余白が増えた。あの日から

柑月渚乃

余白が増えた。あの日から


 彼女が窓際に座った。ベランダの入り口にある掃き出し窓。


 窓から暖かい風が部屋に吹き込む。




「アイ、花粉症でしょ?窓閉めな」




 彼女は何かに夢中で僕の声なんか聴こえてないようだった。


 青い空の遠くを見つめている。白い雲一つない青の隅を。




 苦いコーヒーの匂いが鼻についた。そういえば、コーヒー淹れたんだった。


 僕は小さな二人用の机の席に座る。もちろん、窓が見える方の席。


 コップごしにぬるい温かさを感じ、喉元を熱いコーヒーが通過した。

 

 僕は一つ息をつく。




 コーヒーの湯気で眼鏡が曇る。


 僕は眼鏡を外して、服の裾でレンズを拭いた。




 ボヤけた視界で彼女を見て、


 テーブルの上にあるコーヒーの甘い黒を見て、


 眼鏡をかけ直した。




 彼女はいつのまにかイヤホンをつけている。


 手帳型のケースに入ったスマホが隣に置かれていた。




 外から鳥の鳴き声が聞こえてきた。


 だけど、今日は不思議と鬱陶しく感じず、森の野鳥のさえずりのような優しいものに聞こえる。




 彼女の黒い髪が風で小さく揺れる。


 窓から差した日の光と相まってそれは一段ときれいに見えた。




 穏やかな時間だった。働き者の時計も今日は休んでいてほしい。



 そんな小さな幸せ、それを僕は噛み締める。




 彼女はいつもそうしていた。


 休みの日の朝は決まって窓辺に座ってショパンの『月光』を聞く。




 音楽をほとんど聞かない僕には分からないが、いい曲なんだと彼女は言う。


 光が反射して、彼女の目は宝石のように輝いていた。




 ふと、机の上に置かれた雑誌の表紙が僕の視界に入る。


 僕は無意識的に内容を思い返した。




『ファン待望の続編!!』


 ああ、そういえば、あの映画、アイ、好きだったよな。




 今度、また連れて行こう。




 前行った時楽しかったな。


 正直、恋愛映画はあんまり好きじゃないけど。




 でも、楽しかった。




 一緒に何か買い物にいこうか。


 なんか欲しがってたものとかあったかな。




 カーテンレールがカラカラと優しい音を立てる。


 彼女のお気に入りの青いカーテンが揺れた。


 風がまたスッと僕を包み込む。




 風でアイの黒髪がなびいている。

 そんな彼女は何かを思い出したように上を少し見て、僕の方を振り返った。




 彼女の眩しい目差しが真っ直ぐ僕を向いた。


 彼女の目がニコッと笑った。


 彼女の口が開いた。




「       」


 僕の呼吸が止まった。


 あれ、アイの声ってどんなんだっけ。 




 急に目の前が白い霧のようなものに遮られる。眼鏡が曇った。

 また僕は服の裾で眼鏡を拭く。でも。その目線の先にもう彼女は居なかった。


 ベランダの外からザアザアと雨の音が聞こえる。空は黒い雲で覆われていた。

 あれほど眩しかった日差ひざしも目差まなざしも、今はどこにもない。


 あれ……?


 あれ?アイの好きな『月光』ってショパンだったっけ。ベートーヴェンだったかな?

 電気もついていない部屋は暗く、不穏な空気が立ち込めている。


 ああ、アイに前教わったのにな。

 アイがどれだけ教えてくれても、やっぱり僕には違いなんて分かんないや。


 写真に映った彼女を見る。僕は冷めた苦いコーヒーを飲み干した。


 私と彼女は一心同体だった。私はアイで、アイは私だった。それを失った僕にはもう、何も──残されていない。






『      』


 また頭の中で忘れた彼女の声が鳴る。春nなってから外はずっと雨だ。外n出ることは減った。傘を差sてまで きた 場所など、もうどこnもな 。

 ああ、 つから僕はこんな風nなってsまったのだろう。


 あの輝kはもう帰ってこな のに。

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余白が増えた。あの日から 柑月渚乃 @_nano_

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