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 僕は小学生の頃から小説も漫画も同じような視点で常に何かしら読んでいた。信じてもらえないかも知れないけど、小学生の頃に『アダルト・ウルフガイ』を読み、ハードボイルド小説の一端に触れた。学校が推薦するようなお手軽な絵本みたいなお話しは大嫌いだった。中学生になる頃には国内の小説はつまらなくなって海外の小説も読むようになった。まず『猿の惑星』を読んだ。映画ではああいうラストだったが、小説でさらに続く驚きのあのラストを一体何人の人が知っているだろうか?次に『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだ。『重力が衰える時』を読んだ。『ナイル殺人事件』を読んだ。僕は海外の小説をむさぼるように読んでいた時でも、国内の漫画を読み続けた。幼い頃に『ドラえもん』を四十巻そろえたことから始まって、『バリバリ伝説』を全三十八巻そろえ(全部初版)、『アリオン』を読み、『TO-Y』(上条淳士がなかなか作品を単行本化しないのは何か出版社と問題があるのだろうか?)『フェダーイン』『ベムハンター・ソード』『化石の記憶』『東京防衛軍』(最近自爆ネタが冴えない)『ベルセルク』(これこそ最近流行もしくは横行する少女趣味の甘ったれたファンタジー作品全てと対極し踏み潰す唯一の作品だ!)と、とにかく面白い漫画は否定せずなんでもかんでも読み狂った。

 『ドラえもん』は夢と冒険が溢れる漫画だったが、同時に狡猾で油断のならない漫画だった。もう十何年も子供たちの頭の中に潜在し、現在の青年たちも成長期に必ずそれを見ている。小学館の小学一年生~六年生シリーズにはその雑誌の対象とする学年にあわせて主人公の年齢もあわせていた。つまり少年たちが春に『小学三年生』に連載された『ドラえもん』を読み、次の年の春に『小学四年生』を読むとのび太も無事進級しているわけだ。読者の心を掴もうと必死に出版社も策を練っている。あんなに愛らしい顔のネコ型ロボットとは言え、今や一TV局の看板にまでなってしまった。

 長年漫画雑誌を買い続けたおかげで少年誌同士の駆引きも理解できるようになった。

 少年誌の暴帝『ジャンプ』に掲載される漫画には口にするのも恥ずかしいテーマが三つなければいけないことはそこらの小学生でも知っていることだが、その輝かしい発行部数の下に作品を無理矢理殺された作者の気持ちは知られていない。当初作者の思い描いていた世界は、いつしか飽きっぽい読者と強引なタイアップに引っかき回されて物語としては最悪の形で終わりを迎えるのだ。一体どこの世界にだらだらと終わりのない物語を考える作家がいるだろうか?語られるべき物語は終わりこそ全てなのだ。物語の九十九パーセントは、語りべなら最後の一言のため、小説なら最後の一行のため、映画なら最後の一シーンのため、漫画なら最後の一コマのために用意されたものなのだ。それをわかっていない編集者と読者があまりに多すぎる気がする。『北斗の拳』はシンが死んだ時点で辞めるべきだった。『ジョジョ』は三部にスタンドなんて手抜きの超能力を出すべきじゃなかった。ディオは柱の一族(サンタナ)をボディにしたほうが最強の存在になれただろうし、物語はすっきりしたはずだ。僕の好きだった作品はいつも大団円を迎えられず、形を歪められる。

 いつも二の線を踏み続けている『マガジン』『サンデー』等の涙ぐましい努力はあまり知られていない。人気がなければ即刻連載を打ち切り、定期的に嵐のような新連載攻勢で常にヒット作を生み続ける『ジャンプ』に対して、他の雑誌は人気が火について話題になるまでじっと辛抱強く待ち続けた。また、そのヒットした路線を便乗して何とか柳の下のどじょうを狙った。長年読むと雑誌の性格というか狙いがよく読めた。『マガジン』はバイクと不良を全面に押し出した漫画を常時三本は連載して全国の不良たちの舵を取っていたし、『サンデー』の主人公たちは必ず部活動に手を染めていた。『チャンピオン』しばらく低迷していたが、最近新進の作家たちが紙面を賑わしているようだ。ブレイクも近いかも知れない。

