第6話 僕と先輩
あぐらをかいてこちらを見ている朱羅の目が、カッと見開かれる。
「はぁ?なんだそりゃ?小さいのがダメだって言ったのはお前だろ」
「小さいのがダメとは言ってませんが、大きい胸を探していたのは事実ですね」
「ほとんど一緒だろ。まどろっこしいなぁ。はっきり言えよ、オラ」
下から覗くようにガンを飛ばしてくる朱羅の目を見ないようにして、ハジメはスマホを操作してパルクールの動画を映し出した。胸がアップになった所で止め、朱羅に向ける。
「先輩の胸って、この人より大きいじゃないですか」
唐突な質問に、朱羅は顔をしかめた。
「あ?……まぁ、そうなんじゃねぇの?」
ふいと顔を背ける朱羅に、話を続ける。
「胸が大きければ大きいほど、回転とは逆の方向に引っ張られる力が強くなります。なので結果として音が出なくなっています」
そこまで言って、朱羅が顔をこちらに向けてくる。
「おい待てよ。その分勢いが付いて、ぶつかる衝撃が大きいんだろ?その方が大きい音が出せるって話じゃないのか?あたしがTシャツを結んだときにも、可動域がーとか、エネルギーがーとか言ってたじゃねぇか」
噛みつかんばかりに近寄って来る朱羅に、手のひらを向けて制する。
「僕も最初はそう思っていました。大きければ大きいほど、音も大きく出せる。それは正しいけど、それだけじゃダメだったんです。大きさだけでなく、左右の胸をぶつけるタイミングこそ、一番重要な要素だったんです」
そう言うハジメの言葉に、朱羅は持っているタオルを握り締めた。
この部屋で最初に見た、華麗に回る朱羅と、後から付いてくる白いタオル。
遅れて来るそのタオルが、朱羅の胸が鳴らない理由と似ている気がしたのだ。
胸のアップで止まっていた動画を再生する。何回も見た一回転捻りのシーンの最後、回転して着地した瞬間で動画を止める。
「見て下さい。この人が着地して体が正面を向いている時、胸も正面に来ています。最大の回転が加わって着地をすると、体が止まると同時に胸にもしっかりと力が加わっています」
それを見ても、朱羅は納得の顔を見せない。膝の上に手を乗せ、何度も指で叩いている。
今度は朱羅の動画を開く。最後の方まで再生バーをスクロールし、着地した瞬間の所で動画を止める。
「Tシャツで分かりにくいですが、体が正面を向いているのに対して、胸はまだ回っている途中です」
朱羅は先程よりもスマホに顔を近づけて見ている。
「すでに先輩の回転スピードは落ちてしまっています。この状態で胸が正面に来てぶつかっても、衝突エネルギーは小さくなっています。しかも胸が正面に来たとき、横だけでなく縦にも暴れています。これでは力が逃げてしまって、大きな音なんて出ません」
そこまで言って、ハジメは一息つく。 スマホを見つめたままの朱羅が何というのかを待っていた。
やがて顔を上げた朱羅は、ジトっとハジメを見た。
「それはつまり、あたしにも水着になれってことか?」
汚いものを見る目でハジメを見る。ハジメは頭を振った。
「確かにその方が簡単に音は鳴るかもしれません。でも、それはしません」
「ん?そうなのか?」
意外そうな顔でハジメを見る。
「胸の動きをコントロールすればいいだけです。せっかく立派な胸があるんですから、水着で抑えてしまってはもったいないです。この女性よりも、もっと大きな音を出せるだけのポテンシャルが、先輩にはあるんです」
「お前……」
朱羅は怒りもせず呆れもせず、少し驚いた表情で、ただハジメを見つめていた。
「だから僕としては、このままの状態で音が鳴る方法を見つけていきたいと思っています。けれど」
そこで言葉を切った。この先を話すデメリットが頭に浮かぶ。けれどそれを言わないでいることは、ハジメには出来なかった。
「どうした?けれど何だよ」
先を促すように朱羅がハジメの顔を覗き込んだ所で、ハジメは続きを話した。
