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「あの時はな。みんなひどく貧しい生活をしていたよ。戦争でな。何もかもが焼けちまったんだよ。わしだけじゃない。みんなそうだったんだよ」

 担任の先生は戦時中の生まれで学童疎開の話しをした。父親を兵隊にとられ、母親と一緒に疎開した経験談は何度か聞いた。しかしその時聞いた先生の話しだけはいつもの笑い話とはちょっと毛色が違った。

「あの時は喰うものも喰えず、遊びたくても遊べずみんな暗い日々を送っていたもんさ。今みたいな恵まれた環境じゃなかったんだ。何にもないところでただお国が勝つだの兵隊は偉いとか子供には関係のないことばかり教えられた。ひどい話しさ。大人たちはイラ立ち、子供は何も知らずにはしゃぐさ。疎開先の雰囲気はやけにすさんでいたよ。わしは昔そういうのに結構敏感な方でな。騒ぎたいのを抑えてお袋をいたわっているつもりだった。特に親父からの手紙が途絶えてからお袋の心労は絶えなかったと思う。わしは君らと同じようにこのままどういう風に生きて行けばいいんだろうと心の底で考える年頃になっていた。

 わしには同じ学年に一人何でも話せる奴がいてな。いわゆる親友だった。性格は一本気で頭も良かった。喧嘩もよくしたがわしらは誰より仲が良かった。わしはよくこれからお国はどうなるんだろう?なんてよく話していた。その友達は「何があっても正道から外れたことはせん」と言っていた。ところがわしにはそんなことを言う考えすらなかった。自分の生き方にますます不安を持つようになった。空が赤くなる夕暮れ時は、どこかで起きている空襲のことが気になった。

 そんな時そいつはやって来たんだよ。疎開が遅れてな。そいつは空襲に巻き込まれて目に怪我したんだよ。先生がこれから来る男の子のそのことに触れないように接するんだよって前もって言ったんだ。わしはなあ、その子が来ることを楽しみにしていた。つまらん疎開生活じゃあ友達といるしか楽しみはなかった。親や先生たちに内緒でこっそり山ん中を暴れ回るくらいしか楽しみはなかったんだ。友達が増えると喜んだもんさ。目の怪我くらいどうとも思っていなかった。

 そしてその子は来た。初めてその子を見た時、わしは驚いた。そいつはな、そいつは片目が腐ってたんだよ。どっちの目だかはもう忘れちまったけど、とにかく片目が腐ってたんだ。白く濁ってグチャグチャしていた。もう片っぽの方はしっかりとした瞳だっただけに腐った目がついている顔が異様だった。わしは仲良くしようと思って話しかける言葉を前の晩まで考えていたが、そんなのはどっかに行っちまった。ワクワクしていた気分はどこかにいっちまった。背筋が凍るほど寒くなった。

 片目の奴はな、意外にも片目であることをハンデと思わず明るい奴だった。こんにちはと元気に挨拶してよろしくお願いしますと言った。そいつはわしとは席が離れていたが当然わしはそいつが気になってその後の授業も気が気がじゃないほど落ち着かなかった。たぶんそいつのことが怖かったんだと思う。戦争のこともそうだし、その顔もなかなか正視できるもんじゃなかった。

 しかし、同時にそいつが驚異にも思えた。何故だと思う?

 わしが最初にそいつを見た時、背筋が凍るほど寒くなった。それはあの不気味さのその向こうで戦争の怖さを感じたからだ。今の君らとたいして変わらんような子供でさえ平等に傷つける戦争の無慈悲さを肌で感じたんだ。

 でも時間が経つにつれてそいつが驚異に思えた。それはな、そいつが戦争の被害者でありながらその恐怖から逃げ切った者だからだ。大勢の人間が死んだ爆撃の雨をかいくぐってそいつは生き延びたからだ。そいつはある意味じゃ強運の持ち主とも言える。後で聞いた話しじゃ空襲で親も兄弟も近所の連中も町内会の人もみんな死んだのにそいつだけはたった一人生き延びたんだ。偶然にしたって凄い話しだ。破壊の雨をかいくぐったんだ。

