加減に忘れろとか、そういうことはよく言われたんですけど、どうしてもできなくて。それで私は、自分はだめなんだと、余計に思うようになって。」
美紗恵さんはそう話を続けた。
「そうなんですね。周りの人達は、無責任なこといいますからね。そういう人に限って、なにか困ったとき、困った困ったと言って大騒ぎするんですよ。それは、恥ずかしいことではありませんから、安心してください。」
と、蘭は彼女に言った。
「それでは、彫りたいものは龍ということでよろしいですか?」
「いえ、まだわかりません。ごめんなさい先生。」
「まだ、昔話をしたり無いですか?」
そう答えるだけの彼女に蘭はそういった。
「そういうことだけではなくて、何か、先生なら、何でも話せそうな気がしてきたんです。刺青を入れて新しい私になる前に、私の話を聞いてくれますか?」
と、美紗恵さんはちょっと笑顔を浮かべていった。蘭がはいどうぞというと同時に、蘭のスマートフォンがなった。蘭は、失礼しました、電源を消し忘れていたそうですと言って、スマートフォンを取ると、ニュースアプリが稼働していて、すぐに事件のニュースが入っていた。それによると、静岡県富士市の大渕というところで、女性の変死体が見つかったらしい。それだけではなくて、すぐに犯人も捕まってしまったようだ。犯人は、名村真希という女性だったと書かれていた。
「どうしたんですか?」
美紗恵さんに言われて、蘭は、
「いえ、物騒な世の中になったものだなと思いましてね。大渕で、女性が殺害されたそうなんです。それで、犯人もすぐに出頭してきたとか。名前は、名村真希さんという女性だったということでした。」
としたり顔で答えた。すると、美紗恵さんの表情が変わった。蘭がどうかしたんですかと聞くと、
「いえ、、、。なんでもありません。」
と、一生懸命隠そうとしたが、それはできないようであった。
「そういうことなら、お話してしまってください。一人で大変なことを抱えているより、言ってしまったほうがずっと良いのです。それは、どんな人でもそうです。」
蘭はそういったのであるが、彼女はボロボロと涙をこぼして泣き出してしまった。蘭は、こんなことを言ってしまって、申し訳ないと思ったのであるが、止めることもできないなと思った。
「それなら、涙が枯れるまで泣いてしまってください。それなら、それで良いのですよ。泣くっていうことは、浄化されるということです。いらないものを取り払う儀式でもあります。」
そう言って、彼女の肩をそっと叩いてあげた。彼女は涙がどこまで出るんだろうと言うくらい泣き出してしまった。蘭は、このような泣き方をするのであれば、単に、悲しいことがあったことだけではなくて、なにかこの事件に関わりがあるのではないかと思ってしまった。蘭は、スマートフォンを出して、その事件の内容を調べてみようと思った。今の時代は、スマートフォンで何でも調べることができるから、それは良かったものである。それによると、殺害した名村真希という女性は、事件を起こす数か月前まで、福祉施設に通っていたということだ。殺害された大橋さやかと言う女性は、そこの福祉施設の職員だったということがわかった。それにしても名村真希さんが、障害を持っていたと言う事実は盛んに報道されていて、偉い人たちが精神障害者を外へ出すなとか、そういうことを掲載している記事もあったが、被害者の大橋さやかさんという女性が、何をしたのかは報道されていなかった。そういうところは、日本は甘いと思う。加害者が悪いということばかり報道しないで、事件の全容をちゃんと報道してほしいのに。
それと同時に、美紗恵さんが泣くのをやめてくれた。
「もう泣きつかれてしまいましたか?」
蘭がそう言うと、美紗恵さんは小さな声でハイと言った。
「それなら、それで良いんですよ。今日は、これで帰ったほうが良いのではありませんか。これ以上話を続けると、ちゃんと刺青もできないので、また落ち着いたら、来てください。今日は料金も何もいりません。お気をつけてお帰りください。」
蘭はそう言って画板を戸棚へしまおうとしたが、
「待って!あたし、今家に帰るのが怖い!だって家には報道陣がいっぱいいるかも知れない!」
と彼女は言うのだった。
「じゃあ、それでは、あなたが今回の事件にどう関わっているか、話していただけますかね?わかるところだけで良いんです。大事なところだけちゃんと話してください。」
蘭がそう言うと、山村美紗恵さんは、
