第29話 古き貴族の矜持
「いったい………いったい何が起こったというのだ??」
オルレアン公は街道を陸続と続く歩兵の波を見て絶句した。
ざっと見ただけでもその規模は連隊レベルを大きく上回っていた。
――――いくらなんでも早すぎる。
確かに国軍は常備兵力を所有しているが、それは必ずしも即応体制にあることを意味しない。
通常遠征が計画される場合には編成から集結と補給の準備が整うまで下手をすれば1ケ月近い時間を必要としたはずであった。
「まさか………オーストリア女は魔術でも使うのか……?」
そんな迷信じみた恐怖にかられてオルレアン公は身を震わせた。
自分には理解のできない出来事を経験した人間は往々にしてその理解のできなかった事象に恐怖を抱く。
まさにオルレアン公もほとんど幽霊を目撃したような恐怖を感じると同時に、現実に武装した兵が自らの命を奪いにくるのだという事実に惑乱した。
「伝令を出せ!早く諸侯にこの事実を知らせるのだ!」
どんなに贔屓目に見ても配下の騎士たちが領地の部下の動員を完了するまでにあと2,3日の時間が必要である。
それがさらに移動して城まで到着するまでには下手をすれば5日は見ておかなければならないかもしれない。
十中八九までこの城はそれまでもたないに違いなかった。
ならば軍事的にではなく諸侯の政治的な仲介を要請することこそがオルレアン公が生き残る唯一に可能性であるのかもしれなかった。
もっとも生き残るということに限ればこのまま王国軍に降伏するのがもっとも確実であることも確かである。
息子ルイ・フィリップの国王暗殺計画と自分は無関係であり、フィリップの逮捕に協力する用意があると申し出ればいくらマリー王妃でも筆頭貴族であるオルレアン公を処断することは不可能だろう。
しかしオーストリア女に膝を屈して生き残るという選択肢はオルレアン公の中にはない。
愚かな国王が骨抜きにされた今、オーストリア女にフランスの誇り高きアンシャンレジームの美を見せつけられるのは自分だけだ。
それがフランスの三分の一の領土と富を所有すると言われた比類なき名門、オルレアン家に生まれたものの矜持であった。
「開門されよ!暗殺の首謀者ルイ・フィリップとその係累を取り調べよとの陛下の命である!決して無実の罪には問わぬゆえ身に覚えなくば進んで協力されたい!」
軍使が城門に馬を進めて大音声に呼ばわるとオルレアン公は首を振って呵々と大笑した。
矮小なる平民風情が国王の威を借りて貴族を捕えんとするか、もっとも国王に等しき無二の名門オルレアン家の当主を。
そんなことが許されてよいはずがあろうか?否!断じて否!
「国王の威を借りる狐とその郎党どもよ。たとえこの身が朽ちようとも貴様らに我らが誇りを傷つけさせはせぬ!」
アンシャンレジームという言葉はフランス革命以前の旧体制や旧制度を表すためにアレクシス・ド・トクヴィルが歴史用語として使用を始めたとされている。
したがってこの時点でアンシャンレジームという表現が貴族の間で使用されていたわけではない、が彼らは共通して自分が平民とは違う何者かであるという強い矜持を持ち合わせていた。
その中には貴族としての矜持を命を省みない蛮勇によって見せつけるというプライドも内抱されている。
イギリスのノーブレス・オブリージュよりも閉鎖的で独善的であるとはいえ、平民とは違う何かをなさねばならぬというイギリス貴族より遥かに濃い衝動をフランス貴族は体現していた。
だからこそフランスはイギリス以上にここまで封建制度が長く存続したのかもしれない。
この瞬間古き良き時代の騎士のように、オルレアン公はアンシャンレジームのために殉教することを何のためらいもなく決意したのである。
「…………死ぬ気ですかね?」
「良くも悪くも公爵は古い貴族の慣習に染まりきっている。降伏を選ぶことなどありえない―――――まあ、王妃殿下の予想通りってわけだ」
攻城を任されたセリュリエは深いため息とともに自らの所属する貴族という階級が失われてゆく未来を思わずにはいられなかった。
国王は貴族制度を廃止するつもりはないと聞いたことがあるが、貴族社会の象徴であるオルレアン家が討伐されてはたして同じ形で貴族が生き延びていけるだろうか。
おそらくは名ばかりの貴族と言う名の骸だけが哀れな姿をさらすことになるのでは―――――――。
(いや、この貴族の誇りが決して失われてなるものか!)
