第3話 Iたくて、震える

 ドアが開くと同時に、笛の音が耳に刺さった。

 見るとドアの両脇に黒いスピーカーが置いてあり、そこから堤を打つような音も鳴っている。

 薄暗い所にいたから、天上に吊るされた照明が眩しい。宙を舞う埃が輝いて見えた。目が慣れてくると、部屋の形がクッキリと映った。体育館を小さくしたような作りになっていて、広さはハジメたちの教室より少しだけ広かった。


 その部屋の真ん中に、裸足姿の女子生徒が1人立っていた。

 金色の髪が光りを帯びて、淡く発光している。後ろの髪はバレッタでまとめていて、まとめきれない部分は耳の横から頬へ流れている。

 白いオーバーサイズのTシャツを着て、下には学校指定の緑色のジャージを履いていて、2年生だと分かる。目を閉じて、微動だにせず立っている。

 自然と、ハジメは彼女の胸元を見ていた。女性らしい丸みを帯びているが、今まで声を掛けていた女子生徒に比べれば、少し物足りなかった。


 スピーカーから流れる笛の音が、緩急をつけていく。その音色に合わせて、左手が上がる。右手と右足を遠くに伸ばし、円を描くようにゆっくりと回る。頭の位置は変わらないまま回転し、腰から伸びている白いタオルが、彼女から少し遅れてやってくる。

 そうして一周すると、足を揃えて止まった。

 背筋を伸ばし、左手の甲を腰に当て、右手を大きく開いたかと思えば手の平を自分の顔に近づける。

 笛の音が高くなると、それを合図に右手と右足を横にゆっくり広げていく。手が真横に空を切る動作には、一切のブレがない。

 腕のしなりや足の捌きを見ても、それがただの踊りには見えなかった。

 それらの動きに、ハジメは魅了されていた。

 とても綺麗だと思った。

 自分が今まで何を求めていたのか、この時だけは忘れていた。


 途端に動きが止まった。どうしたのだろうと見ていると、彼女は腰に合ったタオルを思いきり床に叩き付け、

「やってられっか!こんなモン!」

 と大声を上げたのだった。

 ハジメは唖然として、彼女を見つめていた。叩き付けたタオルを素足で何度も踏みつけている。

 先程の優雅さは、もうどこにも無くなっていた。

 そうしてぐちゃぐちゃになったタオルを、それが憎しみの相手であるかのように蹴り飛ばす。それはハジメ目掛けて飛んできたので、ハジメは思わず身を引いた。

 その時、ドアノブを掴んでいた手が離れ、自然とドアが開いていった。

 お互いタオルの行方を見守る中、その途中で視線が交わった。タオルが落ちたことに、誰も気を留めなかった。

 

 しばらく見つめ合う状態が続く。それを破ったのは彼女の方だった。顔がカーっと赤くなり、一目散に駆け寄ってくる。

「てめぇ!何見てやがんだ!」

 スピーカーから流れる音を遮って聞こえる声の大きさに、思わず体をのけ反らせる。

「す、すいません!いや、音楽が聞こえたから何かなぁと思って」

 目の前に来た相手が、ハジメを睨みつける。切れ長の目には凄みがあり、一瞬動けなくなってしまった。ハジメより背が高く、170cmはある。

 手を前に出し、距離を取ろうとするが、相手はその真偽を確かめるようにハジメの顔を覗き込んだ。

「お前、見たことねぇ顔だな」

 視線を下し、赤いネクタイを見て「1年か」と吐き捨てるように言ったその時、体育館のドアがガラガラと音を立てて開いた。そちらを見ると、休憩に向かうバレーボール部が数人出てきて、すぐにハジメの方を見た。怪訝そうな顔を向けられ、何だろうと思っていると、途端にスピーカーの音が止んだ。

 ふいにネクタイが掴まれる。驚いて振り向くと、面倒臭そうな顔で舌打ちをされた。

「とにかく入れ。話は中で聞いてやる」

 ネクタイを掴む手に力が入り、引きづられるようにして部屋へと連れていかれる。

 部屋に入ると手は離され、自由になる。古ぼけたカビ臭さが鼻につく。

 ドアが閉まりカギの掛かる音が聞こえると、ハジメは急に怖くなってしまった。触れてはいけないものに触れてしまったのかと、その場で立ち尽くした。

 

 彼女がハジメの横を通り抜けると、そのまま部屋の右側へ歩いて行った。壁際にカバンや飲み物がある横で、ジャージが放り投げられている。それを着ると、その場にドカっと座り、あぐらをかきながら左ひじを支えに頬を付いた。