 漫画を愛する僕にも許せないものがあった。

 それは毎週毎週何の根拠もなく名前だけ凄い技(?)で戦い続ける漫画と美少女(?)がやたらめったら裸になったり、男に媚び売ったり、ストーリーと関係なくセックスを始める漫画だった。僕はそんな漫画は大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大嫌いだった。でもそんなことでみんなはムキになって話しはしなかった。毎週月曜日は少年ジャンプを買ってきて真っ先に『ドラゴンボール』を読んでいた。


『ドラゴンボール』という長大で矛盾だらけでつぎはぎだらけのストーリーを全く疑問も持たずに受け入れる奴がいる。そいつの名はオウム。強い奴の意見に右にならえだから僕がそう心の中で名付けた。本人には無許可だ。オウムは僕と同じクラスの奴だ。席は窓側で前から二番目だった。オウムは座右の銘が「長いものには巻き付け」だと思わせるほど強いものにおもねる、自分というものが全く無い奴だった。オウムの話す言葉に自分の意志なんてものはカケラもなかった。ただ周りの言葉を反復してるだけだった。仲間うちでもクロックのようにみんなから一目置かれているような奴の意見に対しては巧みに賛同し、時には自分が有利になるように会話を展開していった。しかし、僕ぐらいの対して取柄のない奴に対しては、ワザと意見を無視したり、批判したりした。

「かったりい」と誰かが言えば。

「かったりいよなあ」とオウム返し。

「あいつむかつくんだよ」と誰かが言えば。

「そう、あいつむかつくんだよ」とオウム返し。

「この間、パチンコバカづきでよ」と誰かが言えば。

「俺も、パチンコバカづきでさあ」とオウム返し。

「ほら、この時期にイワシ雲」と僕が言えば。

「お前はジジイか」と馬鹿にする。

 明らかに僕に対するやっかみがオウムにはあった。クロックと自然に会話する僕が許せないような雰囲気だった。何かにつけて僕を挑発する口ぶりで僕のことをを鋭く見ていた。何か僕の言い方が的を外したり間違っていたりすると、軽蔑するような突っ込みでみんなからウケを狙った。僕はオウムが話しに加わっている時はできるだけ喋らないように心がけていた。そうは言ってもたいていオウムはいたが。

 当然のことながら僕は次第にオウムに対して激しい苛立ちと嫌悪に似た感情を抱くようになった。確かに初めの頃は僕は自分の意見を無視されたから腹を立てていた。僕がオウムのカースト制度のピラミッドの下位の階級として見なされていたから頭にきた。どう考えてもあいつが僕より上等な人間とは思えない。しかし、口を閉ざしてから気づいてみると、どうも僕の嫌悪はある種の独自性に対して反応するようだった。僕はむしろ自分の正体をこっそり隠しているオウム自身に対して苛立っていたのだ。オウムの本性はもっと野心的で上級志向を思わせる。強い奴にはおもねるけど、強い奴に敬意を払ってはいない。オウムは他人に調子を合わせることで自分を殺していた。けれど、それがあの小さな世界で自分のポジションをキープする最良の方法なのだ。僕はオウムのその姑息さに嫌悪していたのだ。

 あるいはクロックはそのことに気づいていているのかも知れない。気づいていてそれを言わないのは、たぶんクロックにとってはどうでもいい奴の一人だからだろう。

 とにかくそいつが口を開く度に僕は次第に無口になっていった。そこが例えば授業中でも、例えば仲間うちでも。


 もっと腹立たしいこともある。もっとだ。こともあろうにクラスの連中は僕とオウムが仲がいいと思っていることだ。でも考えても見ると屋上タバコ仲間チーム・クロックの中で悪口にせよやっかみにせよ何かしら一番オウムとやり取りがあるのはそういえば僕なのだ。僕がオウムを嫌おうと周りの連中にはそうは映らないのだから不思議なものだ。そんなようなのが理由の一つにあって、まだ少し先の話しではあるけれど六月を過ぎる頃には僕は昼休みにわざわざ屋上には行かなくなった。

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