「先輩の体に負担が掛かっていないか心配なところがあります」
声のトーンが少し下がる。朱羅は驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「心配?体はまだ元気だぜ?」
自分の太ももを二度軽く叩いく朱羅に、ハジメは答えた。
「足もそうですが、下着を付けない状態であれだけ胸を動かして、痛くないんですか?」
その言葉に、朱羅は一瞬虚を突かれたように目を伏せたが、すぐに顔を上げて胸を左右から挟むように揉み始めた。巨大マシュマロが、縦に横にその形を変えていく。
「全然平気だな。下着を付けていた方が楽だけど、まだまだ動けるぜ」
にっと笑って胸を下ろす。朱羅の目を見る。何かを訴える様な目が返って来る。心配するな、まだやれるという想いが伝わってくるようだった。
朱羅は立ち上がり、「さーて、次はどうするかなー」とわざとらしく元気な声を上げると、振り返って歩き出した。
けれどハジメは振り向く間際の、その目の奥に残る不安を見逃さなかった。それがハジメに決断させた。
「いや、今日はもうやめましょう」
そう切り出すと朱羅は足を止めた。こちらを見ると、お前何言ってんの?という目を向けてくる。その眼差しにハジメは少し委縮したが、ここで折れる訳にはいかなかった。部屋の空気が凍るのを、肌で感じていた。
後輩に反発されて、少しイラ立っているようだ。本人はまだまだ物足りないのかもしれないが、今日初めてやったことだから、自分が思っているよりも体に疲れがたまっているだろうとハジメは考えた。
「無理をする必要はないですよ。出来なくても、また明日頑張ればいいんだし。それに、思ったより体が疲れていることだってあるはずです。ほら、アドレナリンが出てるってやつです。きっと家に帰ったら胸が痛てーってなりますよ」
何とか空気を換えようと、大げさにリアクションを取る。
ハジメの演技を見る朱羅は冷ややかな視線を送る。送りながら、何か言いあぐねているようだった。
ハジメが言ったことは、実際ハジメも経験したことだった。
中学時代、吹奏楽部に入ってたくさんの楽器を演奏したことがある。一番最初に演奏したのは古ぼけて色の禿げていた、余りもののトランペットだった。息の吹き方を教えてもらい、慣れないながらも懸命に指を動かし、やっとの思いで出た音がかすれていても、それだけで楽しかった。
楽しかったから疲れなんて感じなかった。
部活の終了時間になってもまだ吹いていたいと思うくらい元気だったが、帰宅している最中に指が強張り始め、食事の時間には箸を持つのが難しかった。次の日には指の痛みの為に部活を見学する羽目になった。
そのことを思い出すと、朱羅に無理はさせたくないと思った。
何も全国大会に行くのではない。ただ楽しく演奏をしたいという気持ちだけでここにいる。
怪我をしたり、演奏自体が嫌いになりたくないし、朱羅にもなって欲しくない。
朱羅が運動が得意であることは、これまでの動きで十分理解している。ハジメよりも遥かに体への負荷耐性があると見える。ハジメが考える様なことにはならないのかもしれない。
けれど何が起こるか分からない。もしかしたら怪我をしてこれ以上続けられなくなるかもしれない。そうすれば、ハジメはまた一人になる。
大好きな音楽。自分が演奏できる音楽。仲間と演奏できる音楽を手放すことになる。ハジメにとって、それは避けたいことだった。
だからといって朱羅に無理をさせていいことにはならないと気付いた。気づいた以上、今日はここで打ち切るのが必然であるとハジメは判断した。
例えこれで仲違いしたとしても、怪我で終わるよりは何倍もマシだ。
振り向いたままの朱羅が首を縦に振ることは無かった。けれどはっきりと断ることもなかった。苦虫を嚙み潰したような苦悶の表情を浮かべ、ハジメを見ている。
ハジメの言ったことを必死に飲み込もうとして、それが上手く出来ないようだった。