「まぁ、座れよ。何もねぇけどな」

 そう言って自嘲気味に笑う彼女の前に移動し、座ろうとした。だが何となく雰囲気を察して正座した。

 正座するハジメを訝しげに見ながら、彼女は「それで」と切り出した。

「何で覗いてたんだよ」

 声に冷たさが宿る。そこまで見られたくなかったのかと、ハジメは申し訳なく感じた。

 覗くつもりは無かったが、他の言い方をすると怒られそうだったので、言葉を合わせることにする。

「この辺をウロウロしていたら、音楽が聞こえてきまして。それで覗いてしまいました」

 すいません、と頭を下げると、頭上に「ふーん」と興味のない声が降ってきた。

「周りが静かだから聞こえねぇと思ってたけど、案外ボロなのな、ここ」

 握り拳を作って、背後の壁をゴンゴンと叩く。無骨な音はすぐに消え、部屋の中に沈黙が落ちる。

 それが苦しくて何か言わなければと思い、ハジメは顔を上げて、相手を見た。

「さっきの踊り」

 ハジメが切り出すと、彼女の肩がピクリと揺れた。

「すごく綺麗でした!こう、流れるみたいな踊り、すごかったです!」

 身振りを交えて伝えたが、似ても似つかない動きになってしまう。

 その言葉に彼女は目を伏せた。その話題を嫌うように、顔を背ける。

「あんなの、何もすごくねーよ。お前の見当違いだ。部活の見学なら、他を当たれ」

 置いてあった飲み物を手に取り、素早く飲む。

 その間、ハジメからは何も反応が無かった。飲み物を置き、ハジメの顔を見る。

 しかしハジメとは目が合わない。視線の先を追っていくと、それは顔の下、ふくらみのある胸部へと移っていることに、彼女は気が付いた。ジャージには「二条」いう刺繍が施されている。

