第27話 決別の誓い
残念ながらこの時代はまだ感染症に対する処方が確立していない。
史上初めての感染症対策としての抗生物質の登場は実に1929年アレクサンダー・フレミングがペニシリンを発見するのを待たなくてはならなかった。
18世紀において破傷風とはじめとする感染症は栄養状態の悪い庶民には即、死を意味したし、身分の高い王族や貴族といえどもその生還率は決して高いものとは言えない。
現在の状況で自分がそうした感染症に罹患することの意味をオーギュストは十分に理解していたし、だからこそ銃創は念入りに消毒を施したはずだった。
だが無情にもロアン公爵の魔の手から逃れて2日目の夜、急な高熱を発して国王ルイ16世は病の床に伏した。
真冬に氷水につかるような悪寒とゆだるような高熱は、それがただの風邪などではなく、悪性の感染症であることを明瞭に告げていた。
「くっ………王妃を………それとカルノーとケレルマンを呼んでくれ」
苦しい息のもとでオーギュストはかろうじて側近の者にそう告げた。
こんなところで志半ばに朽ちる気など毛頭ない。
感染症の死亡率は決して低いものではないが、適切な栄養と休養をとることができるならば回復する確率も高かった。
発熱と下痢による脱水症状を乗り越えればおそらく7割以上の確率で生き延びることが可能だろう。
だがどう考えても貴重な時間を浪費することは避けられそうになかった。
せっかく反乱の芽を摘んだかに思われたところなのに、国王が重病に倒れたことが知られれば、それにつけこもうとする有象無象がここぞとばかりに涌いて出るに違いない。
ならばその時間を稼ぎだすために必要なのは王妃の類稀な政治センスと強固な軍の支持である。
オーギュストの思考は政治家として完全に正しい。
しかし正しい考えが必ずしも最善ではなく、現実が想定した考えどおりにはいかないものだということを、このときオーギュストに考える余裕はなかった。
「困ったことになりましたな…………」
ケレルマンは若干禿げあがった額の汗を拭いながらそう言った。
残念ながら新設された参謀本部は稼働したばかりでいまだ実績もなければこれといったテストケースさえない。
ケレルマン自身はその有用さを確信しているがその実力は未知数であり、国王派による陸軍の掌握もようやく7割に手が届こうかというあたりで推移している。
それ以上に困った問題としてテュルゴーをはじめとする官僚に人材はいるが、ルイ・フィリップやアルトワ伯のような貴族の重鎮と張りあえるだけの政治家が王妃以外に存在しないのが痛かった。
せっかくまとまりかけた軍が政治の勢力争いの草刈り場とされるのはケレルマンにとっても悪夢以外の何物でもなかった。
「…………大陸に渡った啓蒙派貴族に影響で国王に近かったリアンクール公をはじめとする開明派貴族の間でも国王に対する不満が高まっています。それにルイ・フィリップとショワズール公が接近しているという噂も………」
カルノーはデオン率いる諜報部から必ずしも旧体制派の貴族ばかりが敵ではないことを聞かされていた。
ラ・ファイエットをはじめとする啓蒙派貴族を大陸に送りこんでおきながらオーギュストはアメリカ独立戦争への参戦を断固として拒絶している。
これは当初イギリスとの利権争いから積極的にアメリカを支援すると考えていた貴族としてみれば裏切りに等しい成り行きであった。
支援するつもりがないのなら最初からラ・ファイエットたちを送りこまなければよい。
まさか潜在的な不穏分子を国外に放逐したとは考えない知識人たちはこの国王の対応にいらだちを隠せずにいたのである。
なんといっても人民がその自由意思によって新たな人造国家を造り上げると言う初の試みは欧州の、とりわけパリの知識人を熱狂させていた。
アメリカ帰りの船がツーロンに入港するたびに人々はラ・ファイエットやラメット兄弟の活躍に胸を躍らせ新たな歴史の一ページが開かれようとしている瞬間に立ち会おうとしていることに運命的なものを感じずにはいられないのだった。
だが現実的な彼我の戦力差を考えるに、いかに大陸軍が孤軍奮闘しようともフランス王国の参戦なしにイギリスに勝利することは難しい。
いまこそ時代の先駆けとしてフランスこそが人民の歴史に新たな足跡を残すべきであるという理想主義的な貴族は、むしろ旧体制派ではなく国王に近い開明派貴族に多いのが問題であった。
