第7話 待ち人来たり

 放課後を告げるチャイムが鳴ると、張り詰められた空気が弛緩していくように教室の中が賑やかになっていく。話し声が広がっていく中、ハジメは1人カバンを持ち教室を出た。

 まとわりつくような視線を感じるが、それもやがて興味を無くしたようにどこかへと消えて無くなった。

 階段に向かいながら、2年生のいる上の階に目をやる。一瞬朱羅を迎えに行こうかと思ったが、そういえば何組かを聞いていなかったことに気が付いた。

 カバンを持ち直して1階に下りていく。教室から離れる程、聞こえる音が少なくなっていく。居心地の悪い時間から解放されて、少しだけ心地が良かった。


 校内で腹太鼓を披露したことは、すでにクラス中に知れ渡っていた。

 朝、教室に入って席に着いた時クラス中の視線がハジメに集まった。そこかしこで笑い声が起こり、遠巻きに気味悪そうな視線を送られていた。ハジメはそれに気づいてはいたが、何か言うことも行動することもしなかった。

 その日は一人で行動していた。誰かが近づいてくることも無く、とりたてて必要な話もなかったので、今日最後に何を喋ったのかと思い出そうとしたが、結局思い出せなかった。


 2階から1階に下りる。正面に見える昇降口には、流石にまだ誰も居なかった。静かな空間に、昼下がりの陽光が穏やかに降り注いでいる。

 昇降口から体育館の方へと向かう。少し歩くと体育館の重厚そうなドアが目に入る。そこを曲がって明かりの届かない廊下に入る。やはり薄暗く、ヒヤリとする冷え込んだ空気が滞留している。

 やがて朱羅と出会った部屋に通じるドアを見つける。それを見て、ハジメはホッとした。消えるはずはないのに、どこか現実離れした世界に感じていた。


 一日経ったら消えて無くなってしまっているのではないかと、昨日ベッドで横になりながらそんなことを考えていた。だから今日学校に着いたらすぐに教室には向かわず、この部屋に足を運んだ。明かりの無い廊下と、その中にある無機質なドア。中には誰もいる気配は無かったけれど、それを見るだけで不安が少し取り除かれた気がした。

 今も、ドアは影を落とし、隙間から明かりは漏れていない。まだ朱羅は来ていないようだった。ドアノブを回すが、ガチャガチャと音が鳴るだけでそれ以上動かない。

 急に静けさが増したようだった。それと同時に一人で居る心細さを感じた。


 もう少しすれば来るだろうと、ドアの前で待つことにした。カバンを置き、壁を背にして体育座りをすると、お尻に冷たい感触が伝わってきた。

 スマホを見ると、時間はまだ3時30分。HR終わりに直行してきたのだから、まだ来るには早いだろうと思った。あとどのくらいで朱羅が来るのかは分からない。けれど待つことは苦ではなかった。朱羅と放課後に会う約束をしていたからだった。

 その時のことを思い出して、温かいものが再び胸の中に溜まっていくの感じた。

 それと同時に、昨日の疲れが朱羅に出ていないか心配になった。

 頭の中の朱羅が、疲れたから今日は休むわと言ってあっさり帰っていく。そんな妄想をしてしまって、慌てて頭を振った。

 そんなことはない。必ず今日も来てくれる。

 そう自分に言い聞かせて、まだ姿を見せない朱羅を待ち続けた。


 やがて昇降口の方が騒がしくなり、こちらに歩いてくる足音が聞こえた。ハジメがここに着いてから、それほど時間は立っていない。足音が近くなると、曲がり角からこちらを覗く顔が現れた。逆光になっていて良く見えなかったが、ハジメは朱羅が来たのかと腰を上げかけた。しかし、そこから徐々に体全体が見えると、それが朱羅ではないことに気が付いた。

 朱羅よりも背の高い女子生徒が、立ってこちらを見ていた。ハジメのことを見つけると、たったかとこちらに歩み寄って来る。

 次第にピントが合ってくる。肩まで伸びたふわりとした髪がぴょんぴょんと跳ねている。

 見たことのない人だった。朱羅ほどではないにせよ膨らんだ胸の上にあるリボンの色が、3年生であることを証明している。

 どうしたものかと思案していると、その女子生徒はハジメの隣まで来て、ハジメと同じように壁を背にして、そのまましゃがみ込んだ。

 ふわりといい香りがして、ハジメはドキドキとしてしまう。座っても女子生徒の方が頭一つ分抜け出していた。

 女子生徒は何か言うでもなく、えへへと笑っている。

 そうしてハジメが体育座りしているのを見て、スカートを抱えて同じように座ったが、冷たかったのか体をピクンと跳ねさせた。

 照れたように髪に手櫛を入れ、そのまま黙ってドアを見つめている。


 見知らぬ男女が暗い廊下で座っているシチュエーションに、ハジメは戸惑った。そして、自分の心臓が高鳴っているのが、静かな空間の中でしっかりと聞こえた。

 キョロキョロと視線を泳がすが、全く間が持たない。呼吸一つするのさえ慎重になる。

 この人は一体誰なのかと、ハジメは考えた。

 まず考えたのは朱羅の友達だということだ。もしくは知り合い。朱羅に用事があって来たのだろうということだ。だがそれなら朱羅と連絡を取り合っているはずだ。こうしてドアの前で待っているのは、ハジメと同じく朱羅の連絡先を知らない場合に限るだろう。

