第7話 目挑心招 再び
初めて彼女に会った時、自分の名前すら普通の声で言えなかった容子が、初めて会った橘さんと、笑顔で会話しながら歩いている。
とても不思議な光景だ。
「で、なんで吉田の元カノがこんなところに居るんだ?」
確かに、真っ当な疑問だ。
「私、2ヶ月前に夫を癌で亡くしたんです。だから今は未亡人。」
「へえ、それで?」
「で、たまたま田舎の知り合いが和哉さんのことを教えてくれて、会いに来ちゃいました。」
「まじか、あんた、行動力あるねぇ」と言いながら、橘さんはご機嫌だった。
しばらく歩くと、煤けた赤提灯に源さんの文字。
なわ暖簾をくぐって、店に入ると「いらっしゃい」とカウンターの奥から源さんの声がした。「あれぇ、美人さんが一緒かい?3人て言うからカウンター席を用意していたんだけれど、ちょっと待ってくんな。すぐに座敷用意させるから。」と言いながら、女将さんに「座敷の用意頼む」と大声で叫んでいた。
少し待って居る間も、あちこちから橘さんに声がかかる。そう、この店は港湾労働者、特にうちの会社の連中の溜まり場だ。
元々この辺は、物価が安いけれど、源さんは僕たちみたいな労働者に優しい店で、呑んで食べてもびっくりするくらい安い。
店内は、年季が入っており小綺麗なお客は一人も居なかった。
皆、潮焼けした連中で、普通のサラリーマンなんか此処で飲む奴は居なかった。
そんな店に容子は平然と居る。
周りの連中の視線など全く気にしておらず、勘三郎の兄貴と笑いながら話している。
「おう、みんな。今日は気分が良いから俺の奢りだ。呑んでくれ!」
まさかの、勘三郎コール。よほど機嫌が良くないと出ない、と言われて居るが今日はそうらしい。此処で働き始めて10年と少しになるが、僕もご相伴に預かったのはこれが3回目くらい。
テーブルには、もつ鍋やガザミ、焼きうどんなんかが並んだ。ちょっと人恋しい季節になってくると旬を迎えるガサミはこの辺の名物で、とにかく美味い。
「お嬢さん」と橘さんが容子に話しかけると、「容子で良いですよ。」と言いながらももつ鍋を取り分けている。
「そうかい?じゃぁ容子ちゃん。あんた別嬪さんだけど、吉田のどこが気に入ったんだい?」と聞かれると、取り分けたもつ鍋を橘さんの前に置きながら「私、高校生の時に和哉さんと付き合っていたんですけれど、ふられちゃいました。内気で、面白くない女だったんですよ。」
「へえ、それで?」
「それでね、振られた娘を見ていられなかった両親が、お見合い話を持ってきて、すぐに結婚したんですけど、悔しくて、絶対和哉さんを見返してやるって、良い女になって、後悔させてやるって決めたんです。」
「なるほど。」
「でもね、この人いつの間にか地元から居なくなっていて、行方知れず。やっと見つけて、仕返しをしに此処に来たんです。」
「本当かよ。どうなんだ吉田ぁ」
「いやぁ、まいったな。」言葉が出ない。こんなに酔っ払いを上手にあしらいながら、この場にすんなり馴染んでいる容子は、僕の全く知らない一面を見せていた。
「吉田ぁ、お前には勿体無いぞ」
「橘さん、勿体無いって私、和哉さんと付き合って居る訳じゃなくて、仕返ししに来ただけですから。ただの未亡人の空き家ですよ」
「言うねぇ、ますます気に入った。飲みなよ、飲みな。」
容子のあまりの上手な立ち回りで、店中がすごい熱気になっている。
時計がそろそろてっぺんを指す頃には、男たちは酔い潰れていった。静けさを取り戻して来た頃、大将が暖簾をしまい提灯の灯りを消した。
そして僕のところにやって来ると「良い人見つけたじゃねえか、大事にしろよ」って耳打ちして奥に引っ込んでいった。
会計は橘さんの奢りだから、お礼を言って帰ることにした。
「あのう、橘さん少しの間仕事休んでも良いですか?」と聞くと
ニヤッと笑いながら「大事にしろよ」って言って送り出してくれた。
店を出ると、いつの間にかタクシーを呼んであり、僕たちはそれに乗せられた。
「すみません、小倉駅の裏のビジネスホテルまでお願いします。」と伝えると、タクシーの運転手は車を走らせた。
いつの間にか、歩いて結構な距離を来てしまい、さすがにホテルに戻るのにどうしようと思っていたが、橘さんは俺が誘ったんだから、と言いながら気遣ってくれた。
程なくして、ホテルの前についたタクシーから容子を降ろそうとすると、流石に疲れたのだろう、うとうとし始めていた。
「容子、ホテルついたよ」と声をかけるが、酔っていて返事がない。
仕方ないので、一緒にタクシーを降り、彼女を脇に抱えながらフロントに行った。
フロントで鍵を預かり、部屋まで送り届けて帰ろうとしていたが、鍵を渡される時、2名様のご宿泊になってますよ。明日、朝食はいかがいたしますか?と聞かれた。」
確信犯か、と思い明日の朝食はビュッフェで頂きますと言ってエレベーターに乗った。
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