第28話 新しい戦争

「たたた、大変だ!」

「陛下が!我らの国王陛下がお倒れあそばしたぞ!」

「犯人はルイ・フィリップとその一党だ!」

 パリの街頭に悲鳴と怒号がこだました。

 国王がルイ・フィリップの策謀により暗殺されかけたことが公に布告されたことで、国王の政策による好景気と減税の恩恵に浴していたパリ市民はルイ・フィリップに対する怨嗟の声をあげたのである。

 たちまちのうちにルイ・フィリップの公邸は怒り狂う市民によって包囲され、彼に組していると目されたアルトワ伯やプロヴァンス伯も屋敷から一歩も外に出られぬ惨状には思わず天を仰ぐしかなかった。

 あるいはこのまま暴徒化した市民に自分たちが血祭りにあげられるかもしれぬ。

 まったく予想外の展開についていけずアルトワ伯もプロヴァンス伯も戦々恐々として必死に屋敷の守りを固めていた。

 もちろん主犯として追及を受けるべきフィリップは持ち前の情報網を頼りに屋敷を脱出し、故郷のオルレアンへの逃避行の真っ最中であった。

「くそっ………あのオーストリア女を甘く見過ぎたか………!」

 まさしく痛恨の見誤りであった。

 オーギュストの政治的手腕が突出するあまり目立たなかったが、シャルロットが王のブレーンの一人であることはわかっていたはずなのに。

 にもかかわらず彼女を軽視してしまったのはフィリップの無意識の女性軽視か、あるいは他国人に対する差別であったかもしれない。

 まさか栄えあるフランス王宮を摂政として担う主権者が、仇敵たるハプスブルグの血を引く他国人となるとは、これはなんという政治的堕落であることか。

 そう考えただけで屈辱に身悶えしたい衝動にフィリップは駆られる。

 計画はほぼ予定通りの成果をあげた。

 オーギュストを失った政権はその巨大な柱を失って倒れ、フィリップ自身かあるいは御しやすいプロヴァンス伯をかついで新たな政府の首班にフィリップがつくのは時間の問題に思われたはずだった。

 かりに作戦が失敗したとしても、オーギュストは確実な証拠をつかまないかぎり決して自分を断罪できないという確信がフィリップにはあった。

 あの男は法を利用することも法の抜け道をくぐることも十分に知悉しているが、法を犯すことにはなぜか心理的な抵抗を感じてしまう部分が心の奥底に根付いている。

 それあるかぎり自分は決して逮捕されない。

 すべてはいつ切り離しても構わない手足が勝手に行うことであるからだ。

 しかしそうしたある種の遵法意識がシャルロットにはない。

 法はあくまでも政治を補完するための方便のひとつにすぎず、必要であるならば法を蹂躙することになんのためらいもないのである。

 だからこそ正式な裁判にかけるでもなく一方的に布告を出し、フィリップを政治的に抹殺しようと図ったのであろう。

 今のところフィリップにこれを正面から打開するだけの力はなかった。

 ――――――だがこのシャルロットの暴発はフィリップにとって逆転への奇貨でもある。

 たとえシャルロットが都合よくロアン公の証言をねつ造しようとも、この謀略じみた政変を法服貴族たちが快く思うはずがなかった。

 むしろ高等法院の復活を願う法服貴族たちを、シャルロットは強行手段によって完全に敵に回したに等しい。

 そして法服貴族のなかには法のもとに人権の平等をうたう理想主義的な啓蒙派貴族たちが少なくないのである。

 つまり国王派は自らのよって立つ権力基盤に対しても喧嘩を売ったも同然なのだ。

 フィリップにはフランスの三分の一の富を占めるとまで言われたオルレアンという策源地があり、王族として培ってきた幅広い人脈がある。

 王妃の不実を糾弾し、国王派を分断して勢力を逆転させることは決して不可能なことではなかった。

「この借りは忘れん………所詮は女の浅智恵だということを思い知らせてやる………!」

 このところ国王の力は強くなりすぎた。

 そのことを危惧する貴族は多く、高等法院の復活もそれによって国王の絶対的な権力を掣肘しようというということろが大きい。

 フィリップが高等法院を復活させ、法のもとに公正な裁判を行うならば出廷する用意があることを宣言すれば喝采をあげる貴族は多いはずだった。

 そうなれば高等法院に対する影響力は当然フィリップのほうが大きくなり、ねつ造された証拠などまともに採用されないことは明らかだ。

 確かにシャルロットの果断さは脅威ではあったが、こうして難を逃れて見ればやはり感情に任せたずさんさが浮き彫りであるようにフィリップには思われた。

 それにこのまま逃亡中に国王が死去する可能性も決して低くはない。

 シャルロットが摂政として権力を振るえるのも全てはオーギュストという国王の力あってこそであり、たとえ息子のルイ・ジョセフが即位したとしても、彼女には後ろ盾となるべき確固とした権力基盤がない以上、フィリップたち貴族が王宮内で主導権を取り戻すのは当然の成り行きであった。