 自分を被害者だと思っていたが、わしは本当の意味での戦争の被害者じゃなかった。被害を予期して危険を回避したんだ。おまけに過剰な被害者意識に反発した変な強がりもあった。だがそいつは紛れもない被害者だった。目を傷つけられ十分な治療も受けられない哀れな子供だ。わしは急に自分の存在が情けなく思えてきた。わしは自分の無力と無知を自覚した。

 みんなは最初はそいつのことを不気味がったがそいつの持つ雰囲気に妙な気持ちもなくなってしまったようだ。みんないたわりの気持ちで接していたんだろうなあ。教室の連中は素直にそいつを受け入れていてよ。

 わしはどちらかと言うと、そんなに素直にはなれなかったよ。きっと初めに顔を見た時の恐怖心が抜け切れてなかったからだろうなあ。何日か経ってもわしはそいつに話しかけられなかった。妙な照れがわしをどんどん違う方向に引きずり込んで行った。

 いつしかわしには傲慢な気持ちが芽生えてた。

 それからのわしは口々に学校の同級生たちに言い回ったんだ。「あいつあんな目でかわいそうだなあ」って。何気ない一言のつもりだった。そう言葉にすることでわしは自分のエゴを満たしていたんだ。エゴ。わかるか?誰に聞いてもいいから後で調べてみろ。わしは何かにつけて言うんだ。「あいつあんな目でかわいそうだなあ」って。みんなわしに感化されたのか目の悪い友人に優しい顔をした。ひどく優しい顔をしてた。 そしてわしはある日例の友達にも学校の帰りに言ったんだよ。「あいつあんな目でかわいそうだなあ」って。わしはその言葉にもう歯止めがきかなくなっていた。クラス全員に、学校全員に、疎開先の人全員に言わずにいられなくなっていた。当然、その例の友達にもな。

「あいつあんな目でかわいそうだなあ」わしがそう言うとその友達は急に怒り出して俺にこう言ったんだよ。

「何もしてやれないならかわいそうなんて同情めいたこと言うな」そいつは真剣に俺を叱った。わしの言葉に真剣に怒りを示した。俺はその時自分の心を打たれたよ。何もしないくせに同情するな。俺はその時自分の愚かさに自分が恥ずかしくなった。自分に腹が立った。わしは気づかんうちに、いや気づいていたんだ。わしはそいつを見下しとったんだ。そいつのハンデを見ながら優越感に浸っとったんだ。ハンデを見るしか優越感に浸れなかったんだ。わかるか?

 みんなも誰かにかわいそうなんて思う前にそいつに自分がどんなことをしてやれるのか考えてみてくれ」


 九時を回り区営グランドの照明がいつの間にか消えると僕は駅に向かって歩き出した。再びサンシャイン60の裏を通り、今度は東急ハンズの前を通った。駅に近づけば近づくほど人混みはさらに最悪の様相を呈し、千頭の牛の群れが放牧されていた方がまだましのような状態だった。マルボロの宣伝に出て来るようなカウボーイはどこにもおらず、野放しにされていた。いつまでもこんな所にはいられない。早く帰ろうと思った。しかし僕の周りの摩擦係数は増加する一方だった。

 僕がマクドナルドを過ぎ本屋の前を通り過ぎた時、その先にある大通りの横断歩道あたりから突然悲鳴が上がった。僕はその時、視点を定めずにただ駅に向かって歩いていたが反射的にその方向を見た。周囲の人々も同じように一斉にそっちを見た。女の悲鳴だ。続いてまた違う女の悲鳴だ。次々と悲鳴が上がる。何かに恐怖している悲鳴だ。通りの真ん中の大きな島で三十人くらいの人だかりがあった。あの分離帯に何があると言うのだ。その時僕の身体に鈍い衝撃がドンと走った。僕は一瞬よろめいたが倒れはしなかった。誰かが雑踏の大きな流れに逆らって歩いていたようだった。けれどよろめいた自分の身体を立て直し、振り向いた時には、その誰かを確認することはできなかった。放牧牛が幾頭も僕をもみくちゃにした。歩道の信号は青から赤に変わり、僕は通りを渡れずその場に止まった。向こうから慌てて走る人々がこちらに突進して来た。だが分離帯にはまだ何人もその場で群がっていた。僕は身を乗り出したが何も見えなかった。車道の信号は赤くなり、歩道の信号が青くなると、僕は人間そっくりの牛たちを上手くなだめながら、ようやく悲鳴の現場に辿り着いた。