フランス王国から旧体制の影響を排除し、新たに主流を占めつつあった国王派の内側から内部崩壊の危機は忍び寄りつつあった。
もっとも思想的には知識人である彼らも軍事においては素人同然であり、大陸でイギリスと争うためにはまず海軍力の整備が絶対条件であることさえわかっていない有様ではあったが。
このエリートたちの軍事的無能は史実においても初期の革命政府の対外政策を破綻させ、フランスを亡国の一歩手前まで追い込んでいる。
勝利の組織者ラザール・カルノーとケレルマンやデュゴミエをはじめとする革命初期の有能な将軍なしには革命はイギリスやオーストリアによって無惨に蹂躙されたであろうことは明らかであった。
それにしても国王への権力集中と啓蒙派貴族の発言力の増大でこのところすっかり影の薄くなっていたショワズール公がルイ・フィリップに接近するのは問題である。
政策的には水と油の両者だが、国王の権力を弱体化させる一点において共闘することは不可能ではない。
そうなると長年のショワズールの人脈と影響力は脅威だ。
確かに近年国王は王国の行政に対する影響力を増大させてはいるものの、一種の治外法権を得ている貴族の領地はなんといっても国土の4割に達しており、長年の免税によって溜めこまれた絶大な経済力があった。
対する王国政府は税収を向上させ歳入を増やしてはいるがまだまだ莫大な負債を減らすには至っていないのが実情であった。
フウ、とシャルロットがもの憂げにため息をもらすとともに、何かたとえようもない気配が王妃から噴き出すのをカルノーは背筋を氷が這うような悪寒とともに見つめた。
およそ人ではない何かのような、妖気の漂うシャルロットの凄絶な美しさに謹厳実直な武人であるケレルマンでさえもが圧倒される。
カルノーもケレルマンも本質的に有能ではあるが優秀な君主に仕えることでその力を発揮するタイプの人間である。
しかしシャルロットは違う。
誰よりも色濃く支配者としての遺伝子を受け継いだ女傑は降ってわいたような事態に歓喜すらしていた。
同時に、愛する夫を追い込んだ愚かな貴族たちに対して激甚な怒りを抱いてもいる。
いまや唯一彼女を掣肘するべきオーギュストは意識を失い、生死の境を戦っている最中であった。
「―――――――これは天命だわ」
決然として見開かれた燃えるような青い瞳の輝きにカルノーは震えた。
はたして自分は恐怖しているのか。
それとも歓喜しているのか、はたまた憎悪しているのか。
わからないながらに心から溢れでそうな激情の奔流がカルノーの全身を濡らしていった。
この鋼のような強い意志。
ハプスブルグの血がはぐくんできた政治的ハイブリッドだけが持つ遺伝子レベルまで刷り込まれた鋼鉄の意志。
それこそがシャルロットをシャルロットたらしめている。
これまではただ一人、国王だけがその手綱をさばくことが出来たのだ。
しかし今や彼女はこのフランスの天下に解き放たれた一個の魔獣であった。
その暴力の解放に協力できることをカルノーはまるで神に与えられた啓示のように感じていた。
フランスが変わる。
オーギュストの登場以来、フランスは良い方向へ変わり続けてきたが舞台の場面が変わったかのように劇的にフランスは変わる。
シャルロットという一人の女傑の手によって。
「ケレルマン。王国再生のための作戦計画はすでに出来ているわね?」
「はっ………赤の場合、黄の場合、青の場合ともすでに骨子は固まっております!」
「では青の場合を発動します。ただちに実働部隊の編成を始めなさい………敵に気取らせる時間を与えてはいけません」
「よろしいので……?」
「すでにして陛下は私に闘病中の国政に関する権限を委託されました。――――私は陛下の回復まで王国摂政への就任を宣言いたします」
正しく暴論であった。
確かにカトリーヌ・ド・メディシスのように王国摂政に就任した女傑は過去にもいたが彼女たちは長い年月をかけて王国に確固たる政治基盤を形成していた。
しかしシャルロットはオーギュストのかけがえのない政治的パートナーであり、優秀な参謀ではあるが誰の目にも見える実績をもっていない。
国王の側近は彼女の優秀さを十分に承知しているがルイ・フィリップをはじめとする反体制派貴族は彼女を小生意気なオーストリア女くらいにしか認識していないであろう。
