第26話 運命の銃弾

 古くは古代ローマ帝国の支配下にあるころから、パリの地下は世界有数の採石場であった。

 アメリカのホワイトハウスにおいて、あの白い家を輝かせる石膏がフランス産であるのは独立戦争においてフランスがアメリカの独立に貢献したことと無縁ではないのだが、それでもパリの地下から産出される石灰岩と石膏が当時のフランスにとって大きな輸出商品であったことは疑いのない事実でもある。

 千年以上の月日を過ぎて全長数百キロという膨大な距離まで伸びた採石のための通路はパリの市民にとって都合のいいゴミ捨て場でもあり、時として貧民の死体捨て場でもあった。

 有名なビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンが下水道から逃走してパリ警視庁の追手を振り切ったように、この時代からすでに地下迷宮は犯罪者や反政府組織にとっても貴重な逃走経路として機能していたのである。

 そればかりかこのカリエールは第二次大戦中においてフランスのレジスタンスの貴重な隠れ家としても利用されていた。

 ガストン・ルルーの傑作、オペラ座の怪人が迷宮の主として司法の及ばぬ世界に君臨したという設定も、小説のなかのこととはいえ決して故ないというわけではないのだ。

 正式な調査をされたわけではないため漠然としたイメージだが、パリ市民は自らの足元にもう一つの巨大な地下世界が広がっている、そしてそこには謎の怪物が生息していても不思議ではない、と感じていたふしがある。

 偉大な作家であるユゴーは著書のなかでこう述べている。

「パリは地下にもう一つのパリ、下水道のパリを持っている。そこには街路がある、四辻があり、広場があり、大通りがあり、泥水の往来があり、ないのは人の姿だけである(佐藤朔訳)」

 汚水と排泄物に満たされたこの地下迷宮を行政が重い腰を上げて整備に着手するには百数十年後のナポレオン三世の登場を待たなくてはならなかった。

 普仏戦争において捕虜となり第一次世界大戦の遠因をつくったことで評判の悪いナポレオン三世であるが、パリ万国博覧会を開催し、パリの大改造を断行して汚物にまみれて生活していたパリを、どうにか人並みの生活が出来るレベルにまで回復させたのは紛れもなくナポレオン三世の功績である。

 しかしカリエールを含めた彼のパリ改造も決して万全なものではなく、放置された部分も数多く存在した。

 汚さの象徴でしかなかったセーヌ川が、人が泳げるほどの美しさを取り戻すのはなんと1990年代に入ってのちのフランス大統領となるパリ市長ジャン・シラクが大規模なセーヌの清掃を断行してからのことである。


 ロアン公爵は慄然として震えた。

 この時代の貴族にとってもカリエールは清掃どころか調査すら行われていない、人跡未踏の秘境に匹敵する場所のひとつであったのである。

 まさか国王ともあろうものが汚物と糞尿にまみれてカリエールから脱出するなど思いもよらなかった―――――。

「い………いかん!早く国王を追え!いくらなんでもカリエールを完全に把握することなどは不可能だ!数にモノを言わせて必ずしとめろ!」

 そもそも今日ここで我らが事を起こすことを気づいていなかった連中にそれほどの余裕はないはずだ。

 敵中に包囲されたときの非常脱出口としてカリエールを選択した程度のことに違いない。

 そうでなければわざわざ逃げなくともカリエールを通って逆に近衛兵が公爵邸に攻撃を仕掛けてもおかしくないはずであった。

 であればまだ万事休したわけではない。

「急げ!討ち取ったものには恩賞は思いのままだぞ!」





(――――――やれやれ、いくらか時間を稼げただけでもよしとすべきかね)

 初老のやや肥満気味な一人の兵士が、誰にも気づかれぬようにため息を吐いて国王を追撃するためにカリーエルへ通じる暗い穴へと身を投じた。

 たいまつ以外に明かりのささない薄暗い地下はたちまち男の温和な顔立ちを闇の中に隠してしまう。

 暗殺するべき国王に逃亡されるという非常事態に、あまり見覚えのない兵士が一人ばかり紛れ込んでいることに不審を抱く余裕は公爵にも配下の兵士たちにもなかったのである。

 くすんだ灰色のシルバーブロンドであったはずの鬘は取りはらわれ、短く刈りあげられたプラチナブロンドの艶のある髪に愛嬌のあるふっくらした丸顔は意外にも軍服によく似合っていた。

(……………陛下………あとは陛下の運を信じますよ!)