 それはないかと結論付けたとき、

「あの……」

「え?」

 声を掛けられ、ゆっくりと顔を向ける。目が慣れてきて、目鼻立ちがくっきりしているが見て取れた。こちらを優しい目で見つめ、口元は微笑んでいる。警戒心の無い慈愛に満ちた表情が、ハジメの目を引き留めていた。

「どうしてここで座ってるの?」

 告げられたその言葉が頭の中で繰り返される。

 それは貴女もでは?

 と思ったが、そう返すのはこの場に相応しくない答えだと思った。

 ここに座っているのは部屋が開かないからだ。おそらく朱羅がカギを持っているのだろうと当たりを付けたので、結果として朱羅を待っていることになる。 

 そうして昨日のことを思い出していた。

 この部屋を覗き、それが見つかって部屋に連れられ、腹太鼓をした後に胸を鳴らすパフォーマンスの練習。

 それをどうやって話せばいいのか。そもそも全部正直に話していいものかどうか迷っていた。自分一人のことなら構わないが、今回のことは朱羅も関係している。うかつに話してしまえば朱羅にも迷惑が掛かると考えたハジメは、あくまでも自分のスタンスで答えた。

「仲間を待っていたんですよ」

「仲間……?」

 首をかしげて聞き返す彼女の髪が宙に揺れる。その仕草に、またドキリとしてしまう。頬が熱くなっているのを感じて、ここが薄暗くて良かったと安堵した。

「そうです。志を同じくする仲間がここに来るような気がしたんですよ。真に通じ合っているのなら僕の元に集まるはずですからね!」

 早口になってしまい、付け足すように咳をした。

 隣に座る彼女は、仲間……と呟くと、考えるように視線を彷徨わせた。細い指を浮かべて、何かを選ぶように動かしながら、何と言おうか考えているようだった。

 やがて閃いたという様に表情が明るくなると、上半身をハジメの方に乗り出してきた。その近さにハジメの体が硬直してしまう。

「じゃあ、わたしも仲間に入れてくれますか?」

「え?マジで?」

 思わずタメ口になってしまい、慌てて口を塞ぐ。彼女の目はハジメはしっかりと見て答えた。

「はい!マジです!」

 胸の前で両手を握り締める彼女は真剣そのものだった。

「一応聞きますけど、僕たちが何をやってるのか知ってますか?」

 ハジメがそう尋ねると、それに答えるように頭を縦に振った。

「ええと、お腹叩いて、音楽をやるんだよね?昨日クラスの子から聞いたんだけど、合ってる?」

 その言葉に、ハジメはカッと目を見開いた。

 自分が昨日やっていたことを肯定し、その上で仲間になりたいと言ってくれる。

 これはイケる――


 元々自分の腹太鼓と、朱羅の胸を鳴らす、胸クラッカーだけしか考えていなかったが、よくよく考えてみれば音はあればあるほど盛り上がる。当然それには人の数が必要になるわけで、自らやりたいと言ってくれる人は誰だってウェルカムだ。


 彼女がどんな音を出せるのか分からない。けれど人の体は未知数だ。きっとハジメの知らない音楽があるに違いないと思った。

 目の前の道が、急に広がったような気がした。


 そんなことを考えていると、目の前に手が振られていた。ハジメはその手をギュッと握り締めた。

 ほんの少しの抵抗と小さな口から、え?え?と出ているのを気に留めず、ハジメは彼女の目を見て言った。

「今日から僕たちは仲間です。一緒に頑張りましょう!」

 気付けば膝をついて、彼女を見下ろす形となっていた。彼女の手はハジメの手の中でなすがままになっていた。そうしてハジメの目を見て、「はい」と答えた時、奥からチャリンと音が鳴った。

 ハジメが顔を上げると、体育館の入り口近くでこちらを見る人影があった。肩越しに担いだカバン。昨日会った時とは違う制服姿。そこから柔らかい曲線を描く胸のシルエットでそれが誰なのか見当がついた。