気高い勇気の発露を見せたオルレアン公を美しいままに葬り、後世にフランス貴族の在り方を伝えなければならない。
部下達の誰にも理解されまい理由を胸にしまい、セリュリエは決然と攻撃の命令をくだした。
「――――――攻撃開始」
勇将の下に弱卒なしという言葉がある。
数こそ少なかったがオルレアン公の配下の者たちは勇敢に戦った。
しかし個人の勇者も訓練された集団の歩兵には決して勝てないのが近代戦である。
時として王国軍の肝を冷やす活躍を見せることはあったが、たちまち各所で被害が激増していく。
このまま被害が拡大すれば近いうちに防御を維持できなくなることは明らかであった。
「見事だサリエルよ!お主の忠勤しかと見届けた!」
長年つき従ってきた古兵が蜂の巣のように被弾して全身を真っ赤に染めて倒れるのを目を細めてオルレアン公は賞賛した。
もともと勝てるなどという幻想は抱いていない。
ここまで貴族への迫害があからさまになった今、精一杯誇り高く死んでいくことこそが残されていく貴族たちへの何よりのメッセージとなるだろう。
いまだ捕まっていないところを見ればあの抜け目のない息子のことだ。
きっとうまいこと逃げ延びるに違いない。
「思ったより早かったな――――――」
「公爵様、よろしいので?」
「いまさら逃げよなどとは言うなよ?」
オルレアン公は幼いころからの右腕であった執事に微笑んで見せた。
常に主のことを最優先にするこの優秀な部下であれば、この絶望的な状況下であっても何らかの手段を講じてくれることに疑いはない。
しかしそれを受け入れてしまっては自分はオルレアン公であってオルレアン公ではなくなる。
「――――――アレクサンドル、お前は生きよ。そしてもし息子が生きておれば次代のオルレアン公として補佐してやってくれ」
「公爵様――――!」
平民も貴族も平等な人間であるという者がいる。
だがそれは決して真実ではない。
世の中には選ばれたものだけが決断すべき判断があり、それを民に委ねようとするのは愚かもののすることだ。
ゆえにこそ、選ばれた貴族にこうして忠誠を誓う順良な平民たちがいる。
相対化して社会構造を俯瞰してみるならば、オルレアン公の見識も一面の真実をついていると言えるかもしれなかった。
ただ世界の流れがそうした考えをぬぐい去ろうと動いていることもまた事実であった。
今まで不変であると信じていたものが失われようとしている。
ならばいつか蘇るための道しるべを残しておくことが自らに与えられた使命であろう。
フランス貴族に比類なきオルレアン家の最後が見苦しいものであってよいはずがないのだ。
「………急げ。この城はもう長くは持たん」
そう言ってオルレアン公は莞爾と笑って優しく下僕たちに手を振った。
その悠然たる風格に彼らは滂沱と涙を流し主人殿別れを惜しむのだった。
農奴や知識人は別の意見があろうが、少なくとも彼らにとってはオルレアン公は得難い尊敬すべき主人であったのである。
「公爵様!敵が内郭に侵入します!」
「…………さらばだ!お前達の忠勤は忘れぬ」
「公爵様!」
「ご主人さま!」
百年戦争末期、アルチュール・ド・リッシュモン伯が砲兵の大量集中使用による新戦術を構築して以来城塞の防御力は防御火力の充実なしには張り子の虎同然となってしまっていた。
残念なことに砲兵火力において十倍近い差をつけられている以上この結果は必然だった。
これが歩兵だけならばあるいは味方の来着まで粘ることも可能であったかもしれないが、だからこそ国軍も万難を排して砲をかき集めたのだろう。
いったいどんな魔法を使ったのかはわからないが、その手腕だけは褒めてやってもよい。
オルレアン公は非戦闘員が脱出するのを見届けると最後の戦いを挑むための残兵を集結させた。
その数わずかに三十あまり。
その気になれば数万の大兵を擁することも難しくないオルレアン家の最後を飾るにはいささか寂しい気もするがここまで残ってくれた勇敢無比な兵つわものに不満などない。
あとは貴族の名に恥じぬよう――――勇者のごとく倒れるのみ。
「礼を言うぞ。この老人に死に花を咲かせてくれて」
一斉射撃の轟音とともになだれ込んでくる国軍歩兵に向かって、雄たけびをあげてオルレアン公と最後の兵士たちは突撃した。
それが何の効果もないことを十分に知っていながら剣を振りかざし、敵に向かって一途に走るその姿は確かに古き良き騎士の時代の風を感じさせた。
名誉のためには非合理的であっても勝てぬ相手でもためらわずに立ち向かう。
誰に命じられるわけでもなくただ自らの魂が命ずるままに戦うのだ。
戦う理由は決して他人から与えられるものではない。
――――――その思想は決して近代国家に受け入れられるものではなかったのだが。
「オルレアン公爵家の意地と名誉を見よ!」
硝煙の煙る焦げ臭い火薬の匂いのなかで、オルレアン公の大音声がこだました。
そのしわがれていながら重く腹に響く蛮声は、その後長く兵たちの耳の奥に残り夜の眠りを悩ませたという。
オルレアン公死す。
フランス王国の貴族中でもっとも強大でもっとも栄誉ある象徴の死は全土の貴族を震撼させた。
