第一章 第五節

 ガイウス・ユリウス・カエサルの残滓はローマ元老院議員達が思っていた何倍ものしつこさと、深さを持って蔓延っていたのだ。それが結果として古代ローマの分裂へと結び付く事になった。その一方で、こうした古代ローマ分裂の危機は地中海世界に存在した古代ローマの敵達に取っては彼等自身の延命を試みる為の格好の機会となる筈だった。

 しかし、実際の所は、こう言った地中海世界の諸邦が十二分に力を取り戻す前に、古代ローマは体制を立て直して了う事になった。この様に、古代ローマがその内面に於ける混乱を早期に収拾する事が出来た要因も、結局はガイウス・ユリウス・カエサルの「亡霊」に帰するのだった。それ程迄にローマ元老院議員側の見込みは甘かったし、ガイウス・ユリウス・カエサルの「遺産」は決定的な存在だったのだ。

 ガイウス・ユリウス・カエサルが元老院派達が振り下ろしたナイフによって命を奪われたと言う一報がローマ市中に広がった時、ローマ市民達はこの偉大な指導者の死を嘆いて泣き喚くばかりだった。ローマ共和制は「ローマ元老院の圧倒的な求心力」が失われた時に終末を迎えたと定義すれば、その最後はガイウス・ユリウス・カエサルが市民達の圧倒的支持を背景に独裁官の地位を手に入れた瞬間に定める事が出来た。

 つまり、古代ローマの政体に関する歴史は「元老院と市民の意志が一体化していた時代」と、「元老院と市民の意思が対立しあった時代」とに分ける事が出来た。そして、前者を「古代ローマ共和政時代」と呼び、後者を「古代ローマ帝政」と大別する事が出来た。この様な観点で古代ローマの歴史を概観した時、「ローマ元老院派」と「ローマ市民派」との対立が表面化した瞬間を期して、「内戦の一世紀」が開始されたと言う事も出来た。そして、この分裂を表面上、収拾させるために登場した体制がインペラトル・カエサル・アウグストゥスを国家元首に頂いた「プリンキパトゥス」であった。

 こうして「プリンキパトゥス」が成立した事で、表面上は「ローマ元老院」と「ローマ市民」の両者の対立は解消された筈だった。しかし、実際には、これら両者の対立は解消される事なく、「ローマ元老院派」の国家元首と、「ローマ市民派」の国家元首とが代わる代わるに登場するという状況が展開される事になった。当然、「ローマ元老院派」の国家元首はローマ元老院を擁護し、「ローマ市民派」の国家元首はローマ市民からの賛辞を集めた。そうであれば、「ローマ元老院派」の国家元首はローマ市民からは嫌厭され、「ローマ市民派」の国家元首達はローマ元老院議員達からは軽蔑の目で見られる事になった。

 古代ローマに於ける「プリンキパトゥス」以後の国家元首、いわゆるローマ皇帝達の中に於いて、かなりの数の人物達が「暴君」や「悪帝」としての評判を得ている事も、結局はこの「元老院派と市民派の対立構造」が根底にある為の物であった。古代ローマ時代に当事者として「古代ローマの歴史」についての記述を残した人物達は「ほぼ例外なく」元老院派の人々達だった。当然、その様な人々が描写しているのだから、「ローマ市民派」の皇帝達の人格が攻撃され、彼等の業績が不当に低く評価されていた事は当然であった。

 この様な「元老院派と市民派の対立」と言う視点から古代ローマ皇帝達の歴史を俯瞰すると、その本質が不思議に、そして単純に明確になるのだった。

 ガイウス・ユリウス・カエサルが暗殺された日、ローマ市民達が悲しみに打ち拉がれていた時こそ、元老院派達に取って、彼等の掌中に過去の栄光を取り戻す最後の機会であったかも知れなかった。それにも拘らず、ローマ元老院の実力者達は、「憎むべき禿頭の老人」を血の海に沈めた「快挙」に酔いしれていただけであった。

 この時、ガイウス・ユリウス・カエサル、つまり「市民派のカリスマ」の遺骸は公衆の場に晒されたままにされていた。この時、ガイウス・ユリウス・カエサルが最も信頼した将軍の一人であったマルクス・アントニウスが、いち早く行動に出た。マルクス・アントニウスは涙を流しながら、それでもしっかりと秩序だって、偉大なる指導者に捧げる演説を行った。

 マルクス・アントニウスは青年時代にギリシアへ遊学し、その土地で本場の修辞学を徹底して学んでいた。そんな彼は、ガイウス・ユリウス・カエサルの遺骸を目の前にした演説において、飽くまで「暗殺者達」を直接的に攻撃する様な発言は行わなかった。ガイウス・ユリウス・カエサルの人格を褒め称え、その数々の業績を語り、最後にこの偉大な英雄にふさわしい葬儀を行う事を提案した。

 こうしてマルクス・アントニウスが行なった演説は、極めて時宜を得た物であった。彼の弁舌を持ってすれば、ローマ市民達の怒りを煽り立てる事も容易な事であった。だが、マルクス・アントニウスが弁舌を振るっていた場所のすぐ後ろでは、扉の向こうで元老院議員達が聞き耳を立てていた。そんな状況下でマルクス・アントニウスが「暗殺者達」を批判する様な演説を行えば、その場が即座に血に染まる事は容易に想像出来た。

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