無言のまま視線を交わす二人。折れたのは朱羅だった。大きく息を吐いて、膝に手を付く。
「……分かった。お前の言う通り、今日はこれで終わりにしてやる」
その言葉にハジメはほっとして、胸を撫で下ろした。けれど、少し怒っているのが見えて、体中に冷や汗が流れる。
「ありがとうございます。そう言ってもらえてうれしいです」
朱羅が大股で歩いてくる。ハジメの前に立つと、大きな胸を張りながらハジメに指を差し、ぶっきらぼうに言った。
「いいか、明日もやるからな。放課後、またここに来いよ!」
「はい!」
ハジメの心に熱いものが流れ込んでくるのを感じた。また明日も続けられる。それを朱羅も望んでくれている。そのことがとても嬉しかった。
求める音楽はまだまだ遠いけれど、昨日から今日、そして明日と繋がっていく。
「じゃあ、帰るか」
「そうですね、帰りましょう」
ハジメはその場で立ち上がり、朱羅を見る。朱羅はこちらを見たまま、なかなか動かない。なんだろうと思って、ハジメは首をかしげた。
「どうしたんですか?」
「どうしたじゃねぇだろ。着替えるんだから見てんじゃねぇよ」
そう言って、朱羅は換気の為に開けていたドアを指差す。
「あ、すいません」
朱羅の言いたいことに気が付いて、ハジメはドアへと駆け寄った。
薄暗い廊下からひんやりとした風が入って来る。相変わらず薄暗い廊下には誰もいない。ドアの外から隣の体育館の音が聞こえてくる。
ドアノブを掴み、そのまま閉める。カギを掛けて朱羅の方へ戻ると、そこには唖然とした顔があった。
朱羅の元に向かい、母親に良いことをした報告をする子供の様な笑顔を向ける。
「これで大丈夫です。カギも掛けたので、誰も入ってきませんよ」
そう言って、朱羅に背を向けて座るが、その背中に蹴られた衝撃が走る。少し前に体が動くが、ダルマのようにすぐ元の位置に戻る。
「何で蹴るんですか?」
振り返って反論すると、見下したような視線が降ってきた。
「着替えるっつったら、普通出ていくだろうがよ」
今は閉まっているドアを指差し、威嚇するような声色で責めてくる。しかしハジメは淡々と答えた。
「でも、下着を取る時はこれで良かったじゃないですか。どうして出て行かなくちゃいけないんですか?」
「どうしてもだ」
すぐに返ったきた言葉には、太いトゲが付いているようだった。これ以上何か言えば、そのトゲが体を貫いてくる錯覚に陥った。
「わ、分かりましたよ。じゃあ、僕は帰りますから」
慌てて立ち上がり、ドアの方に急いで走っていく。ドアを開け、廊下に出る。振り返ると仁王立ちした朱羅が呆れた顔で見ていた。
「それじゃあ、先輩。また明日」
「おう、またな」
軽く手を上げて応える朱羅に頭を下げ、ドアを閉めた。ドアの向こうから音が切る。先程までいた場所が急に目の前から居なくなり、本当に起きた出来事なのかと、まるで夢を見ていたかのような気持ちになった。
明かりの点いた廊下を歩いて行く。窓の外は夕闇がやってきていて、グラウンドには大きな照明が運動部員たちを照らしていた。
スマホを取り出すと、時間はすでに6時に迫っていた。
仕舞おうとしたところで思いとどまり、カメラの保存フォルダを開いた。一番上には朱羅の動画が残っている。それを見て、これまでのことは現実にあったことなんだという実感が湧いてきた。
スマホを操作し、新しいフォルダを作る。そこに動画を1つ入れると、『新規フォルダ』という味気ない名前が気になった。
少し考えて、思いついた名前を打ち込んでいく。
『ぼでぃパフォーマーズ』と変更されたフォルダに満足したところで、ハジメは教室にカバンを置きっぱなしにしていることに気が付いた。
――明日も楽しくなるぞ――
いつも以上に軽い足取りで、ハジメは教室へと駆け出した。
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