「ごめんなさい。あたし、口に出していってしまったら、あたし自身が壊れてしまうような気がして怖くて言えないんです。ただ、あたしは、大橋先生には、お世話になってました。あの、障害者支援施設で。そのときに、名村真希さんも一緒でした。ごめんなさい、それだけにしてください。それだけにしてください!」
というのであった。確かに、美紗恵さんは目も見えるし、耳も聞こえるので、自分の発言をわかってしまうのだろう。それがつらい思いをしてしまうということになるというのは、まだ心に釘が刺さったままだということになる。それは自分で抜かなければならないけれど、それをするのに誰かの援助を受けなければならない人もいる。それは、どんな人でも同じである。多かれ少なかれ、誰かに話をして解決しなければならないけれど、それが、ものすごく大変なことである人もいれば、簡単にできてしまう人もいる。そしてマスメディアは、簡単にできることばかり話してしまうので、できない人は余計につらい思いをしてしまうのである。だから、彼女もそうなのだろうなと蘭は思った。
「わかりました。じゃあ、今日はここまでにしましょう。また、落ち着いてきたら、ゆっくり話をしに来てください。いつでも待ってますから。ご覧の通り、車椅子で動いてますから、簡単に逃げることはしませんよ。」
そうにこやかに蘭がいうと、彼女はそうしたほうが良いと思ったのだろう。ハイと小さな声で言って、蘭に二万円を差し出した。
「今日は突いていないので料金は発生しませんよ。」
と言っても、彼女はカウンセリング料金として受け取ってほしいというのであった。蘭は仕方なく、わかりましたと言って受け取って領収書を書いて彼女に渡した。本来なら次回の施術日を決めなければならないが、蘭はいつでも来てくださいとだけ書いておいた。そして、彼女を玄関先まで送り出して、また来てねと手を降って見送った。それと同時に蘭は、スマートフォンを出して、製鉄所へ電話を回した。
「はい、もしもし。」
出たのは製鉄所を管理しているジョチさんこと曾我正輝さんであった。
「ああ、お前か。ちょっとお前に頼みがある。あの、大橋さやかと言う女性が殺害された事件を知っている?」
蘭はすぐに言うと、
「もう、要件を言う前に名乗ってくださいよ。蘭さん。その猪突猛進なところはすぐに分かりますけど。」
とジョチさんの声が電話で聞こえてくる。
「そうじゃなくて、お前の知名度で、その大橋さやかという女性が所属している施設を、教えてくれないものだろうかな?そこには、山村美紗恵と言う女性と、名村真希という女性が利用していたはずなんだが、、、?」
蘭は急いでそう言うと、
「ああ、それを言うなら、おそらく、大橋さやかさんが、主催していた障害者支援施設だと思います。」
とジョチさんがすぐに答えた。
「大橋さやかとはどんな人物なんだ?そこら辺は有名なのか?」
蘭はそうきくと、
「ええ。その彼女、大橋さやかさんとは一年ほど前ですかね、お会いして話したことがありました。そのときは、まだ東京にいて、東京で忙しく活動されていました。しかし、昨年まで東京で活動されていましたが、今年になって富士に活動拠点を移したそうです。」
と、ジョチさんはそういった。
「じゃあ、そういうことだったら、昨年まで、名村真希さんという女性が所属していたのだろうか?」
蘭がそうきくと、
「そこはちょっとわかりません。ですが、現在製鉄所の利用者が話していた噂によりますと、大橋さやかさんの支援施設は、勉強に対して非常に厳しいことで知られていたそうです。確かに先生方も怖いって利用者が話していたこともあります。まあ、よくあることなんですけどね。まあ、病気の人を本当に病人としてみる人は少ないでしょうね。大体の人は、お金を得るための、ターゲットとしか見えないでしょうね。」
と、ジョチさんはそういった。
「じゃあ何で、彼女、大橋さやかさんは今頃になって東京から富士にやってきたんだろうか?その東京の支援施設は、閉鎖されたのか?」
蘭はもう一度聞くと、
「ええ。そうかも知れません。僕もそのあたりはわからないのですが、もしかしたら分派したのかもしれません。新興宗教と同じように、ああいう施設も分派しますからね。誰が正当な後継者になるかとか、そういうことでね。」
と、ジョチさんは答えた。
「だけど蘭さん、どうして電話をよこしてくるんですか?蘭さんが、何でこの事件に関して電話をよこしたのか、不思議でしたけど?」
「ああ、実はねえ。僕のところに、山村美紗恵さんという女性が訪ねてきて、その事件のことでなにか知ってしまったようだから、それでお前に聞けばなにかわかるかなと思ったんだよ。」
