落とし物

柑月渚乃

本文

「おい、ホルン!! 合奏までに仕上げてこいよ!! 一人だけに時間とるのが一番時間の無駄だ!!」


 うわ、マジか。


 音楽室の隅々まで振動する先生の声。さっきまで40人でしていた演奏の何倍も覇気があるその音は一瞬にして空気を凍らせた。

 彼の射線上にいるのは北野。彼女はその緊迫感に押しつぶされそうな目をしている。


 そんな中、俺の心にあったのは安堵感だった。


 北野で良かった。うちの打楽器の誰かじゃなくて。

 でも……それじゃいけないよな。


 先生は相手に刺さる言葉をあえて選び、言うだけ言って、そのまま音楽室を出て行った。苦しくなる胸。俺はできるだけ先生の言葉を耳に入れないように聞いていた。

 それでも聞こえた言葉をマイルドに要約すると、三年生ちゃんとしろだとか、北野以外もできてないやつは沢山いただとかなんとか。


 合奏練は急にブレーキを踏まれ強制的に終了された。扉がガタンと強く閉まって、生徒だけが残った音楽室は最悪な空気になる。


 誰も、彼女を責める人はいなかった。自分がそうなってたかもしれないということを嫌というほど感じていたからだ。

 ──でも、誰にも責められないのもそれで辛いよな。変に皆んなの気持ちを邪推してしまって。


 俺はそんな余計なお世話な考えを回していた。


 その後は結局一日中合奏はできなかった。ミーティングにも先生は姿を現さない。

 ちゃんと考えろとでも言いたいんだろう。まあ、先生はこんなやり方でも全国行ったことあるらしいから別にこれに関して文句は言わない。


 俺たち打楽器は他のパートと違って一人一人楽器も違うから、今日みたいに止められないよう一日中個人練をして終わった。全員、真面目だから誰かの邪魔なんてしたりせず、ずっと真剣にやっていた。


 まあ、というより今日みたいなことをもう二度と起こしたくない。

 自分は怒られたくないという気持ちでやっていたという方が正しそうだ。


 深刻な雰囲気は幹部と本人を除けばミーティング前にはもうなくなっていて、ミーティングが終わるとすぐ皆んなは決まったグループで階段を下っていった。音楽室から一団体ずつ減っていく。


「佐久間、今日は俺塾だから急げー」


 高木の大きな声がガヤガヤとした音楽室の中、一つ強く聞こえた。

 

「すまん、俺、今日鍵の当番だから先帰ってて!」


「りょーかい」


 一人ずつ回ってくる最後に全ての部屋の鍵が閉まっているか確認する鍵当番。正直ダルい。そう思いながらも皆んなが帰るまで俺は適当に時間を潰していた。


「佐久間先輩、さよならー!」


 最後まで残っていたのはホルンの後輩たちだった。


「おお、さよなら」


 彼女達の笑顔にどういう顔で返していいか分からず、俺は何も分かってないような男のふりをして、淡白にそう返した。


 最後の団体が帰って、音楽室は静かになる。体育館から聞こえてくる謎のブザー音。

 まだあっちはやってるのか。


 カーテンを開けると真っ直ぐ音楽室中に赤い光が差し込んだ。

 こっちも鍵は閉まってるな。俺は偉いからきちんと目で確認する。

 というか一回いい加減に確認したやつが部長に怒られていたのを知っている。顧問の先生の耳にまでは入らなかったらしいが、それは部長か副顧問の優しさだろう。


 音楽室と準備室の窓を確認し、廊下に出た時、俺の足が止まった。どこからか管楽器の音が聞こえる。

 上手い。打楽器の俺でも難しいだろうなと感じる音の流れを上手く捉えつつ、音程のズレもない。


 でも、なんか表現がやりすぎなくらい前に出ている。

 演奏は上手い。ただ、なんか胸のあたりを嫌な感触が蠢いた。


 聞こえてくるのは一階下の教室から。時計を見ると四時を十分すぎたくらい。土曜だからまだいいけど、俺だって早く帰りたい。

 そんな気持ちで階段を下り、音の在処の前までやってきた。二年二組。俺は打楽器だし耳がいい方じゃないから区別つかなかったが、ここは確かホルンの練習場所だったはず。ということは……


 ドアを開けると、俺の予想は的中していたことがわかった。音を出していたのは北野だった。

 

「あー! ごめん、佐久間! 今日、鍵当番か!」

 

 俺に気付いた北野はすぐにそう言う。その明るい声になんだかこっちが辛くなる。

 

「北野、偉いな」

 

「いやいや、当然だよ。ごめん、私が鍵当番代わるから」

 

「いや待って。前、そうやって代わったやつが適当に鍵確認して怒られていたの知ってるでしょ? 代わるのも今はNGだよ」

 

「そっか……じゃあすぐ片付けるから!」


 やっぱり気にしてんのかな。そりゃそうか。


 でも、偉いな。


 俺は二年の教室を最後に回して鍵を確認する。次に二年二組に来た時には彼女はいなかった。

 最後に準備室に誰もいないことを確認し、音楽室の鍵を閉める。準備室には彼女のホルンのケースがさっきとは違う位置に戻っていた。

 

