弐 誓詞 その二

最初は夫婦で、道を歩いている時でした。


歩道のない道だったので、なるべく左に寄って歩いていたのですが、それでも並んで歩くと、車道に少しはみ出して歩くことになります。

そんなこともあり、あまり車の通りが多くない道でしたが、念のため後ろに気を配っていたのが幸いしました。


後ろから、猛スピードで車が走ってきたのです。

咄嗟に妻を庇って、道の端に体を寄せたので、間一髪で、車を避けることが出来ました。


その車は、ブレーキも踏まずに走り去って行きました。

車に気づいて振り向いた瞬間に、運転手の顔がちらりと見えましたが、マスクをしてサングラスを掛けていたので、人相までは分かりませんでした。


その車は、明らかに私たち夫婦を、撥ねる積りだったように思われてなりませんでした。

妻はそのことに、かなり怯えていました。


しかし、それだけでは終わりませんでした。

当時私たちは、一軒家を借りて住んでいたのですが、真夜中に放火されたのです。


それもかなり悪質な手口で、裏口を重いもので塞いで、そこから出られないようにした上で、玄関先に灯油缶を置いて火を点けたのです。

明らかに、私たちを焼き殺す意図があったとしか、思えませんでした。


幸い火事に気付くのが早かったため、窓ガラスを内側から割って、外に出ることが出来ました。

そうでなかったら、さすがに助からなかったと思います。


そして、遂にその日が来ました。

妻が日曜礼拝に行ったきり、中々帰って来なかったのです。


妻の携帯に何度掛けても、留守番電話に切り替わるだけで、一向に電話に出ません。

心配になった私は、教会に電話を掛けたのですが、カタギリ神父は不在のようで、電話は繋がりませんでした。


心配になった私は、取り敢えず、教会に行って見ることにしたのです。

教会は特に鍵が掛かっている訳でもなく、すんなり中に入ることが出来ました。


しかし礼拝堂の中は、照明が落ちていて、人の気配がありませんでした。

私は一瞬躊躇しましたが、以前カタギリ神父と個別に話した部屋に行って見ることにしました。


礼拝堂の奥の扉から入り、短い廊下の先がその部屋でした。

扉を開けて室内を覗きましたが、やはり灯りが落ちて、人の気配はありません。


諦めて礼拝堂に戻ろうとした時、首筋に衝撃が走りました。

そして私は、そのまま意識を失ったのです。


***

気がつくと、そこは倉庫の中のようでした。

頭はまだ少し、朦朧としていました。


衝撃を感じた首筋には、強い痛みが残っていました。

その痛みが、私の意識を急速に回復させたのです。


どうやら私は、手足を縛られているようでした。

私の隣には、妻が横たわっていました。

彼女が呼吸をしているのを見て、私はホッとしたのを覚えています。


「気がついたようだね」

その時、暗がりの中から、突然声が掛かりました。


カタギリ神父でした。

彼は立ち上がると、私たちの方に近づいてきました。


「カタギリさん。どうしてこんなことをするんですか」

抗議する私に、彼は冷顔を向けました。


「どうしてだって?

君に誓いを守らせてあげようとしているんだよ」

「誓い?」


「そうだ。

君たち夫婦は、あの日神の御前みまえで誓ったではないか。


『共に死する時まで、互いに愛し、敬い、慈しむ』と。

今がその時だよ」

「あなた、一体何を言ってるんだ!」


しかしカタギリ神父の表情は、微塵も揺らぐことはありませんでした。

「君は、神への誓いを何だと思っているのかね。

神聖で、厳粛で、命を掛けても果たすべき、重いものなのだよ」


カタギリ神父は、そう言って私の顔を覗き込みました。

その眼の奥には、明らかな狂気が宿っていました。


「私は神に仕える身として、君たち夫婦に、誓いを果たさせて上げようとしているだけなのだよ。

これは神が私に与えたもうた、神聖な職責なのだよ」


「私たちには、そんな誓いを果たす義務なんかない!