 そこには刃物で刺された男の死体があった。


 僕はようやく家に帰り、楽な格好に着替えた。汗くさくなったシャツは靴下と一緒にまとめて洗濯機に向かって投げつけるように放り込んだ。冷蔵庫からウーロン茶の缶を取り出し、リビングのソファーにドカリと腰を下ろし、ゴクリとウーロン茶を飲んだ。まったく一日の終わりに殺された男の死体を見てしまうなんて、今日は一体なんて日だ。このまま今日は寝るだけなんて、なんて気分の悪いことだろうか。

 刺された男は四十代くらいで身長は百六十センチくらいで頭はてっぺんで禿げていた。やけにギョロッとした目は全く明後日の方に向いていたし、口はだらしなく半開きだった。その表情は寝ぼけた腕白小僧にも見えないことはなかったが、頭のハゲがそれを打ち消した。お腹にドッチボールを抱えたような小太りで、その下の足はやけに短かった。ナイフでスーツの上から胸を刺されたらしく着ていたシャツから血が覗いていた。僕が分離帯についた頃にちょうど警察がやって来て現場検証を始めていた。僕は男の死体を一瞬しか見れずそのまま現場を立ち去り、電車に乗って家路についた。家に帰ってもそのことが気にかかっていたが、疲れていたからTVは見る気になれなかった。どうせこの短時間でそんなに何もかもがわかるはずないのだ。必要以上の情報はいらないし、事件の確認をしてもしょうがない。だいたい僕はニュース番組より早く現場を見たのだ。

 あの事件は一体なんだったんだ。何が起こったというのだろうか?今日の夜に池袋の横断歩道で男が一人殺されたことが全国に報道されるだろう。明日になれば各新聞がさらに詳しく書き立てるだろう。明日の朝刊までにはどんなことがわかるのだろうか?明日になればきっとみんなが必要(殺人事件の情報を必要としている奴なんているだろうか?)としている興味本意の事項は判明するだろう。僕はこの事件が一体どこまでマスコミに取り上げられるか考えてみた。まず、殺人現場の状況と男の身元が報じられるだろう。男の所持品を見れば男の身元なんかすぐわかる。次に男の所属する会社やら何やらの組織の縁故関係が調査されるだろう。まずはそこから犯人捜しが始まるだろう。殺した犯人を捜索する警察の動向も報じられるだろう。

 一体誰があの男を殺したんだろう?動機は何だったのだろう?

 再び僕はクロックに電話した。しかしまたもやクロックはいなかった。どこに行ったかわからない。昨日から家に戻っていないと母親に言われた。僕は「そうですか。帰ったら電話があったことを伝えて下さい」と言った。なんだか頭が手作りビーフシチューみたいになってきた。僕が何か手を加えると目指すべき味がどんどん変わってしまうようだ。だから僕はもう何もすべきじゃないと思った。

 僕はTVとTVゲームの電源を入れ『ブレードランナー』を始めた。このまま布団に入るのも何だか変な気分だったのでTVゲームを眠くなる間でやろうと思った。そのまま眠りに任せてしまえばきっと変なことを考えずにすむだろう。昔から僕は妙な考えにとりつかれると、そのことが頭一杯に膨らんで眠れなくなってしまうのだ。

 画面にデモンストレーションが出るとコンティニューを選んだ。確かデッカードがゾーラを追いつめるとこからだ。このあいだは捜査に失敗して殺されてしまった。

 僕は眠りがやって来るまで何度もゾーラと対決することになった。

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