「あぁ、私は二条朱羅ってんだ。もう会うことは無いだろうけどな」

 乾いた笑いをしてみせるが、ハジメは反応しない。

 ハジメは顎に手を当て、視線を左右に滑らせている。

「おい」

 呼びかけにも応じない。

 そこで朱羅は、ハジメが名前ではなく、自分の胸を見ていることに気が付いた。ハジメがここに来た目的を想像し、憤慨した。

「このドスケベ野郎!」

 ハジメの頭を叩くと、「ぎぇ」という声が上がった。

 ハジメが朱羅と顔を合わせ、尋ねる。

「すいません。失礼ですが、何カップですか?」

 答えの代わりに、朱羅の右手が飛んでくる。今度はネクタイではなく、首を鷲掴みにされる。それだけで身動きが取れなくなっていた。

「本当に失礼な奴だな、てめぇは……」

 ドスの効いた声が耳に届くと、首に掛かる力が次第に強くなっていく。息が出来る間に弁解しなくては死んでしまうと、ハジメは両手で朱羅の手を掴んだ。

「け、決してスケベ心で、聞い、たんじゃ……、これはっ、重要な、ことでぇ」

 息継ぎが上手く行かず、ヒューヒューと音が鳴る。しかしそれに構わず、朱羅の詰問は続く。

「重要なことがあるか!」

 このままでは本気で不味いと思い、ありったけの力を振り絞る。

「おんがく!音楽をやってくれる仲間を探しててぇーー」

 半ば叫ぶような声に、「は?音楽?」と返ってくる。

 首に掛かる力が弱まり、解放される。何度かせき込み、慌てて空気を取り込む。

 少し落ち着いてくると、それを待っていたと言わんばかりに質問される。

「音楽って、吹奏楽部みてぇなことか?それなら私は畑違いだろ」

 朱羅が自身の顔を指す。ハジメは息を整えてから、口を開く。

「いえ、それとは違って、自分の体を楽器にして、音を出すんです。それが出来るメンバーを探していたんです」

 苦笑いするハジメに、朱羅は顔を歪めた。

「自分の体を楽器にする……?」

「はい。こんな風に」

 制服越しに自らの腹を二度叩く。軽く叩いただけだからほとんど音は出なかった。だが、それだけで何を言いたいのか朱羅には伝わったようだった。

 首をひねって考え込む朱羅は、さらに質問を重ねた。

「腹を叩いて音を出す音楽……。まぁ、言いたいことはギリギリ分からないことも無いが、それとあたしの胸を見ることに何の関係が……」

 そこまで言って、朱羅は固まった。頭の中で想像したことのバカバカしさを打ち消すように、何度も首を横に振った。

 しかし、その想像は的中していた。ハジメは朱羅の顔を見ながら答えた。

「胸を揺らして、音を出して欲しいんです。こう、ぶつけ合ってですね」

 箱を持つように胸の前に手を広げて左右に揺らす下級生を見て、朱羅は愕然とした。

 こんなことを考え、口に出す奴がいることが信じられなかった。その為に胸を吟味していたことに、薄ら寒さを覚えると同時に哀れと思った。

 だがハジメの考えや気持ちを、完全に否定することは出来なかった。

 音楽や表現の仕方は自由である。これも音楽だ、と言っている点だけは、信じることが出来た。むしろ、ここまでのことが全て冗談だと言われる方が恐ろしかった。

 朱羅は考えを整理するように、ぶつぶつと呟いていた。ハジメが胸を揺らす動作を止めても、それは続いていた。

 やがて何度も小刻みに頷くと、床を指差した。

「よし、じゃあ今ここでやってみろ。お前がやりたい音楽を、あたしに見せてみろ」

 そのセリフにハジメは驚きの余り声を出せなかった。まさか相手から見せろと言われるとは思わなかった。だが、やはり興味を持つ人はどこかにいるのだと、自分の考えに自信を持った。

 この部屋の唯一の出入り口は閉じられ、カギが掛けられている。誰かが入って来ることは無い。今なら、お互い正直になれる。

 自分のことをすでに理解してくれているから、腹太鼓の良さが伝われば、きっと朱羅も仲間になってくれるはずだと確信していた。

 ただ一つ不安な要素はあった。けれど、今は考えないことにした。

 朱羅が真剣な眼差しを、ハジメに向けている。この大きなチャンスを逃す手は無かった。

 正座を解くと、足が痺れてよろめいてしまう。「だらしねぇなぁ」と笑われることに気恥ずかしさを覚えながら、何とか立ち、ブレザーのボタンに手を掛ける。

 上半身裸になるまで、朱羅はその視線を外さなかった。服を脱ぐ過程に驚かず、はみ出る腹にも笑わず、むしろどんなものかと楽しみにしている雰囲気さえあった。

「あの、」

 ハジメの声に「何だ」と返ってくる。

「下も脱いでよろしいでしょうか。パンツは履きますので」

 無言で見つめ合う。ハジメの真剣な目に、朱羅も答える。

「必要か?」

「必要です」

 即答するハジメの言葉に、俯いて指を額に当てた。「うーん」と唸ると同時に、少し笑ったような息が漏れていた。

 朱羅が顔を上げ、壁に背中を預ける。そこには笑顔があり、ハジメは少し安心した。

「分かった分かった。もう好きにやれ。全部見てやるから」

 片方の手をヒラヒラ泳がせるのを見て、ハジメは頭を下げた。

 靴と靴下を脱ぎ、ベルトを外してスラックスを下げる。脱いだものはまとめて脇に寄せた。

 ブリーフ一丁になり、腹部を圧迫するモノが無くなったことで、急に体が軽くなる。これで何があっても言い訳することは出来ない。

 用意が整い、深呼吸をする。朱羅はハジメの音楽を聴く為に姿勢を戻した。

「では、いきます」

 返事は返ってこなかった。

 手を当てる場所に狙いを定め、リズミカルに叩いていく。

 BGMもない無音の部屋で、ハジメの腹だけが鳴り響く。肩や足でリズムを作り、自分が動きたいように動き、叩く強さも場所も思いのままだ。

 楽譜も型も何もない、ハジメだけの音楽を紡いでいく。

 緊張は無く、ただ楽しいという気持ちで満たされていく。

 目の前に座る朱羅は身じろぎ一つせず、黙って見ているだけだった。何を考えているのかハジメには分からなかった。けれど、自分が感じている楽しさや嬉しさが届けばいいなと、そう思わずにはいられなかった。


 演奏が終わると、息が乱れていることに気が付いた。腹は赤みを差し、手は痺れが残っている。それを満足そうに握りしめた時、溜息を吐く声が聞こえた。

 朱羅がこちらを見据えていた。そうしながら、何を言おうか考えているようだった。ハジメは、何かやっちゃったかと不安になった。全力を尽くしたのだから後悔は無いが、いざそれについて言葉を貰うとなると、何と言われるのか恐ろしくなる。

