第3話 事実は小説より奇なり
兎に角着替えなければ、寝起きで髪はバサバサな所に無精髭は伸び放題。日雇いの仕事をしていると、外見なんて気にして居られない。体力勝負だから、むしろ汚いくらいで丁度いい。
しかし、今は違う。大急ぎで風呂場に行き、バランスがまのスイッチをひねる。弱々しいお湯が出てくるのをじっと待って、シャンプーをし、髭をあたる。
日々、港湾労働に混じって潮焼けした顔は、昔とは考えられないくらいシワだらけの顔になっていた。
髭をあたるのに鏡を見ていると、なぜか込み上げてくるものがある。「何故だ。何故彼女は会いに来た。そんな大切な話なんて、ある筈ないのに。」
僕が生まれたのは、北関東のハズレの小さな町で、彼女は今でもそこに住んでいると思う。そして今僕の住んでいるのは福岡県の北九州市。直線距離にしたってゆうに1000キロ以上はある。そんな所まで何故。疑問しかなかった。
急いでシャワーを済ませ、着替えた僕はポロシャツにチノパンといった出立ちで、アパートを出た。鉄製の錆びた階段を、ご近所の迷惑にならない様に足音を忍ばせつつも急いで降り、駅に続く道を歩いた。
家賃が安いため、駅までは少し遠い。普段、仕事に行く時は自転車で駅まで行くのだが、その自転車も仕事のヘルメットや小道具を載せてあり、歩く事にした。
暫く歩くと、駅前のロータリーの横にその喫茶店はあった。コーヒー好きの僕は月に何度かここに通う。もう、離婚してすぐに此処に越してからだから、かれこれ10年は通っている。当然マスターとも知り合いだし。いつも来店時は1人で来る。
店のドアを開けると、ドアの上に取り付けてあるベルが、
「いらっしゃい」カウンター越しにマスターと目が合う。いつもと違う出立ちに、怪訝そうな顔をしたマスターをよそ目に、店内を見渡す。それほど広い店ではないのですぐに彼女を見つけた。
心臓が痛いほどなっている。夢遊病者の様な足取りで、彼女に近づく。
「すみません、お待たせしました。」
窓から外を眺めて居た彼女がこちらを向く。40年前の面影がある。確かに重ねた年齢の重みはあると思うが、綺麗だった。若い頃より少しスッキリした輪郭に薄くひいいた淡い色の口紅がよく似合っている。
「すみません、突然。来ちゃいました。」とちょっと苦笑いの様な表情を浮かべ、眉を寄せた。
僕は4人掛けのテーブルの彼女が座って居る対角線の位置に座った。
気を利かせたマスターは、水の入ったコップを僕の前に置き、無言で下がっていった。そして数分後、いつも僕が頼んでいるキリマンジャロを入れたコーヒーカップを僕の前に差し出し、もう片方の手に持って居たフラスコのコーヒーを彼女のカップに注いで下がっていった。
「今でもキリマンしか飲まないのね。」と言う彼女に、「ひょっとしてそのコーヒーもキリマンジャロ?」と聞くと、はじめて彼女の表情に笑みが溢れた。
「此処のお店に入ってすぐに、ホットコーヒーとかアイスコーヒーって書いたある下にキリマンジャロって書いてあったの。だからすぐに判ったわ。」
そう、このコーヒーは僕が無理強いしてメニューに加えてもらった。マスターは渋い顔をしながら、週に3杯以上は飲んで貰わないと、と言いつつ入れてくれた。そして此処に通って以来、僕はキリマンジャロを飲んでいる。
暫く沈黙が続く。その空気を破ったのは彼女だった。
「2ヶ月前に、主人が他界したの。そして一昨日、49日の方法を済ませたわ。」
突然の来訪に、突然のカミングアウト、何故それが、僕とどんな関係があると言うのだろうか。
「人はいつか死ぬ。気づいた時末期のガンで、余命半年と言われたけど1年ちょっと頑張ってくれた。」俯く彼女は涙ぐみながら、「実は、私、あなたの子を産んでいたの。」
「… …?」
「貴方と別れた後、既にお見合いの話が決まっていて、そう、貴方とうまく行って居ないことを心配した両親が、まだ別れて居ないうちから、勝手に見合い話を進めていたの。気が進まなかったけれど、気持ちが落ち込んじゃっていて、反対する元気もなく流される侭にお見合いして、でも気づかない内に、私妊娠してる事が発覚して、そしたら周りは勝手にお見合い相手の子だと思い込んで大慌てで式を上げる事になったの。」「ううん、違う。この子は貴方の子では無いと何度も言いそうになったけど、結局言えなかった。多分薄々主人も気づいていたと思うけど。」
とんでも無い爆弾発言だった。
一瞬、心臓の鼓動が止まった様に感じ、目の前が暗くなった。
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