 ハジメの視線を追って、彼女もそちらを見た。力の抜けたハジメの手から、彼女の手がすり抜けた。

 傍から見れば、人気の無い所でいかがわしいことをしているように見えたのだろう、慌てて戻っていく影にハジメは大声を上げた。

「先輩!僕です!待って下さい!」

 その声に、影は振り向き、ハジメの存在に気付いて近づいてくる。


 カバンが壁際に放り投げられ、鈍い音を立てた。大股でこちらに突進してくる姿が鮮明になる。


「てめぇだったのか!こんな所でイチャコラしやがって!」

 ネクタイの根元を掴まれ、ハジメのクビが締まっていく。

「違っ、この人が僕の方に近づいて……、隣に座ってぎてーーっ」

「嘘を付くんじゃねぇ!」

「ほんと、それに、フヒュっ、この人も、な、ながまに、なるっえ。おぉんがくやるってぇ」

「そんな奴がいるかー!」

 息が顔に当たるほど近くで睨みつけられる。

 ギリギリと締め上がるネクタイの音を聞きながら、昨日もこんなことがあったなと思い出していると、隣りでおろおろしていた女子生徒が「ほ、本当だよ!」と助け船を出してきた。

 朱羅が彼女の方を見る。その言葉を信じたかどうか分からないが、ネクタイに込められた力が抜け、ハジメは解放された。

 ハジメが咳をしながらネクタイを直していると、心配そうな顔が視界に入った。

「大丈夫?」

 背中に手を置いて優しく声を掛けてくれる女子生徒に、ハジメは答える。

「大丈夫です。昨日も同じようなことがあったので、ゴホ、少し慣れました」

「そ、そうなんだ……結構大変なんだね……」

 同情するような声を掛けていると、放っておかれていた朱羅が二人を睨みつけていた。

「アンタ、こいつの知り合いか?」

 ハジメを示し、尋ねる。女子生徒は姿勢を正すと、腕を胸の前に出してブンブンと降った。

「ううん、さっき初めてそこで会ったの。お部屋が開いてないみたいでドアの前で待ってたから、わたしも一緒に待とうかなって思ったの」

 朱羅の視線が上がる。彼女の目を見て、朱羅は溜息を突いた。

「この変態に何を唆されたんだ?」

「変態じゃないですし、唆してません」

 ハジメが答えるが、朱羅は無視をした。

「音楽って言っても、アンタが思う様なモンじゃねぇよ」

 お断りだと言わんばかりの態度だったが、女子生徒はニコリと笑った。

「うん、知ってるよ。わたしもお腹を叩いたりして音楽やってみたい。貴女みたいに、ジャンプしたり、回転したりは出来ないけれど……」

言葉の最後の方が少し弱弱しくなる。


その言葉に朱羅の目が一段と険しくなる。そしてそれはハジメに向けられた。その視線に対してハジメは首を横に振った。

「僕は言ってません」

「じゃあ何で知ってんだ?」

 朱羅が指を鳴らしながらにじり寄って来る。後ずさるハジメの間に、女子生徒が割って入った。

「ごめんなさい。昨日、開いていたドアから見ていたの」

 目じりを下げ、申し訳なさそうに頭を下げるのを見て、朱羅はそれ以上追及出来なかった。

「何だ、先輩がドアを開けたままにしたせいじゃないですか。とんだとばっちり……」

「てめぇが胸を揉んだせいじゃねぇか!」

 叫ぶ声が廊下に響く。ふと見ると、体育館に入ろうとする男子生徒がこちらを見ているのに、3人とも気が付いた。朱羅は舌打ちをして、ハジメに命じた。

「お前、カギとあたしのカバン取って来い」

「何で僕が……」

「あ、じゃあ、わたし取って来るね」

「「え?」」

 駆け出す姿に、ハジメと朱羅がその場で立ち尽くす。

 カバンを軽々と持ち上げ、廊下に落ちていた赤いタグの付いたカギを拾って来る。

 その姿を見て、ハジメがポツリと言葉を零す。

「あの人、3年生ですよね」

 それを聞いて朱羅も頷いた。

「なんか、犬みてぇだな」

 そんなことを言われているとは知らない女子生徒が帰って来ると、笑顔でカバンと鍵を手渡した。

「はい。どうぞ」

「あ、あぁ」

 すっかり毒気を抜かれ、素直に受け取る朱羅を見て、ハジメはふっと笑ってしまった。

 ギロリと睨まれるがそれだけで、朱羅はカギを開けてドアを開いた。真っ暗な空間が大きな口を開けている。ドアのすぐ横に手を伸ばすと、少し間を置いて目の前が明かりに包まれ、昨日汗を流した部屋が姿を現す。

 

 我が物顔で入っていく朱羅の後をハジメも付いていく。そこで女子生徒が立ち止まったままなのに気が付いた。

 ハジメは廊下に出て「どうぞ」と促すと、「お邪魔します」と言ってドアの天井にぶつけない様少し屈んで入った。

 それを見届けると、体育館の方からこちらを見ている人が数人いた。今度は女子生徒が数人固まっている。

 ハジメは首をすくめるようにして会釈をすると、二人に続いて部屋へ入り、ドアを閉めた。

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