第一章 第六節

 マルクス・アントニウスの演説が終わると、その場に集まっていたローマ市民達は冷たくなったガイウス・ユリウス・カエサルの遺骸を担ぎ、その場を去って行った。慟哭の列が長く続き、力無い歩みの音が延々と聞こえていた。人々はマルクス・アントニウスの言葉に従い、ガイウス・ユリウス・カエサルの死を悲しみ、その葬儀の用意を整える事にしたのだった。

 もし、この時、マルクス・アントニウスが彼の演説で「暗殺者達」を糾弾し、ローマ市民に復讐を呼びかけたとしたら、間違いなくローマは夥しい流血によって染め上げられた筈だった。ガイウス・ユリウス・カエサルの体から流された血だけでは物足りず、ローマの街路は一人の老政治家のが流した何千倍もの血生臭い血を飲み込む事に成った筈だった。

 潮が引いて行く様にローマ市民達が立ち去って行く有様に、ローマ元老院の議員達はホッと胸を撫で下ろした。彼等にしても、ガイウス・ユリウス・カエサルの死を悼む人々が、広場に寄り集まっている様子を見て、自分達の行為が「とんでもない結果」に至って了った事を十二分に認識した筈だった。そんな中でなされたマルクス・アントニウスの演説を聞き、ローマ元老院の議員達も、この時ばかりはマルクス・アントニウスに感謝したかも知れなかった。

 ローマ元老院議員達はローマ市民達が涙を流し、嘆きの声を上げて集まって来るまで、全てはうまく運んだと思っていた。既に元老院に取っての邪魔者は排除され、後は「春の謳歌」を楽しむだけだと思っていたのだ。しかし、陰々とした表情を浮かべ、慟哭の声を上げてローマ市民達が集まって来るに連れ、彼等は恐ろしさの余り、元老院の議場に閉じ籠る事しか出来なく成っていた。

 ローマ市民達は「彼等自身の偉大な英雄」の死を嘆き、彼の死を悼む為に、ポンペイウス劇場に集まって来た。「内乱の一世紀」の混乱の最中、ローマ元老院の議場は火災に遭い、この時、ローマ元老院の議場はポンペイウス劇場に隣接した集会所の中に置かれていた。その為、ガイウス・ユリウス・カエサルを集会所傍の回廊で刺し殺した後、元老院議員達はガイウス・ユリウス・カエサルの死骸をその場に放置し、彼等自身は集会所の中へと身を隠していたのだった。

 そんなローマ元老院議員達は、ポンペイウス劇場の内外にローマ市民達が寄り集まり、慟哭の声を上げている中へ、「英雄的行為を成し遂げた勝利者達」として、堂々と進み出るだけの度胸がある筈も無かった。ただ、集会所の扉の中に身を潜め、事の成り行きを見守るしか無かったし、そんな彼等に取って、マルクス・アントニウスの演説は、格好の救いの手となった。

 実はこの日、ガイウス・ユリウス・カエサルが元老院へ登院して来た時、マルクス・アントニウスは最も近しい側近としてガイウス・ユリウス・カエサルに同行していた。しかし、マルクス・アントニウスにガイウス・トレボニウスが声を掛け、マルクス・アントニウスをガイウス・ユリウス・カエサルの元から引き離した。

 後の世の人々の間で「人類が産んだ最も普遍的な弁舌家」として讃えられたマルクス・トゥッリウス・キケロはマルクス・アントニウスがガイウス・ユリウス・カエサル暗殺の陰謀に加担したと主張した。しかし、マルクス・トゥッリウス・キケロは元々、元老院の主流派の一人である事を「認められたい」と切望していた。そんな人間の主張が全く信頼に値しない事は「大地が足の下にあり、大空が頭の上にある事」よりも明白であった。

 マルクス・トゥッリウス・キケロは所謂「ノウス・ホモ」と呼ばれた人々に属していた。この言葉は「新人」と言う意味のラテン語であり、父祖に公職経験者がいないにも拘らず、執政官職に就いた人物を指して使われる語であった。この語が指す様に決してマルクス・トゥッリウス・キケロの生家であったトゥッリウス家は古代ローマ社会の中で政治的発言力が強い存在とは言えなかった。

 トゥッリウス家の発祥地はイタリア半島のほぼ中央に位置したアルピヌムの町であった。因みに、この町は民主制ローマの長い歴史の中で、決して知名度の高い場所では無かった。しかし、共和政ローマ建国から数百年が経ち、ローマが混乱期に入る中、この町から二人の歴史上、重要な人々を輩出する事に成った。その一人目がマルクス・トゥッリウス・キケロであり、もう一人のアルピウム出身で古代ローマ氏を語る上で欠かせない英雄ガイウス・マリウス・マヨールであった。

 因みに、このガイウス・マリウス・マヨールは軍事的才能という面ではガイウス・ユリウス・カエサルを遥かに上回る人物であった。そして、軍事的成功によって得た社会的地位を保ち、晩節を全うしたと言う点でプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マヨールを遥かに凌駕していた。ガイウス・マリウス・マヨールの政治家としての社会的成功は、彼がその生涯に於いて七度、コンスル職に選出された事を語るだけで十分だった。何しろ、インペラトル・カエサル・アウグストゥスが登場するまで、ガイウス・マリウス・マヨール程多く、コンスル職に選出された人物は存在しなかったのだ。

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