 ──なんだろう、なんか力が出ない。

 

 そうして、職員室に鍵を返しにいった時、俺は驚いた。顧問と北野が話している。

 いや、先生が北野を呼び出したとは考えにくい。じゃあ、自分から先生に?気まずすぎだろ。俺だったら絶対にいけない。


 やっぱり、北野はすごい。


「あ、佐久間」


 下駄箱で靴を入れた時、背後からそんな声が聞こえた。振り返った先にいたのは北野。というか、それ以外いるはずもない。


「一緒に帰る?」


「あー、いいよ」


 彼女の問いかけに対して俺は、彼女の今日の姿が色々フラッシュバックしながら、何も考えずに返事をした。


 彼女は歩きながら色々ごめんね、だなんて言う。今日、彼女が謝る姿を何度見ただろう。俺たちは話しながら校門を越える。何か話題を変えるべきな気がした。


「北野って、ホルン上手いよね」


 あ、少し危ういか?絶対、今日言うべきじゃなかったな。言うとしても別の日だろ、邪推されたら、皮肉として受け取られたらどうするんだ。


「ごめん、別にそうじゃなくて。えっと、その、ただ普通に俺は上手いと思うんだけど」


 別にお世辞として受け取られてもいいが、お世辞じゃない。あの音楽室から出た時、二年二組から聞こえたものはすごく上手かった。


「いや、大丈夫だよ。ありがと」


 彼女はそう言ってまた微笑む。良かった。ちゃんと受け取ってもらえてそう。


「──でも、私は三年生の中で一番下手だよ」


 悪寒が回る脳内。一瞬にして世界に裏切られた感覚がした。耳が金縛りにあったよう。

 彼女は少し微笑んでから淡々と冷たいトーンでそう言った。最初から最後まで彼女の表情は変わらない。微笑んだ顔から辛さが零れ落ちたような、そんな言葉。

 彼女の裏が、着ぐるみのチャックが開いてしまったような、そんな感じだった。


 ぐっと俺は息を呑み込む。なんて言えばいいか、分からない。何か言葉を吐こうとするたび、喉から出かかった言葉を腹に戻す。


「うわ、ごめん。そういうつもりじゃなくて! 私、円香先輩のこと尊敬しててさ。あの人はホルンめちゃくちゃ上手かったじゃん。私、あれになりたいの。佐久間はいる?そういう人、なりたい人」


 なりたい人。なりたい……

 歩きながら一歩一歩進む度、何か重いものが背中に増えていくような感触がする。彼女が言った言葉もちゃんと受け取れず、何度も同じ言葉を頭の中で繰り返す。


「……ごめん、私、こっちだから」


 随分、黙っていた。彼女がそう言うまで彼女が止まったことにさえ気付かなかった。


「あー、ごめん。考えておくわ」


「じゃ、じゃあね!」


「うん」


 その時、なんだか北野の顔が見れなかった。一人になった帰り道。俺はさっきの彼女の言葉を反芻していた。


 上手くない、ね。なんか、本当になんか、喉の奥に突っかかって。彼女のあの瞬間の表情が忘れられない。

 そして、何より、なりたい人。あれを言った時の彼女は笑っていた。何か隠すように慌てて笑っていた。

 俺にはできない。


 嫌な感覚を掴んだ時の記憶が掘り起こされる。

 あれは一年前。脳裏に浮かんでくるのは当時打楽器のパートリーダーをしていた堀江先輩。彼女が涙を流しながらも誰も見てない廊下の隅でスネアドラムを叩いていた姿。


 あの日、先輩は先生に暴言をガンガン吐かれ、ずっと音楽室に戻らなかった。

 あんなこと言われたら、一日中練習に身なんて入るわけがない。そう思っていた。

 でも、あの時偶然俺は、見たんだ。泣きながらも努力する先輩の姿を。あの時、俺は……。


 内臓が体から出かかっているようなグロい不快感が足を重くさせる。頭の中を甲高い音が鳴り響いた。気持ち悪い。体が別の人間のものみたいだ。とてつもない気怠さと不快感。


 俺は北野が怒られた時安心した。最低だ。最低だけどその自分ではないという最低な安堵感が二つとない俺の支えだったんだ。

 今、俺にあるのは劣等感。いや劣等感ほど強いものでもなくて、諦めのような冷たさがある、そんな感情。


 俺がなりたかったのは北野と堀江先輩のような感情の揺れを音楽に昇華できる人間だった。

 でも、俺はそれにはなれない。


 二人は俺の憧れ。俺には怒られた二人が輝いて見える。届きそうで決して届かない。


 俺は一年前あの堀江先輩の姿を見た時からきっと憧れてたんだ、なりたかったんだ。こんな薄っぺらい感性してない人間に。


 ……なんてね。


 

 うわ、マジか。


 

 

 そこから数日、俺の打楽器の音から表現が姿を消していた。

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