 立ったまま待っていると、やがて朱羅が口を開いた。

「それは将来、何かの役に立つのか?」

 いきなりスケールの大きな話になり、ハジメは呆気に取られてしまった。

 それっきり、言葉は続かなかった。ハジメが何か言うのを待っていた。まっすぐにハジメを見るその瞳は、今までのどの会話の時よりも真剣だった。

 その答えをハジメは考えた。考えた結果、思ったことを口にした。

「そんなの、分からないっす」

 まだ体は興奮していて語尾が乱れてしまったが、朱羅は気にしなかった。

「……どう意味だ」

 一息ついて続ける。

「そのままの意味です。将来と言われても、この先僕がどうなるかなんて僕にだって分からないです。まぁ、でも、多分役になんて立たないかもしれないですね」

 手のひらを上に向けて、大げさにポーズをする。それを見て、朱羅は寂しそうに目を伏せた。

「そうだよな、将来なんて、役に立つかなんて分からない。きっと、お前の言う通りなんだよな」

 そう言って立ち上がると、ハジメと相対する。先程までの強気な態度が影を潜めている。

「まぁ、ガンバレや。応援してるからよ」

 ハジメの横を通り過ぎた時、ハジメは「あ、けど」と呟いた。それに合わせて、朱羅の足が止まる。

「とりあえず、今は楽しいですよ。そんで、今日が楽しかったら、明日も楽しくなるると思うんです。すでに昨日よりも今日の方が楽しいですからね」

 朱羅は振り向かない、真っ直ぐ伸びている手が微かに震えている。

「そういう意味では、将来の役に立ってるんですかね」

 へへーと笑って朱羅を見るが、朱羅は時が止まったかのように動かない。

 それらの言葉を朱羅はどう受け止めたのか、ハジメには分からない。それが答えにならないかもしれないし、楽天的すぎると呆れられたのかもしれない。

 脇に置いてあった制服を手に取り、着替えていく。その間も、朱羅はこちらを向かなかった。彼女だけが知っている、どこか遠い場所を見ているようだった。

 着替えが終わり、朱羅に声を掛ける。

「では、すいませんでした。僕はこれで失礼します」

 ドアの方へ歩こうとした時、いきなり左肩を掴まれた。その強さに後ろへ倒れそうになるのを堪えると、朱羅と目が合った。

 朱羅は何か吹っ切れた笑みを浮かべ、その決心を伝えた。

「いいぜ、あたしもやってやるよ」

「えぇ⁉いいんですか?」

「何だよ、不満か?」

 肩から離れた手が、握り拳へと変わる。危険を察知し、一歩距離を取る。

「いえ、そんな。でもどうしてですか?」

「別に、あたしもやってみたいと思っただけだ」

 キヒヒと口角を上げて笑っているが、冗談を言っている風には見えなかった。

「ありがとうございます。嬉しいです」

「そっか、じゃあ、よろしくな」

 そうして差し出された手だったが、ハジメは握るのをためらった。

「何だよ、半裸になるのは良いくせに、手を握るのは恥ずかしいのか?」

 笑って場を和ませようとしたが、ハジメの意識はそこには無かった。

「いえ、けど、その胸じゃ……」

 二人の視線が朱羅の胸に集まる。膨らみがあり、決して小さくはなかったが、これでは十分な音が出ないのではないかと心配していた。体を動かすことが出来ても、肝心のモノが無ければ意味がない。

 残念そうに見つめるハジメの頭を、朱羅が叩く。

 あまり痛くなかったが、反射的にそこを擦っていると

「後ろ向いとけ」

 と言っておもむろにTシャツの襟を掴んだ。

 慌てて後ろを向く。衣擦れの音が聞こえ、Tシャツが床に落ちる音がする。

 背後で起きている出来事に、心拍数が上がり、急に体が熱くなる。

「胸なんて、邪魔なばかりだと思ってたぜ」

 ただの独り言が、部屋の壁に弾む。

 少しして「もういいぞ」という声が聞こえると、ハジメは恐る恐る振り返った。上半身はTシャツ一枚のままだったが、その変化にハジメは目を見開いた。

 なだらかな丘陵が、瞬く間に盛り上がっていた。

 Tシャツが前へと大きく引っ張られ、その先は滝のように真下へ落ちている。お腹とTシャツの間には空間が出来ており、離れた裾がひらひらと宙に揺れていた。

 これまで長すぎた丈が丁度良い長さに見えたが、それでも引き締まった腹囲とへそが、こちらを覗いていた。


「どうだ、これでも足りねぇか?」

 ハジメはとんでもないという風に首を振った。間違いなく、今日見た中でダントツだった。

「よし、じゃあ、来い。さっそくやるぞ」

 振り向いて部屋の真ん中へ移動していく。振り向いた時に、巨大な双丘が震えるのをハジメは見た。

 付いて行こうとしたところで、無造作に投げ捨てられたブラジャーに気が付いた。グレーの地味なスポーツブラジャーだ。踏んでしまうといけないと思い、それを拾い上げる。意外と重く、上手く掴めなくて手こずっていると、タグが見えた。

 そこには『I 65』と書かれていた。

 ハジメは「あい」と呟くと、それをカバンの側に置き、準備運動をしている先輩に駆け寄った。

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