あんたは、ここが法治国家だってことを分かっているのか?!」


私が叫んだ時、カタギリとは別の声がしました。

「あなた、私との誓いを破る気なの?」


その声の主は、妻のスミレでした。

彼女は、悲しげな眼で私を見ていました。


「ス、スミレ。何を言ってるんだ?!」

驚く僕を無視して、妻は立ち上がり、カタギリ神父と並んで、私を見下ろしたのです。


そして再び、カタギリ神父が語り始めました。

「私はこの教会に赴任して以来、数か月かけてスミレさんを、神の忠実な僕に育て上げたのだよ。

彼女にとって神への誓いは、この世の何物にも変え難い、至上の義務となったのだ。


君と結婚するということを聞いた時、私はスミレさんに言ったのだよ。

君が心の底から、神の御前での誓いを果たす積りがあるかと。


スミレさんは、自信がなさそうだった。

君は、彼女に信頼されていなかったのだよ。

悲しいことではないかね。


そこで私は、彼女に提案したのだ。

例え君にその積りがなくても、スミレさんと君が同時に死ねば、結果的に誓いを果たすことになるのだと」


私はその時悟りました。

知らぬ間に妻のスミレが、目の前の狂人に洗脳され、支配されていたことを。


「私はスミレさんが、この教会に礼拝に来る度に、彼女にヒ素を少量ずつ飲んでもらった」

「そして私は、あなたにも同じ量のヒ素を、ご飯に混ぜて飲ませたの。

でもあなたは、私と一緒に、病んでくれなかった」


カタギリと並んだ妻は、私を糾弾するように言いました。

それを聞きながら、私は言葉を失っていました。


「あの日も、せっかくあの道に誘い出したのに。

一緒に車に轢かれてくれなかった」

あの暴走車を運転したのは、カタギリだったのです。


「せっかく準備して、家に火を点けてもらったのに、私を連れて、窓から逃げてしまった」

「君はことごとく、彼女の期待を裏切り続けたのだよ。

だからね」


「お願いだから今ここで、私と一緒に死んでよ。

神様への誓いを果たすために」


「ああ、それでこそ君たち夫婦は、神の御元へと召されることが出来るのだ。

何という崇高な行いだろう!」


カタギリはスミレに、薪割のようなものを手渡しました。

そして妻は、それを振り上げ、私の頭を目掛けて、振り下ろそうとしたのです。


「警察だ!動くな!」

その時倉庫の扉が開け放たれ、警官がなだれ込んできました。


カタギリと妻がそちらに気を取られている隙に、私は必死に床を転がって、逃げ出したのです。

妻は凶器を振り回して抵抗しましたが、カタギリと共に、警官に取り押さえられました。


実は私、カタギリのこと、をかなり疑わしく思っていたのです。

なのでその日、教会に行く前に、近所に住む友人に、一緒に来てもらっていたのです。


私はその友人に、私が教会に入ってから、三十分経っても出て来ない場合は、すぐに警察に通報してくれるよう、あらかじめ頼んでいました。

そのことで私は、命拾いしたのです。


妻とカタギリは、私への殺人未遂容疑で警察に逮捕されました。

カタギリには、妻への殺人未遂も加わっています。


妻のスミレには、初犯かつ未遂で、カタギリに洗脳されていたことが情状酌量されて、執行猶予付きの判決が下されました。

私も、出来るだけ罪が軽くなるよう、嘆願書を出したりしたのです。


現在彼女は、実家に戻って両親と暮らしています。

精神科に通院して、療養を行っているようですが、一度洗脳されたものを、完全に元に戻すのは、中々時間がかかるようです。


結局スミレとは、離婚しました。

スミレの両親によると、彼女が強く望んだらしいのです。


以上で私の話は、終わりにさせて頂きます。

最後に、皆さんのご意見を伺いたいことがあります。


狂人のカタギリも怖かったのですが、私は洗脳されていることをおくびにも出さず、私と暮らしていた妻の方が、数倍怖いと感じたのです。

皆さんは、どう思われますか?

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