 そうなったときにどうやって復讐してやろうか。

 フィリップは暗い復讐の快感に身を浸すことでかろうじて敗北の逃避行の屈辱に耐えていた。




 フィリップが逃げ込もうとしているオルレアンはパリの南方百数十キロに位置しており、中部フランスの要、肥沃な土地と交通の要衝に恵まれた一大都市である。

 古くはあのジャンヌ・ダルクが解放した都市でもあり、基本的にはランスで戴冠を行うフランス国王が稀にオルレアン大聖堂で戴冠を行うこともあるという宗教上の要地でもある。

 またオルレアン大学を要する学問上の名門でもあり、とりわけ法学の分野において権威強く、ルターとともに宗教改革の指導者として名高いジャン・カルヴァンはこのオルレアン大学で宗教改革の著作を執筆したとも言われていた。

 フィリップの領地であるシャルトルを含めた一門の領地の総面積はフランス貴族の中でも間違いなく最大であり、オルレアン公はいつの世においてもフランス貴族内で別格の扱いを受けてきた。

 ヴァロワ朝以来王太子に次ぐ家格の門地として王国に重きをなしてきた屈指の門閥は今、戦慄に震えていた。

 一人息子であるルイ・フィリップが国王暗殺教唆の疑いで生命の危機にさらされているのである。

「おのれ、あのオーストリアの雌豚めがっ!!」

 15世紀後半に豪胆公シャルルがブルゴーニュを王室に奪われて以来オルレアンはほとんど唯一といっていいフランス国内国家とも言うべき独立領域を形成していた。

 その豊かな財源は貴族特権により王室すら上回り、一門の勢力を糾合すれば百年戦争のようにフランスを分裂させることすら可能であるという噂もあながち的外れなものとは言えない。

 ゆえにこそ歴代の国王もオルレアン公には格別の配慮を払わなければならなかったのだ。

 そうした先祖代々の誇りが、今一人のオーストリア女によって見るも無惨に蹂躙されようとしていた。

「息子を決してあの女の手に渡すな!金に糸目はつけんから兵をかき集めさせろ!」

 憤懣に顔を真っ赤に染め上げてオルレアン公は怨嗟の咆哮をあげた。

 ラ・ヴォーギュイヨンは失敗したが、彼とオルレアン公との間には傍目にも歴然とした格式と資金と人脈の差が存在する。

 まして国王が病に伏せっている今、どこまで国内勢力が王妃の味方をするかは未知数といってよい。

 オルレアン公は国政を糺すため自分が決起すれば国内貴族の大半は自分に組するであろうことを疑っていなかった。

 それほどにいまだフランス貴族の間で、ハプスブルグ家に対する敵対心とコンプレックスは大きいのだ。

「売女め、自分が誰を敵に回したか思い知るがいい」

 平和による繁栄を享受してきたオルレアン公領にはそれほど多くの私兵は存在していないが、それでも年来の騎士をはじめとして一声かければ参集する潜在的な兵力は莫大である。

 さらに豊富な資金を投入すれば数万以上の傭兵を養うことすらさほど難しい話ではなかった。

 オルレアン家の一門と友好的な貴族の総兵力は優にいまだ貧弱な王国の陸軍戦力を大きく上回るだろう。

 だが合計すれば国王を上回るという計算は必ずしも正確ではない。

 ―――――その現実をオルレアン公は遠くない未来に思い知らされることになる。




「連隊主力はそのままオルレアンを衝け。砲兵は軍の馬匹が総力をあげて支援する。弾薬と糧食の補給は青の場合の計画どおりに」

 薄暗い参謀本部ではケレルマンを中心とした数人の参謀がテーブルに広げられた図上を睨みながら刻一刻と変化する作戦の進捗状況を確認していた。

 史上初めて実施されるであろう参謀本部による作戦指導にさすがのケレルマンも緊張の色を隠せない。

 頭では理解しているが、参謀本部の実効性はいまだ確認されたことがないからだ。

「この作戦の骨子は動員奇襲にある。オルレアン公が兵力を結集する以前に一気にオルレアン公国を陥とす――――そのためには砲兵の進出が遅れることがあってはならない」

「問題ありません。既に二ヶ月分の弾薬を補給する体制も砲兵の機動についても訓練は十分です。この日のために砲兵の長距離進出用の軍馬を整備してきたのですから」

 これまでの歴史のなかで戦争のグランドデザインを描く将軍もいたし、作戦計画や補給計画に辣腕をふるった軍師もいた。

 しかし様々な仮想敵との戦争計画を専門に平時から準備する部署は存在しなかった。

 彼らは装備の調達や開発からその運用による作戦計画の立案、さらには敗北した場合の予備兵力による逆撃まであらゆる角度から戦争を検討する。

 膨大な数にのぼった物資と兵士数、増える一方の煩雑な手続きは戦争の遂行を一人の才能に頼ることを不可能にしようとしていた。

 フランスの史上に輝くナポレオンという巨星はそうした近代戦のはざまに咲いた美しすぎる徒花のようなものであった。

 ナポレオンは徹頭徹尾戦略機動による局所的な兵力の集中を利用したが、無線や電話の存在しないこの時代ナポレオンの構想を実現させるためには有能な将帥と超人的な洞察力を必要とした。