シャルトル公領や派兵の準備中であったオルレアン派の貴族たちも相次いで国軍の討伐を受け、ほとんど抵抗らしい抵抗もできぬままに屈服を余儀なくされその財産は王室に没収されたのである。
なかでもオルレアン公領に残された財産は莫大というほかはなく、これだけで王室の借金が激減することになるのは確実だった。
残された貴族たちは激怒し、かつ恐怖した。
オーストリア人である王妃がオルレアン公討伐の命を下したことに。
そして王位継承権の上位に位置するオルレアン公を助命することなく躊躇なく殺してみせたことに。
だが何より魔法のような兵の動員と迅速な機動の速度と――――久しく経験していない内戦がごく近い現実になってしまったという事実に。
ショワズールをはじめとする旧体制派貴族は戦うべきか、恭順するべきか懊悩していた。
少なくとも各個が衝動的に戦うことだけは避けなくてはならなかった。
機動で国軍が大幅に上回る以上、集中で勝らなくては勝ち目などあるはずがなかったからである。
王国陸軍も決して魔法を使っていたわけではなく、参謀本部が輸送と補給を計画していた実働戦力は最大でも二個師団に満たないものでしかなかった。
その気になればフランス王国の貴族が結集した場合の兵力は優にその三倍以上を揃えることができるだろう。
しかし結局彼らは勝算の立たない戦いを挑むことを躊躇のすえ断念せざるをえなかった。
ひとつは血気盛んな有力貴族がすでに新大陸の独立戦争にいってしまっているということ。
――――――――そしてもうひとつ、国境で強大な圧力をかけてくるある大国の存在があったからである。
「貴方は自分が何をしているかわかっているの―――――?」
テレジアの声は悲鳴に近かった。
年老いてなお若々しく瑞々しい美声がわずかにひび割れているように聞こえるのは彼女の動揺の深さゆえであろうか。
母が血相をかえて激怒している様子を興味深そうに眺めた男は満足気に微笑んだ。
「何をそんなに取り乱されているのです?母上―――――私は可愛い妹を擁護するために少々手を差し伸べてやっただけですのに」
「それがあの娘を―――――カロリーナを危うくするかわからないとでも言うの?」
国境沿いに展開したオーストリア軍およそ二万名は、摂政マリー・シャルロットを害する動きがあった場合にはただちに国境を突破しフランス王国に侵攻するよう厳命されていた。
確かに一時的にはシャルロットに敵対しようという動きは阻害されるだろう。
しかし長期的にはシャルロットが結局はオーストリア人であり、最終的にフランスはオーストリアの下風に立たされるのではないかという無用な疑念を抱かれる結果に終わるのことを長年政治の一線に立ってきたテレジアは正しく洞察していた。
「わかっていないのは貴女のほうだ、母上。あれは貴女の娘なのですぞ?その程度のことを覚悟していないとでも?」
「そこまでわかっていながら貴方はっっ!!」
ハプスブルグの産んだ政治的怪物であるマリア・テレジアである。
どのように娘が決断し、どのような覚悟を娘がしたか十分に承知していた。
だからといってそれが容認できるかどうかは別な話である。
彼女は政治家である前に母として娘に幸せな人生を生きてくれることを望んでいるのだから。
ヨーゼフ二世は嗤った。
いまさら何を言う。
あの可愛い妹にハプスブルグ家の流儀を仕込んだのは貴女ではないか、母上。
そして私を皇帝の座に据えたのも。
早すぎた啓蒙君主としてとかくフリードリヒ二世と比較され酷評されることも多いヨーゼ二世だが、その志は決して間違ってはいなかった。
むしろ後世に与えた影響という点ではフリードリヒ二世をすらしのぐかもしれない。
偉大すぎる母との二重権力というしがらみがなければあるいは後の世に語り継がれるなような成功――――または失敗を成し遂げたかもしれない可能性がヨーゼフにはあった。
オーストリアとハプスブルグの繁栄を第一にする母と違い、国家と社会の未来に対する構想を描くだけの力が―――――。
(この千載一遇の機会を失ってなるものか―――――)
現在の政治状況がもっともうまくいった場合、フランスの政府は妹であるアンナ・カロリーナが主催することになる。
そうなれば妹の身体に流れる血がものを言う。
フランス国内にこれといった基盤を持たない彼女は自らの政治基盤を守るためにこれまで以上に母国の力を必要とするだろう。
そのために彼女は孤立し、さらに母国への依存を強める。これは必然の成り行きなのだ。
もしルイ・オーギュストが回復した場合であってもこれは大きな貸しになる。
カロリーナの結婚以来なかなか思うように操れなかったフランスとの関係を改善するための今はまたとない機会なのだ。
そのためならば妹の将来がどうなろうと知ったことではなかった。
「今さらすべてが遅いのです母上。それに―――――薔薇が咲こうとするのを手折る権利がいったい誰にありましょう?」
そう、自分は確かに妹を利用しようとしている。
しかしそれを望み、政治闘争に勝利しようと戦っているのは誰よりもまず、ハプスブルグの産んだ大輪の薔薇自身なのだ――――――――。
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