第五留

 そしてさらに一時間後。

 僕は一瑠のためにコンビニに向かい、食べ物を買ってきて、彼女にご飯を食べさせていた。


「あー」


 一瑠が口を開ける。


「………………」


 僕は恐る恐る、彼女の口にスプーンを近づける。

 食べさせていた、というのはつまり、そういうことだ。


「おぃしぃ」


 僕の緊張など知る由もなく、マイペースな反応を示す。


 なぜ、僕がこんな小っ恥ずかしいことをしているのかと、いうと。


「一回眠ると、しばらくからだがうごかない」


 のだそうだ。

 本当に?


「ありがとう、おかげでおなかいっぱい」


「それはよかったが……いつから何も食べてなかったんだ?」


「わからない」


「え?」


「いつから寝てたのかも、わからない」


「なんで」

 

「わたし、いきなり意識がなくなるの。それで、いつ起きられるか、わからないから」


「始まった!」


 僕は彼女の言い訳に苛立ち、声が大きくなってしまう。


「やる気のない大学生はいつもそういう言い訳をするんだ!

 そうやって自堕落な生活を正当化させようとする!」


「そう、なの?」


「そうだ、というか君もそのクチだろう!」


「違うと、思うけど」


 彼女は認めないが、僕はすでに決めつけてしまっていた。

 大体そうだろう、こんな勉強道具どころか家具すらひとつもない部屋……


 いや、違った。

 部屋の隅、ボンと無造作に積まれた数学書の山を僕は発見した。


「あれ……これ、有名な圏論のテキストじゃないか」


 ケンロン、というのは……要するに数学の一理論だ。

 最近は数学の色々な分野、それにプログラミングにも応用されているらしいが……正直、僕もあまりよくわかっていない。

 工学分野の学部生が片手間で勉強するにはちょっと難しすぎるのだ。


 僕は圏論のテキストに手を伸ばし、パラパラとページを捲る。

 それなりに年季が入っており、中はたくさんの書き込みがあった。

 それ自体は少し感心した。

 どうやら彼女はちゃんと数学科としての責務を果たしているらしい。

 だが……


「なんか……君の教科書のメモは子供の落書きみたいだな?」


「うん、子供の落書きだよ」


「え?」


「だって、小学校の時に、読んだから、それ」


「は?」


 後日。

 僕は宮沢一瑠が『天才数学少女』『マリアム・ミルザハニの再来』などとして世間で話題になっていたことを知る。

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