 そう考えつつも後方から情報をかく乱する気満々な好々爺は、先ほどまでエプロンドレスに身を包んでいたはずの情報相デオンその人にほかならなかった。




 まっすぐ立つこともできない狭い構内をオーギュストとその護衛は注意深く進んでいた。

 公爵が看破したとおり、今回の逃走劇は誤算と偶然の産物であって必ずしも万全の用意を整えていたわけではない。

 むしろデオンの抱える情報員が把握しているカリエールの通路は全体からすればほんのごく一部で、その一部の領域にたまたま公爵の屋敷が位置していたにすぎないのだ。

 声が反響する構内で荒々しい男たちの叫び声がこだました。

「……………気づいたか…………」

 さすがにあの程度の目くらましではごまかしきれなかったらしいが、もっとも最初からそれほどアテにしていたわけではない。

 追われる身となった国王一行は黙々と前進を続けた。

「それしてもこの匂いはたまらんな……………」

 ゴミ捨て場特有のすえたような匂いとは別に、空気のよどんだ地下のどんよりとした空気と人間のものか動物のものかさだかではない死臭までがブレンドされて吐き気を催す強烈な臭気がオーギュストの嗅覚を刺激した。

 それにしてもよくここまで巨大な地下構造物が長い間放置されてきたものだ。

 石灰岩を切り出すために無計画に掘り進められたのが残念だが、もしも最初からこれが計画的に整備されていればいったいどれほどのインフラ効率があがったことだろう。

「陛下………もうしばらくご辛抱ください」

「気にするな。命が助かるならこの程度は我慢のうちにも入らぬよ」

 さすがに自国の国王を汚物まみれにするのは百戦錬磨の情報員でも気がとがめたらしい。

 しかし平民出身の多い近衛や情報相の人間は理想と現実が対立した場合、迷わず現実を取るだけのドライさを持ち合わせている。

 ロアン公爵邸から脱出するのにこれ以外の選択肢は存在しなかったのだ。

 先頭をいく情報員がたいまつを持ち、注意深く壁を見つめた。

 彼の視線の先に黄色い印がつけられていることにオーギュストは気づいた。

「その印に意味が?」

「御意。黄色い印は左、青い印は右、赤い印は直進を、黒い印は上にあがれることを意味しています」

 なるほど、たいまつが頼りの闇の世界では目印なしに正解の道をたどることは困難に違いない。

 素直に方向を指示するような言葉や意匠でないのはさすがである。

 人海戦術で押してくるため完全に振り切るのは難しいだろうが、それでも追手の数が少ないにこしたことはないのだ。

 しかし、政治家としてはともかく軍人と比較して大きく体力に劣るオーギュストを伴って、かつ目印を確認しながらの逃避行は徐々にロアンの部下たちとの差を埋められつつあった。


