リアライズへの導入部

 君は激しく燃えさかる炎を見たことがあるだろうか?


 つい最近のことだ。僕の友人が路上で自ら大量のガソリンを全身に浴びて火ダルマになった。

 真昼間の渋谷の駅前のスクランブル交差点で歩行者用の信号が青になっている間にポリタンクの中に満杯に入ったガソリンを頭から被り、愛用の二万円のオイルライターをポケットから取り出した。蓋を開けると、禁断の領域に足を踏み入れるように身体は少し震えていた。そして火を灯し、青く燃える炎に指を触れた。

 水面に小石を投げ入れた時の波紋のように徐々に悲鳴と恐怖と絶叫が広がっていった。


 それから駅前の交番で立番をしていた警官の一人がその異変に気がついた。異変に気づいた警官はそのガソリンの燃える炎から車同士の衝突かと思い、すぐに奥にいる上司を大声で呼び出した。奥から飛び出した上司は炎を確認すると民衆を避難させるべく二人の部下と共にスクランブル交差点に直ちに向かった。

 渋谷駅前は絶えず人々が切れ間なく歩き続けるため、人混みをかきわけながら叫び声と炎の中心に向かって警官たちは走る。そして次第にその場所で起こっていることが車同士の衝突ではないことに気づいた。警官たちの胸に嫌な予感が走る。これは何だ?普通の炎じゃない。

 ようやく人混みを抜け出し駆けつけた先には不気味な炎が、赤黒い炎の柱があった。異常な炎。その柱が人であると理解するにはほんの数秒の間があったが、やはりそれは紛れもない一人の人間だった。これは何だ?人間がこの渋谷の中心で燃えているのだ。そしてもはやそれが手の施しようのない状態であるのは誰の目にも明らかだった。悪魔のような赤くて黒くて歪んだ炎は誰をも寄せつけず、愚かな人間たちを次の贄に選ぼうと舌なめずりを何度もしていた。三人の警官は顔を見あわせその惨状にただ唖然とするばかりだった。人間が一人完全に燃えている様を見るのは誰もが初めてだったに違いない。若い警官は耐えがたい嘔吐の前兆に身体を地面にあずけていた。その光景を否応なく見せられた渋谷の街の若者たちも同様だった。ある者は固唾を飲んで立ち止まり、ある者は腰を抜かして地面にしゃがみ込んだ。そしてわけもなく興奮して喚き立てる者もいれば、失禁して泣き叫ぶ者もいた。その場にいる全ての者が恐怖と言う名の光景をその目に焼きつけられた。警官たちは精気を抜かれたようにその場に立ち止まっていた。熱い炎の熱気を感じる。目の前がゆらゆらと陽炎のように揺れている。これは現実の光景なのか?いや、幻だ。それもたちの悪い幻覚だ。俺たちはこんな光景を受け入れなければならないのか?現実として処理していくのか?到底無理だ。幻覚として処理しなければ壊れてしまう。頭の中の回路が壊れてしまう。しかし、次第に高まる民衆の叫び声と先に進むことのできない車のクラクションに上司はやっと我に帰り、部下に指示を出した。他の交番からも応援が来てその指示に従った。いよいよくすぶり出した赤黒い柱から民衆を遠ざけ歩道まで下がらせた。渋滞し始めた駅前周辺には、すぐに迂回の指示が出された。本署にさらに応援を頼んだが、誰かが呼んだ消防車が先に二台やって来た。しかし既に地面に崩れ落ちた焼死体からはブスブスと焦げついた匂いのする煙を吐き出すだけだった。

 渋谷のあらゆるところから集まり始めた民衆は、さっきまで炎に身を包んで踊り狂っていた人間をスクランブル交差点によくあるパフォーマンスかアトラクションの類だと思っていたようだ。だが、今はピクリとも動かない焼死体とサイレンを鳴らす消防車やパトカーに耐えられないほどの現実と非現実の恐怖をその脳裏とまぶたに刻みつけられた。警告。警鐘。

 それから日が暮れても現場検証が続き、駅前周辺の道路は交差点付近に通じる道路を通行止めにした。ニュース番組の報道もあったせいか、渋谷駅周辺の歩行者の数はいつもの倍になった。現場を一目見ようとする愚かな人々のためにあちこちで様々なアクシデントが起こって警察と消防の手を煩わせた。

 次の日から渋谷のスクランブル交差点に奇妙なコゲ跡がつき、事情を知らない者たちの顔をしかめさせた。


 ガソリンを被ってから黒コゲの炭の塊ができ上がるまでの始終は、セットしていた五台のビデオカメラのうち四台に収録されていた。

 一台は彼から五メートル以上離れた所に、彼の全身がファインダーにはいるようになっていた。

 一台はその正反対の向きに取り付けられ、周囲の恐怖に歪んだ表情を捕らえていた。

 一台は映画の撮影と称して山手線が背景になるようにビルの四階の喫茶店の窓ごしから。

 一台はスクランブル交差点の全景がはいるようにデパートの屋上から。

 そして炎を数秒だけ撮った最後の一台はこの僕が持たされていた。


 夜。

 僕はカメラを持ったまま電話ボックスに駆け込んだ。興奮と焦燥を抱え込んだまま、僕は彼女の家に電話をかけた。発信音が耳の中を鳴り続ける。恐るべき映像を目の当たりにしたせいだろうか?僕はとまどい、そして容赦のない責めたてるような孤独を感じた。受話器の向こう側はいっこうに繁がる気配はなかった。本当は受話器の向こう側は暗闇に繁がっているような気がした。ガラスの隔壁は僕とそして全ての可能性を秘めた世界を遮断した。夜の電話ボックスの中で孤独が確固として確立していた。周囲には誰一人として(電話を待って並ぶ者も)いなかった。そして彼女の不在が尚一層不安をかきたてる。発信音が鳴り続ける。発信音が尚も鳴り続ける。

 暗闇の世界は今にも僕に牙を剥き出しにして、襲いかかろうとしていた。ガラスの向こう側に何かがザワザワとうごめいているようだった。僕はほんの数秒の映像を捕らえただけのこのカメラを地面に叩きつけたくなった。叩きつけて粉々に踏みつぶしてやりたくなった。僕はガラスの向こう側をにらみつけた。僕は彼の狂気のパフォーマンスにつきあわされたことにひどく後悔の念を覚えた。彼は最初からそのつもりだったのだ。彼はこう言った。「その順番はいつかは誰かに巡るんだ」悪魔が暗闇の向こうで黄色い瞳をキラリと輝かせると僕は気を失ってしまった。

 その夜は星すら見えなかった。


 きっかけはささいなことだった。僕が彼にほんの少し興味を持ったのだ。それが全ての始まりだった。ただその時の僕はそれがどんなに重大なことなのか気づいていなかったのだ。

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