7(2)

 北館は二年棟と同じ半分鉄筋半分木造の造りで三階建てだった。泥とほこりにまみれた正面入口の他に各階は連絡通路で二年棟とつながっていた。また建物の横には屋上まで続く鉄パイプと鉄板でできた非常階段が一つついていているため、比較的に内外部は開けた状態にあると言ってよかった。二年棟は四階建てで三階建ての北館と高さが違うが、屋上には外に出ている一階分の階段があるので、屋上もほぼつながっていると言えた。造りは二年棟とほぼ一緒だったが、教室の代わりに学校中のクラブの部室がそこにつまっていた。部屋の七割は現在活動中のクラブが使用していたが二割は体育祭、学園祭に使われる大量の備品の物置として使われていた。そして残りは現在活動を中止している、つまり廃部扱いになったクラブの部室だ。

 建物の中はとんでもなく汚かった。グランドでの練習が主体のラグビー部やらサッカー部が泥だらけになったそのままの姿であちこちに出入りするは、掃除が徹底されていないはで北館全体が泥で汚れた様な雰囲気だった。二階には主犯格のラグビー部とサッカー部の部室があり、廊下のあちこちに雑巾よりひどい状態になったジャージがそこらに落ちていてた。各階の廊下は木の床でできていて、ぎしぎしと激しくきしむ所もあれば、半分腐りかけて穴があいている所もあった。

 通常は体育部員たちの溜り場になっているが、さすがにそこでタバコを吸うような奴はいなかった。なにせ体育教官室が三階にあって上から下まで常に先生が見回っているような状態だった。

 廃部になったクラブは僕が知っている限りでは卓球部、アマチュア無線部、ハンドボール部、そして写真部がある。使用されていない部室は全部カーテンを閉め、鍵をかけられ、中の設備は必要以外のものは全て放置された。夕方薄暗くなって他の部室に明りが灯る頃、全く閉鎖された暗闇の部屋に何かが出そうだと言えばそうかも知れなかった。

 大地震が起きて品川方面で倒壊する建造物があるとすればその一番乗りは絶対この北館だと僕は思っている。


 学校が終わるとすぐに片付け玄関に向かった。靴を履き替え、守衛室をのぞき込むとモシャモシャ髪にしかめっ面の老人がお茶を飲んでいた。今日の当番はキースのようだ。守衛にはもう一人黒髪に黒髭のジミーがいる。校門を出るとすぐにあの直伝後輩の姿を見た。直伝後輩はバスケ部の練習の一つなのだろうか、学校の周りを二十人くらいでぐるぐるランニングをしていた。直伝後輩の身長はその集団の中でも一際飛び抜けていた。集団は全部一年生だけのようだが、直伝後輩だけは前の方で子鴨の先導をする親鴨に見えた。きっと身長が百八十五はあるだろうと思った。僕は反対方向からやって来るその集団と通り過ぎる時、僕はその方向に無意識に振り向いた。ほとんど条件反射みたいなものだった。最近学校のどこかで感じるあの感覚だ。それは他人の視線だった。誰かが僕をのぞき見るようなあの視線のビームだ。誰かの光の波長が僕に向けて絞られているのだ。僕は集団で走るバスケ部の連中を見た。振り向いた先には誰も僕に目をあわせる奴はいなかった。誰もが一心不乱前方を見てせっせと腿を上げて走っている。僕のことを気にかけている奴なんて一人もいなかった。僕は気のせいだと思いながらも、本当はその視線の発信源を忌々しく思っていた。そう考えているうちに駅にたどり着いた。

 帰りの山手線はそんなに混んでなかった。僕は席に座って結局キオスクで買ってしまった『東京ウォーカー』を読みながら池袋を目指していた。とは言っても池袋は必ず通るのだが。僕は映画欄を見ながら『ライトスタッフ』の上映時間を確認した。今からの時間で行けば最後の回には丁度いい時間に到着できそうだ。

 池袋駅に到着して東口に出ると平日だというのに反軍派『恒久平和推進連盟』の連中がいた。所々に小さな旗が飛び出たでかい宣伝カーの上で、でかい声で僕にはよくわからない言語で喚き立てる。車の上には赤いヘルメットをかぶった四人くらいの男が威勢よくびしっと立ち、リーダーらしい男は一歩前へ出てマイクを持ち、残りはビッグサイズの白地に赤の国旗と白地にベンツマークみたいな平和旗を天にかざしていた。車や小さな旗のあおり文句には『武力放棄』、『戦争反対』、『恒久平和』と勇ましく荒々しい字で書かれていた。世の中には色々僕に理解できないことがあるけど、どうもこの『恒平連』の連中の組織構成は一昔前の右翼みたいでよくわからない。活動資金を街頭募金してる連中もいるし、道を歩けばいきなり横からやって来て幸せを祈らせろと言う奴もいるし、今みたいに全学連崩れみたいな気合いだけは入りまくった連中も平気で駅前でがなりたてる。一応組織の代表がいて末端組織と平和推進活動のコミニュケートをとっている話しも聞くがこの有様を見ていると船舶振興会の方がよっぽど頑張ってそうだ。

 もちろん僕には彼らの時計台放送みたいな演説を立ち止まって聞いている暇はないのですぐに映画館に向かった。彼らの声はパルコの交番を過ぎる頃には聞こえなくなっていた。

「・・政府はーわかっていないのだー。民衆の敵である国会の政治はー私腹を肥すためだけに軍を創設しーそのたくわえられた武器弾薬がーどこに飛んで行くのかも考えてはいなーい。弾丸の行きさーきー、それは人間だー。同胞に向かってーその弾丸は飛んで行くのだー。