 晩年のナポレオンが機動による兵力の集中にタイムラグを生じて失敗してしまうのは、手足となるべき将軍の忠誠を失いつつあったこともあるが、何より超人的な勘とも言える洞察力が発揮できなかったことが大きい。

 天才だけが持つ一瞬の煌めきに頼らなければならないほどに、近代戦というものは一人が制御するには大きくなりすぎた。

 ケレルマンが立ち上げた参謀本部はプロイセンの参謀本部をモデルにしつつ軍部の独走を防ぐために情報部と警察力を別組織に頼る形でさらに国王の監督を受けている。

 しかし作戦参謀を中心に情報参謀、通信参謀、後方参謀、行政参謀、輸送参謀、広報参謀、会計参謀、法務参謀、憲兵参謀が各部署で役割を分担された組織モデルはそのままだ。

 オルレアンの占領と再統治まで予定された細密な戦争計画はこれまでの誰にも予想できない形で破滅の顎を剥きだそうとしていた。





「いったいこれは何の冗談だ?」

 夜の闇をものともせず整然と一糸乱れぬ隊列を組んで歩兵が連隊規模で南下していくのをフィリップは呆然と見つめていた。

 パリから逃亡し一夜の宿を求めていたフィリップを追い越す形で、フランス王国陸軍の兵士たちがオルレアン公領を目指して進軍していく。

 このまま彼らがオルレアン公領に到着すればほとんど何の抵抗もできないままに故郷が蹂躙されるのは明らかだった。

 オーギュストの兵制改革を正しく評価していたはずのフィリップにしてこれほどの早い兵力の展開は完全に予想を超えていた。

 兵の集結、再編、補給、移動に最低でも一週間はかかると予想していたのである。


 ガラガラガラガラ


 砲身と車軸に分解された大砲が馬車に積まれて歩兵の後ろから運ばれていく。

 どうやら彼らはオルレアン到着とともに攻城戦すら想定しているらしかった。

 フィリップは自分の想像が全く的を外していたことを卒然として悟った。

「―――――お前か―――――お前の仕業かオーギュスト!」

 これほどの軍事行動がシャルロットの決断ひとつで実行されるはずがなかった。

 よほど入念に、長い時間をかけて準備されていなければこれほどの素早い対応は説明がつかない。

 最初からオーギュストはオルレアン公領を軍事的に占領するべく準備を万端整えていたに違いなかった。

 それがたまたまオーギュストの昏倒を受けてシャルロットが計画を引き継いだのだろう。

 決して愚かではないフィリップは今後フランスがどうなっていくのかを理解した。

 旧態然とした貴族たちが国王の新しい軍隊に対抗できる可能性はほぼ完全に失われるだろう。

 もしも対抗できる貴族がいるとすれば、それは現在大陸で独立戦争の実戦を戦っているラ・ファイエットをはじめとする啓蒙派貴族に違いない。

 アンシャン・レジームの軍隊ではあの機械仕掛けのように統制された国王の新たな軍隊には対抗できまい。

「今は負けを認めてやる―――――しかし私の生あるかぎり私はお前の破滅を諦めんぞ」

 あの豊かな故郷は国王のものにされてしまうだろう。

 名誉を重んじる父は生きて国王――――とりわけオーストリア人である王妃に屈服することを容認できまい。

 古い人間ではあったがフィリップの野心の良き理解者であり優しい父でもあったオルレアン公の哀しい未来を予想しつつフィリップは自らの愛惜を一筋の涙とともに振り払った。

 今はオルレアン公の相続人としてできる限り多くの資産を海外に持ち出して亡命しなくてはならなかった。

 再起を図るだけの莫大な資産が、この後に及んでもフィリップにはまだ残されていた。

 兵士の行進に合わせてリズミカルな太鼓の音がシンと静まり返った夜の闇のなかでこだましていた。

 アウステルリッツの戦いにおいてルイ・ニコラ・ダブーは55時間で実に130kmの距離を踏破しているが、オルレアンへ向かう王国軍もおそらくはそれに近い進軍速度を維持しているに違いない。

 いったいどうすればこの化け物のような軍隊を倒しうる?

 

 ―――――――アメリカに渡ろう。このままでは勝てない。


 フィリップがそう決断するまでそれほど長い時間はかからなかった。


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