蘭が正直に答えると、
「そうですか。まあ、同業者として知っていることは答えられますが、でも、僕が知っていることもさほど多くはありませんので、ご了承ください。」
とジョチさんはいうので蘭は思わず、
「わかってる!お前にはできるだけ頼りたくないってことは!」
と言って電話を切った。
それから数時間たって蘭は、今日も出張先から帰ってこない、妻のアリスのいない家で一人で夕食を食べ、今日も寂しいなと思っていると、いきなり電話がなったのでびっくりする。電話の相手はナンバーディスプレイから判断すると華岡であった。それによると、山村美紗恵と言う女性が、ため池に飛び込もうとしてたところを、警官が保護したというのだ。とりあえず自殺のおそれがあるので、蘭に警察署に来てくれという。家族はと聞いたところ、それは本人が頑なに拒否しているし、8050問題というのか、もう家族も高齢なので、今更呼び出せないと言う。蘭は、そういうことならと急いで介護タクシーを呼び出して警察署に行った。
蘭が車椅子で警察署に飛び込むと、華岡が出てきて、保護した女性が彫師の先生なら話をすると言っていると伝言した。蘭は急いで山村美紗恵さんのいる部屋へ行った。
「先生、また会いましたね。」
美紗恵さんは言った。蘭は、青柳教授だったら、絶対に彼女をひっぱたくだろうなと思いながら、
「何があっても、ため池に飛び込むことはしてはダメです。」
と言った。
「何でですか?あたし、人殺しと同じようなものですよ。それに名村真希さんを、人殺しにしてしまったのもあたしです。あたしが、今回の事件をつくってしまいました。だからもうあたしなんて死んだほうが良いのです。」
そういう彼女に、
「だったら、大橋さんがなぜ殺害されたのか、理由を話してみてくれるか?もったいぶってないで。」
と華岡が聞いた。
「お話してください。そうでないと事件が解決しないことになります。」
蘭も華岡に続いて言ったのであるが、
「そんな事して何になるんです?あたし、大橋先生から言われたことがありました。あたしたちは、こういう福祉制度に食べさせてもらっているだめな人間で、そういう援助者がいなかったら、ゴミと一緒だと。障害年金とか、そういう制度は、世の中に参加するためではなくて、世の中から出ていけという手切れ金なんだって。それだから、あたしたちは、言うことをきかなければだめだって。だから大橋先生には何も言えなかったんです。」
と、山村美紗恵さんは言った。
「でも、、、でもね。障害があると言っても、事件のことはちゃんと言わなくちゃだめなんです。今回の事件は、障害があるから発言してはいけないとか、そういうことは、無関係だと思ってくださいよ。それよりもどういう事実があったか、のほうが大事なんです。障害があって世の中に参加できないから何も話さないではありません。ちゃんと、その施設で起きたことを話してくれませんか。あなた、名村真希さんとどういう関係を持っていたのですか?あと、大橋さやかさんとも。そこら辺ちゃんと話してくださらないと。」
蘭は、そう彼女を励ました。そうしなければ、山村美紗恵さんは、真実を話してくれないと思った。
「障害があるからって、真実を話してはいけないということはありませんよ。現に僕もそうなんですから。それに完璧な人なんて誰もいません。そうでしょう?」
蘭がそう優しく言うと、
「いいえ!そんなことはありません!勉強もできるし運動もできるし、先生からの評価ももらえて幸せな人生を送れる人はいます!だからそれは間違っています!」
と山村さんは否定した。
「おいおい、そういうところを言われても困るんだけどなあ。それより、大橋さんが、殺害された理由を知ってるんだったら、そっちを話してくれよ。」
華岡がそう言うと、山村美紗恵さんは、
「そんなことは絶対ありません!」
というのだった。
「そうですか。心に釘が刺さったままだったんですね。今の社会は、病んだ人を施設に閉じ込めるしかできないから、そうやって心に刺さった釘を抜くこともできないわけだ。きっと、大橋さんの施設は劣悪だったのでしょう。障害のある人が、社会参加なんて、当分無理ですね。こんなんじゃ。」
蘭は、大きなため息をついた。何を言っても糠に釘のようなそんな風景だった。
抜けない釘 増田朋美 @masubuchi4996
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