 私は見たのだー。あの横須賀の悪魔どもがー我々の仲間の尊い命を奪い去って行ったのをー。その光景は残虐で冷酷なー蹂躙だったあー。国民よー、かんちがいしてはならないー。我々は憎しみを持って拳を振りあげるのではないー。慈愛の心で手を差し伸べるのだああああああああああああああ~~~~・・・。

 せんそおおおおおおおおおおう、反たあああああああああああい。

 せんそおおおおおおおおおおう、反たあああああああああああい。

 せんそおおおおおおおおおおう、反たあああああああああああい。

 せんそおおおおおおおおおおう、反たあああああああああああい。

 せんそおぉぉぉぉぉぉぉぉ・・・・・・」


 『ライト・スタッフ』は面白かった。一度観た映画だったけど、長い映画で腰が痛くなったけど、劇場で観た方がリビングにある二十インチのTVより数倍楽しめた。サム・シェパード扮する主人公のパイロットには物事を貫こうとする男の信念とその哀しい一面を感じた。時代に取り残された疎外感。そして物語と時代を突き進めた宇宙飛行士たち。競争意識と茶番劇のスポットライトを浴びた英雄の誕生。

 映画館を出ると外はとっぷりと日が暮れていた。彼方のビル平線(ビル平線とは僕から見えるビルと空の境界線のことだ)からわずかにオレンジ色の層が青黒い空に押し潰されそうになっていた。淡い真珠色をした三日月も雲の隙間から見えた。

 『ライト・スタッフ』は面白かったけど、さてどうしたものだ。クロックを励ますという当初の目的を果たせなかったことが残念だった。まあ、しょうがない。今日のところは諦めよう。明日になればまた何か別のアイデアが浮かぶかも知れない。今日は今日だ。

 僕はピロピロやかましいパチンコ屋の前を通り抜け、ずいぶん昔からある小汚いストリップ劇場(行ったことはない)の前を通り過ぎ、釣具屋の前の自動販売機で缶コーヒーを買って近くの線路沿いの公園のベンチに腰を下ろした。フェンス越しに何台もの電車が通り過ぎる。街は次第にネオンの光をまとい始める。ピンクとブルーの織りなす妖しい色彩。僕は背もたれに身体を預けた。雨にやられて傷んでるせいかギシギシときしむ音がする。だがこのまま壊れることはなさそうだ。ガタッガタッと遠くで電車の音がする。通りの方にはわらわらと人が溢れかえっていた。さっさと家に帰ろうと思っていたが、とてもこの大河の流れに逆らって帰る気にはならなかった。僕は鮭じゃないんだ。僕は少し湿気を帯びた夜の空気に誘発され、体内にこもる熱気を少し放出しようと制服の上着を脱いだ。露になった今日の僕が中に着たYシャツは、僕の大事な人がプレゼントしてくれたものだ。制服でも着れるようにビギの白のシャツを彼女が買ってくれたのだ。このシャツは僕のお気に入りでとっても大事に着ているし、洗濯物はたいてい自分で洗って場合によっちゃアイロンだって自分でかけてるけど、このシャツはわざわざクリーニング屋にお願いして綺麗にしてもらっている。

 目を閉じ、僕は年上の彼女のことを考え始めた。「全然連絡ないなあ」僕は無意識に口に出して言ってしまった。それに気づいて慌てて周りを見渡した。公園には誰もいなかった。少なくとも僕の見渡せる範囲では。でも本当にここのところ顔を合わせてないのは事実だった。僕は彼女に会えるだけでとても嬉しい気持ちになれた。考えただけでも僕の心は満たされる。けれど僕は最近そのことに恐れを抱いていた。もし考えただけで気持ちが満たされることに慣れてしまったら、もう会う必要なんかなくなってしまう。常に感情の飢えを持つことが重要なのだ。


 とは言うものの僕はずっと彼女のことを考え続け、気持ちをあれこれ満たしていた。いいかげんに満足したところで、さあ帰ろうと思った。僕は公園のベンチから腰を上げ、電車の走る音が夜の街に伝わる響きを聞こえてきた。

 さあ、帰ろうと思ったが僕の足は駅の方には向いていなかった。僕は脱いだ上着をバックに押し込んで、公園に沿って駅とは反対方向に歩いて行った。高速道路の高架の下を歩き、サンシャイン60を通り抜けた。豊島郵便局を過ぎると、幾つもの輝く照明に照らし出された区営グランドが見え始めた。僕は横断歩道を越え、フェンス越しに土と芝のグランドを眺めていた。グランドには誰もいなかった。誰もいないグランドのまばゆい光が降り注いでいた。互いに向き合った二つの野球のダイアモンド。そこで僕はあることを思い返していた。それは僕が小学生の頃のことだった。僕はこのグランドにいたことがあるのだ。ただし、僕は試合でグランドに立つことは一度もなかった。僕は少年野球で三年間ずっと補欠だったのだ。その時から僕は徹底的に球技に向いていないことを思い知らされた。あんな惨めな思いはもう御免だった。野球が上手くない野球少年が野球を続けていくことは、子供の世界ではひどく厳しいことだった。ボールを追えばエラーをし、バットを振ればボールにかすりもしない。なけなしの努力も結局無駄に空回りして、下手くそのレッテルが貼られる。その時の監督の顔を僕は忘れはしない。あの時の言葉を忘れはしない。

 僕はさらにそこから思い返すことがあった。それは小学校四年生の時の担任の先生の言葉だった。あの時の言葉も僕の心にひどく残っていた。

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