「逃がすな!決して逃がすんじゃないぞ!捕えたものには恩賞は思いのままだ!」

 自慢の金髪を兵卒とともに汚物に汚させながらロアンは狂したように絶叫した。

 本来であれば自ら不潔きわまる構内に下りて直接指揮をとるような彼ではなかったが、事の重大さが彼に地上で無為に報告を待つという行動を許さなかった。

 ここで国王に逃亡された瞬間、ロアン家の歴史も地位も財産も全てが水の泡と化して決して消えることのない反逆者の汚名が残るのみなのである。

 今更ながらではあるがロアンは不出来な枢機卿の誘いに乗ったことを後悔していた。

 考えてみれば何もロアン家単独で事に及ぶ必要はなかった。

 確かに千載一遇の機会であったかもしれないが、不満を持つ貴族は王国下に十分すぎるほど存在する。

 今後の政権運営の主体になるであろうルイ・フィリップの力を借りることも、あるいは位階に低い貴族を走狐として実行犯にしたてあげることも可能であったはずだ。

 そうしなかったのは国王暗殺の手柄を独占したいという枢機卿の欲望の熱にロアン公爵もあてられたというほかはない。

 いずれにしろ生き延びるために国王の命を奪うことは必須の条件となった。

 ロアンは誇りも矜持もかなぐりすて、ただ生き延びるために国王の命を狙う鬼になろうとしていた。





「陛下………我々は少々時間を稼いで参ります」

 オーギュスト付きの侍従武官ロベールは間違いなく接近しつつある怒号と喧騒に慌てることなくそう呟いた。

 追う者たちは自らが追われるというリスクを考えないから、より早い追撃が可能となる。

 ならば彼らにも追われる恐怖を思い出させればよい。

 もちろん急場しのぎの反撃が通用すると思うほどロベールは楽観していなかったが、それでも時間稼ぎは十分に果たせると判断していた。

 自分の命の危険を度外視すればの話だが。

「――――――ローベル、お前の忠義は忘れん。叶うならばヴェルサイユで再び相まみえよう」

「かたじけなきお言葉。……では」

 この時のためにロベールたちは銃を温存していた。

 下半身を排泄物に浸し、全身を汚物で汚しながらも銃だけは使用できるよう身を挺して守り続けてきたのだ。

「………付き合わせてすまんな」

「いえいえ、一は全のために、全は一のために、ですよ」

 後の世に大デュマによってその名を世界に轟かせる銃士隊の有名な合言葉を口にして近衛の兵士たちは声もなく笑った。

 そこにはプロフェッショナルだけが持つ透徹とした決意と誇りがあふれ出ていた。

「一斉射撃後二手に分かれて射撃戦を継続する。命ある限り戦え」

「了解!」



 背後で甲高い反響音とともに銃撃戦が始まったのをオーギュストは心臓に氷柱を押しあてられるような思いで聞いた。

 政治的にやむを得なかったという思いはあるが、妻が危惧したとおりの事態に陥り、貴重な部下を失おうとしていることに忸怩たる思いは禁じ得ない。

 ロアン公爵とロアン枢機卿の結びつきを見抜けなかった、というより人間がどれほど欲望の前に理性を失うか、その事実をすっかり忘れていた自分が許せなかった。

 ――――――欲望に囚われた人間は都合のいいものしか目に入らない。都合のいい言葉しか聞こえない。

 人件費の高騰が、社会保障費の増大が国際競争力を奪い、結局は国民生活を悪化させるという現実に目をつぶり、ひたすら賃上げと生活の保障を訴えてデモとストライキを繰り返す者たち。

 国家には彼らの無尽蔵の要求を叶えるような魔法の壺などありはしない。

 フランスの政府は国民の納める予算という限られたパイを分配する権能しかないのに、パイ以上のものを要求されても不可能なものは不可能なのだ。

 しかしわかりやすく論理だてて説得しても彼らは政府の不実をなじり無能を糾弾する。

 その結果がもたらしたフランスの破たんをオーギュストは誰よりも良く知っているはずではなかったか。

 ――――――人は賢愚のゆえではなく、欲望への執着によってこそ信じがたい愚かな決断を下す。

 オーギュストはその初心を忘れていた自分を深い悔悟とともに恥じた。

 しかし現代フランスの大統領であったオーギュストには根回しや駆け引きにおいて人間の知性に依存する部分が犯しがたく存在する。

 政治家にとって実力行使するのは最後の手段であり、相手をして自分からこちらの望むように誘導するのが政治家のもっとも望むべき理想の姿なのである。

 人命は地球よりも貴いなどと綺麗事を言うつもりはないが、失われる人命は最小限にしなければならないというのも民主政治における政治家の本能に近い衝動であった。

 あるいは妻シャルロットのほうがこの国難を乗り切るには向いているのではないか、と疑うことがある。

 事実そうであるのかもしれない、がそこにオーギュストの目指す新たなフランスの国家秩序はないのも確かなことであった。

「お急ぎください陛下。もう少しで合流地点です」

「いたぞっ!国王はあそこだっっ!」

 ロアンの執念というべきか。

 屋敷内にいた兵士の全てを投入し、分かれ道にぶつかるたびに兵をわけてきたため、その数はわずか五名にまで減っていたが、彼は最後の最後で国王に手が届く機会を手にしたのである。

