鯉、陽光を告ぐ

橘 香澄

第1話片目魚

 屋根間の電柱が雲を、重く垂れさがった鈍色を、つっかえるように上へと戻す。雲雀が高く鳴いて、今、継ぎ目をさらっていく。

 男が、その影が見えなくなるまで、空を仰いでいた。白抜きで「民生委員」と書かれたジャケットを着て、何でやろうと思ったんだろうとそればかり考えていた。

まあ、大学に入ってすぐインターンの行き先を決めなければなかったものの、めぼしい所が無かったから、といえばそれまでだったのだが。

男はずっと、何かを強烈に鷲掴(わしづか)みたい衝動に駆られていた。大学での新生活に慣れなくてむしゃくしゃしているのかもしれない。あるいはそれはただの幻想で、休日の昼下がり、住宅街の静けさにやられているのかもしれない。とにかくどうにかしないとと、思うだけ思っていた。

「おい、いつまでぼーっとしてるんや」

 同じ黄色いジャケットの老人が、色を帯びた目で男を睨んだ。怒られると知りながら、男は天に向かって、すんません、と呟いた。

 「全く、初日ぐらいしっかりしぃ……そこの筋やろ、ほら行かんか、早よ」

老人はため息を吐いて、それ以上は言わなかった。背を向けて、路脇に留めた白いミニバンへと歩いていく。ジャケットから、肉の落ちた腕が伸びて見えた。誰しもいつかあんなふうになるのかと思うと、例の衝動が少し和らいだ。

今日は十軒弱回る。さっさと終わらせてしまおう。今日は特に調子が悪い。男は足裏を地面からはがす。雲雀の声は遠くなっていた。

初仕事に相手をするのは、横尾(よこお)敏子(としこ)という。七九歳のばあさんだ。十字路を挟んですぐ向かい側に、表札が見える。

こういうときに限って、車が目の前で対向する。小さく舌打ちをして、車を走って周った。

正面から見るとよくわかる。瓦は幾枚かが落ちていて、土壁には蔦が這っている。空き家と言ってくれたほうがまだましかもしれない。

インターホンもカメラがついていない。厄介なのにあたったな、と男は顔をしかめる。下っ端だからってこき使いやがって。吐き捨てた気持ちは側溝の水に溶けていった。

「こんちはー、民生委員の者です」

第一印象は大事だ。自然と声のトーンが高くなる。

返事はない。二度、三度インターホンを押してみるが、何の物音も聞こえなかった。

先に次を回るか、と思ったとき、玄関扉が開いた。

「すみません、寝てまして……」

背の低いばあさんが、扉にもたれかかるようにして出てきた。白髪交じりの髪を後ろでゆるく束ねている。普段訪ねてくる人もいないのか、品定めするように見る。警戒されては困る。男は口角をあげた。

「初めまして、民生委員のインターンで来ました、小西と申します。今回この地区の担当となりました。よろしくお願いします」

「あらご丁寧に。あたし、横尾敏子といいます」

ばあさんは上目遣いで男――小西を見つめた。顔がこけているからか、蛙のように目玉がぎょろっとしているのが印象的だった。

「……えー、では早速始めていきますね。以前とお変わりありませんか。困ったこととか、ありませんか」

「ちょっと微熱がありまして」

「なるほど、それはお辛いですね。他にはありますか」

「他……ああ、つい先月、孫が死にました」

「えっ」

そこの定食屋さんが美味しくて、と言う口調で、ばあさんは言った。小西は、とっさに言葉が継げなかった。知らなかったのだ。名簿には独身、女、七九歳としか書いていなかった。引継ぎでも言われなかった。最近家族を亡くしたなんて、まったく。

「それは……ご愁傷さまです。失礼ですが、それはいつ頃……」

「そないな話、外でようしませんわ。寒いし中入りなはれ」

「え、いいんですか」

「前の子は遠慮なく入っとったさかい」

 ばあさんは笑って、ドアノブを小西に預ける。

「じゃあ、失礼します」

ドアノブに触れた瞬間、また胸がざわめいた。何なんだ一体――。不安がよぎったが、そんなことは入ってすぐの光景に、どうでもよくなってしまった。

鯉だ。

一匹の錦鯉が、はじけんばかりの肉体をくねらせて、水槽の中を悠々と泳いでいた。大きさは片腕くらいだろうか。ぎょろりとした目で、台から不審者を見上げている。無機質に切り取られた水に、陽光がさしこんで、鱗(うろこ)がきらきらと輝く。ちょうどフェノロサが観音菩薩像を拝んだ時も、こんな心持ちだったのかもしれない。小西はしばらくの間、呼吸を忘れた。

「立派でっしゃろ、家に来てもう四〇年なりますわ」

 ばあさんは上がり框に腰を下ろしていた。鯉がゆっくりと旋回するのを、同じように眺めている。はじめは見せなかった半身を見せる。その時、小西は「あっ」と声をあげた。

「右目が……」

鯉には右の目の玉がなかった。収まりそうな箇所はわずかにくぼんでいるだけで、傷も何もない。白い神経が、皮の下に透けて見えていた。

「不気味でしょ、それ。いじめられたんさ」 

 思わず目線をあげると、ばあさんは黄ばんだ歯を見せて笑う。さっきもそうだった。無理に笑っているとぎこちなくみえるものだが、ばあさんのは違った。子供が宝物を見つけたような、純粋な気持ちから出た笑み。なぜそんな顔で、昏い話ができるのか。小西は何かとんでもなく得体の知れないものと向き合っている気がした。