だからこそ彼らが油断しているうちに惨劇の大ナタを振るうことをシャルロットは決断していたのだが。
「国務会議はすでに過半が国王派で占められています。私が摂政に就任することに法律的な問題はありません。ケレルマン、カルノー…………」
そう言って沈黙したシャルロットは紅玉のように滑らかな光沢を放つ唇を白い指先でなぞって艶然と微笑を投げかけた。
戦場で生死の狭間を駆け抜けたケレルマンさえもが心臓を氷の手で握りしめられたような錯覚さえ感じさせる微笑であった。
この人に逆らってはいけない。
二人の原初的な生存本能が高らかに警鐘を鳴らしていた。
「今後いっそうの忠誠を期待していますよ?」
「「御意」」
まるで虎に睨まれたインパラのように二人は粛然と硬直して膝を折ったのだった。
フランス国内再統一に関する作戦計画書。
赤の場合は旧体制派の重鎮ショワズール公を仮想敵においている。
黄の場合はランス大聖堂をはじめとするカトリック勢力と貴族が結びついた場合の対応を。
そして青の場合とは――――――。
反国王派最大の首魁、ルイ・フィリップをはじめとしてアルトワ伯、プロヴァンス伯という王族を仮想敵としたブルボン王家にとってもろ刃の刃になりかねぬ骨肉の争いを意味していた。
おそらくオーギュストには決断できなかったに違いない。
政治の結果として死を容認しなければならないことを知りつつも、夫オーギュストの本質はどこか甘く理想主義的である。
どこか自分とは違う世界を見ているような違和感が時として感じられるが、それ自体は為政者として得難い才能であるともシャルロットは考えていた。
ならば自分が夫には足りぬ部分を補ってやればよい、夫に変わって泥をかぶってしまえばよい。
ルイ・フィリップもプロヴァンス伯も自分達で信じるほど大した存在ではない、ただの小才子にすぎぬ。
彼らにはフランス王国を千年ののちまで繁栄をもたらすための構想もなければ、現在の国民を守り抜くだけの矜持すらない。
そんな有象無象たちに愛する夫のフランス百年の大計が邪魔されてよいはずがなかった。
――――――あの人は死なない、死ぬはずがない―――――。
オーギュストが双肩に担う運命はこんなところで道を閉ざされるほど小さなものではない。
そんな規格外の運命に魅せられていた。
ハプスブルグの血だけでは到達することのできない地平を見据えたオーギュストに惹かれ付き従ってきた。
しかし今こうしてオーギュストの手を離れて見ればやはり自分はまぎれもなくハプスブルグの産んだ怪物マリア・テレジアの娘であった。
「…………愛しているわ貴方。でもごめんなさい、私はもう貴方の期待しているようには振舞えないかもしれないわ」
泥をかぶると決断したからには起きてしまった結果には責任をとる。
それが自分とオーギュストの未来を永遠に分かつことになる可能性をシャルロットは黙って万感の涙のなかに封じこめた。
ただの一人の女として、座して王権の転落を待つという選択肢はシャルロットのなかにはない。
女である前に政治家というのがシャルロットの生まれ持った本質であり、幼いころから母に薫陶を受けてきたハプスブルグの娘の生きる道でもあった。
「デオンを呼びなさい。ロアン公が国王暗殺未遂の黒幕はルイ・フィリップであることを自白したことをフランス中に布告するのよ」
このときのために牙を研いできた。
有能な将帥に鍛え上げられ、国王に対する忠誠を叩きこまれた軍という暴力装置は、こうした虚偽を正論として容易に成立させてしまう。
だからこそ愚か者は一見単純な暴力というものに頼るのだ。
シャルロットは暴力が犯した歪みがどうした反動をもたらすかということについて十分に熟知していたし、政治家として軍に頼るのは最後の手段であるという理性も持ち合わせていた。
だが、今こそは躊躇せずにその力を使う。
そしてオーギュストに敵対する全ての愚か者に鉄槌をくだして見せる。
自分たちが刃向かった相手がどれほど恐ろしく無慈悲で容赦のない存在か、骨身にしみるまで理解させずにはおかない。
報復の快感にシャルロットは口の端を吊りあげる。
「――――――懺悔なさい、ルイ・フィリップ。私のあの人を傷つけた罪は万死に値するわ」
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