第2話 合宿所の鏡

 これは私が高校生の時に体験した話――


 私の所属するバスケ部では、8月の中旬に信州のとある合宿所で4泊で合宿をすることになっていた。3年生が抜けた後の大切なチームづくりのため、新レギュラー獲得のため、真剣そのもの。だから、23時を過ぎるころには、全員が寝息を立てていた。

 マヤがトイレに行きたくなって目を覚ましたのは深夜1時を過ぎていた。

 同室の3人はぐっすりと寝入っている。

 サキコに声をかける。

「ねえ、サキコ。サキコ……」

 起きる様子がないため、仕方なくひとりで部屋を出た。白い光が規則的に並んでいる。真っ暗な窓に、その光が青白く写っている。

「こわ……」

 鳥肌が立つ。

 誰もいない廊下を進む。スリッパの音が遠くまで響く。

 マヤ以外誰もいないような気がする。


 誰にもすれ違わないままトイレへたどり着いた。スイッチを押して、真っ暗なトイレに明かりを灯す。呼吸をするように一瞬だけピカと光って、じんわりと白くなる。

 用をすませて手を洗う。そのとき、ふと思い出した。

「1つ目、2つ目、3つ…」

このトイレの3つめの手洗い場には鏡がない。それは、そこに鏡を通してあの世と繋がってしまうからだという迷信があった。

 ハーフパンツのポケットにはコンパクトミラーが入っていた。これは絶好の機会かもしれない。昼間の練習がうまくいかなかったせいも助けて、これをやってみようと思った。

 ミラーを開いて、鏡があるべき場所に置いた。覗き込む。


 トイレの薄ピンク色のタイルが写った後、鏡を覗き込む自分と目が合った。顔を両手で触ってみると、鏡に映る自分も同じように動く。

「……なんだ。なんにも起こんないじゃん」

 部屋に戻ろうと思い、ミラーに手を近付けた。すると――


 突然ミラーから手が伸びてきて、私の手首をつかんだ。

「きゃあああああああああああ」

 叫んでも、誰かが起きる様子はない。

 助けて! 助けて!

 振り払おうとしても、びくともしない。

 その手に見覚えがあった。

「ミサ、なの?」

 手首についている黄緑色のシュシュは彼女のお気に入りだった。彼女は私の親友だった。そして、ミサは去年いじめが原因で自殺してしまった。

 クラスの子たちとも対立した。でも、私は彼女を助けられなかった。それどころか、私にいじめの対象が移る前に彼女は自ら命を絶ってしまった。私には何もできなかった。

「ミサ? ミサなんだよね!」

 叫んだ直後、廊下で火災報知器が鳴った。くもりガラス越しにオレンジ色の炎が見えた。

 逃げないと。

 でも、ミサの手は差しほどより力が込められて、痛いほどだ。

「ちょっと、ミサ!」

 扉の左右から煙が侵入してくる。

 このままでは逃げ遅れてしまう。

 けほ……けほ……

「ミサ、助けて」

 しかし、彼女の手は私を離さない。

 これは、ミサにとっての復讐なのだろう。いじめから守ってあげられなかった私への。

「ごめん、ごめん、ミサ、ごめん」

 扉にも火が点いたのだろう。周りの温度が高くなっていく。息をするのもつらい。

「ミサ、ごめん、ごめん、ごめん……」

 私もミサへの罪悪感を忘れた日はなかった。それと同じように、ミサも私への恨みを忘れた日はなかったのだろう。

 もう一度、ミラーの方を見る。すると、その隣の鏡に彼女の顔が浮かんだ。声は聞こえない。でも、口が5回動かした。


 ゆ る さ な い


 親友であるミサの元に行けるなら悔いはない、と目を閉じた時、消防隊が扉を破って私の前に現れた。右手をみると、ミサの手は消えていた。


 その火事は建物を全焼させた。消防隊の活動も虚しく、私以外の部員は火事の犠牲となった。後からわかったことだが、全員が火災報知機やサイレンの音に気づかず、ベッドの上から動くことなく亡くなっていたとのことだった。私は偶然にも非常口に近い場所にいたため助けられたようだ。あの時、ミサが私の手首を掴んでいなかったら――

 もしかしたら、ミサが最後に伝えたかった言葉は


 あ り が と う


 だったのかもしれない。

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