「まだちいちゃくて、ほかの奴もいっぱいおった時分にね。目をつつかれよったんです」

「そやのに片目魚とか神の使い言う輩もおるんですわ。世の中、薄情なのが多すぎと違いますか、ねえ……」

 一つため息をついて、ばあさんが立ち上がった。

「えーと、何の話やったっけ」

「とりあえず、微熱があるということで」

「ああそうやった、あかんなあ、年取ると物忘れが激しゅうて、最近も……」

「熱はいつごろからですか?朝昼晩は食べれてます?」

 何か話したそうなのを遮って、小西は話を進める。なぜだろう。この人と話していると、胸騒ぎがする。

「熱はおとついの晩からで、平熱よりちょっと高いぐらい。食欲はあります」

「病院には行かれましたか?」

「そうやね、あの古井さんいう病院に行ってきました。朝十時から開いてるから、ええですねん」

「そうですか」

 心配はいらなさそうだな、とノートにメモしながら思った。体調が悪化する危険があれば、行政機関と連携して、病院に繋げなければならないことになっている。なるべく仕事が増えるのは避けたい。

「最近また冷え込んでますからね。温かくして寝てください。それと――」

 言いかけて、小西は唇をなめた。

ためらってしまった。お孫さんのことを、言いださねばと思っていたのに、卑屈に足がすくむ。

そもそもばあさんは孫のことを話すのを覚えているのだろうか。いや、きっと覚えていない。それなら気づかないふりをして帰る――? 

いらないことを考える自分が、少し悲しい。

「桜、もう咲いてるん?」

 独り言のように、ばあさんは言った。

「いやあ、まだまだですね。暖冬だったからですかね」

 テレビでは、まだ開花宣言の文字すら出ていない頃だ。そういうのに疎い人なんだろうか、と心の中で首をかしげる。

「そうか、まだ一緒に見れんなあ。花見もせんと逝ってもうたからなあ……」

静寂の中、鯉の立てる水音だけが聞こえる。

「孫な、自分の部屋で首吊って死んでもうてん。魂が抜ける言うのはああいうことを言うんやな。そっから呆然としとったわ」

「前の日まで元気やったんやで。夕飯のおからな、おいしいおいしい言うて食べてくれてたんやで。ばあちゃん、いつもありがとう言うてなあ、ほんま、何なんやろなあ……」

ばあさんが初めて、淋しそうに笑う。涙は見せまいと笑う。心臓が痛くなる。胸のざわめきが大きくなる。

ああ、そうだ、分かっていた。ばあさんはどこにでもいる優しいばあさんで、自分はむしゃくしゃしているわけでも寂しいわけでもなく、人の気持ちが分からない。それが無性に悔しくて、腹が立って、だから、こんなふうに笑う人の、悲しみ一つもぬぐえない。

ばあさんは目をそらして、扉の外に広がる空を眺めている。一瞬の過ぎ去るのが、何百年と遠く感じた。

「あ、そや。あんたに見せたいもんがあんねん」

 そう言うと、パタパタとスリッパの音を立てながら、奥に入っていった。どこに直したかなあ、あこかなあ、という声だけが響いてくる。

「あ、あったあった」

 そういってばあさんがひょこっと顔を出した。両手で何か支えている。

「これ、見てみい」

 キャンバスいっぱいに、大きな彼岸花が一輪、描かれていた。まるで生きて脈を打っているかのようだ。絵の具の朱色は濃く、線は太く力強く、筆の毛一本一本の動きまで視える。

「……すごい、ですね」

「やろ。孫の作品なんやけどな、あたしのお気に入りやねん」

 美大生やってん、うちの子。はにかんで付け足したばあさんは、この世の誰よりも幸せそうだった。小西の口が、自然と動く。

「いいお孫さんを、お持ちだったんですね」

「そうでしょう」

ばあさんの顔がふにゃけて、歪んで、見ていられなくなった。キャンバスがバタン、と音を立てて倒れる。小西は慌ててばあさんの肩を持つ。

「やめてっ。ほっといて。」

 そのまま崩れ落ちるように、ばあさんは膝をつく。

彼岸花に雨が滴るように、表面に涙のしみがついていく。

声にならない声をあげるばあさんの前で、小西はただ、隣で座っていた。扉の外から柔らかい光がいっぱいに差し込む。遠くでいつぞの雲雀がせわしく鳴く。桜のつぼみが膨らみ初(そ)むる。


ああ、こんな麗らかな日に。

どこかで人が死んでいく。


 小西は振り返る。鯉の片目と目が合った。

 頼むぞ。小西は心の中でつぶやく。

 ばあさんと一緒に、精一杯生きてやれ。そして天国のお孫さんに、その体を見せびらかしてやれ。神の使いなんだろう。それくらいやってやれ。

 ばあさんは泣き続ける。陽光が二人を包む。春はまだ遠い、ある晴れた日だった。

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