「陛下!早く!」

 狭い構内で放たれた弾丸を防ぐ術はない。

 武官の一人が両手を広げてオーギュストを守るように構内に立ち塞がった。

 文字通り彼は肉の壁としてその巨体を利用して命尽きるまで国王を守護することを選択したのだった。

「……………すまぬ」

 オーギュストにもほかに選択肢はなかった。

 誰も犠牲にせずに誰もが幸福になれる、そんな夢のような手段があるのなら、この悪しき世界からとうの昔に争いなどはなくなっているはずであった。

 背後の銃声を聞きながらオーギュストは必死に足を進めた。

 激しく息を切らして走るオーギュストの前に黒々と丸く塗られた印が現れ、細長い通路から垂直に地上に向かって延びた坑道が見える。

「こちらから地上へ!早く!」

 ドシンという鈍い音が聞こえ、絶命した武官がゆっくりと仰向けに倒れた。

 邪魔であった肉の壁が取り払われオーギュストに向かって銃弾が浴びせかけられる。

 しかしほんのわずかながらオーギュストが坑道を登り始めるのが早かった。

 避けようがないかに思われた銃撃だが、垂直に伸びた縦抗に入られてしまってはいくら狭い構内であろうとも効果はない。

「くっ…………」

 右足の太ももと脛が銃弾が擦過したためにかすり傷だがジワリと熱い痛みを訴えていた。

 あとほんのコンマ一秒遅くとも致命的な被弾は避けられなかったであろう。

 もし神がいるのだとしたら、神はここでオーギュストが命を落とすことを望まなかったのかもしれない。

「ええいっ!くそっ!追え!何としても逃がすな!」

 あと少し!

 国王の命を奪うまでわずか一度の銃撃でよい。

 武人としての訓練をしていない国王に、もはや逃げる力は残されていないはずだ。

 たとえこのまま地上に逃げられたとしても王宮に逃げ込まれる前に打ち倒すのはそれほど難しいことではない。

「いいか?王を確認次第撃て!まわりの者には目もくれるな!ただ国王だけを殺せればよい!」

 先にあがっていった部下たちから返るべき返事のないことにロアンは違和感を覚えた。

 時間を考えればそれほど屋敷から離れた場所であるとは考えにくいのだが、もしかしたら大物貴族の邸宅である可能性もある。

 だが今はそんな体裁に構っている場合ではない。

 最悪の場合、国王さえ殺せればここでロアンが死んでも家は存続できるのだ。

「何をしている!どんな事情があろうと構うなと言っただろう!?」

 そう言いかけてロアンは絶句した。

 整然と筒先をならべた近衛軍一個中隊が完全武装でこちらへ銃口を向け、すでに捕縛された部下が大地に転がされていたからである。

「…………ほんのわずかだが卿の執念も及ばなかったようだな」

 本当にわずかな差であった。

 オーギュストが生き延びたのは僥倖以外の何物でもない。

 デオンの隠密捜査、近衛との連携、献身的な部下、そのどれひとつが欠けていてもオーギュストは死んでいた。

 奇跡的な偶然の偏りは歴史がロアンよりもオーギュストを選択した証でもあろう。

「………せいぜい勝った気でいるがいい」

 ロアンは唇を噛みしめてオーギュストを睨みつけた。

 もう届かない。

 国王を暗殺する機会は永遠に近く失われてしまった。

 だがそれはロアン個人のものであって、ロアン以外の策謀家は今もその爪を研ぎ続けている。

 そしてロアンは確信していた。国王を狙う策謀家は間違いなく国王より容赦がなく鋭い牙を剥くことが出来ることを。

 この国王はどこか心の芯となる部分が決定的に甘すぎる。

 いずれ長生きできぬことは間違いなかった。

「今日生き延びたことがただの幸運であることを忘れるな。幸運はいつまでも続かぬがゆえに幸運と言うのだ」


 スービーズ公シャルル・ド・ロアン

 数ある国王暗殺未遂犯のなかで彼の名は長く歴史に刻印されることとなる。

 それは彼が公爵という高い地位に居ることや陸軍に対する影響力、または国王の幼い日教育係りを勤めたマルサン夫人の兄にあるというわけではない。

 カリエールという劣悪な衛生環境のなかで国王に軽傷ながら傷を負わせたことにあるのである。

 後に歴史を変えた銃弾とも呼ばれるこの事件の翌日、国王ルイ16世は感染症を発症し高熱を出して意識不明に陥ったのだ。


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