第22話 山師サンジェルマン
1776年4月―――――。
オーギュストの書斎を訪れた一人の紳士の顔色を見た瞬間に、それが凶報であることを洞察するには十分であった。
有能で闊達な情報大臣のデオンが顔色を変えるなど並大抵ではありえないことだからである。
「何があった――――?」
「……………してやられました。大法官モプー様がさきほど私邸にて暗殺されまして」
これまでオーギュストの行ってきた改革は、こうして情報大臣にシャルル・デオン男爵を据えるなどを含めて数限りないが、それもこれもオーギュストが史実と異なりパリ高等法院の復活を決して認めようとはしなかったからこそ達成できた部分は大きい。
ルイ15世はその享楽さや定見のなさ、センスのなさによって王国に深刻なダメージを残したがたったひとつだけ重要な貢献をしてくれた。
それが高等法院の解体なのである。
フランス革命はあまりにも多様な利害がからみすぎているため、真実を一点に集中させることが難しいが、革命の端緒のもっとも大きな責任は間違いなくこの高等法院にある。
高等法院というと裁判所のような漠然としたイメージを抱いている人も多いが、その実体は王権をおびやかす貴族による貴族のための特権擁護機関といってそれほど間違ってはいない。
あの太陽王と称されたルイ14世の治世から、明らかに衰退し始めた絶対王政を象徴するかのようなパンフレットが今もフランス国立図書館に残されている。
いわく、「国王は高等法院を通してのみ国民と契約を交わすことができる。王権と比肩する歴史を持つ高等法院は国家とともに誕生し、王権のすべてを代表するものである」
これはあからさまに王権と高等法院の序列を逆転させるものであり、ルイ15世が他の諸問題には目をつぶりながらも厳然として高等法院の解体に動いたのはむしろ当然のことと言わねばならない。
こんなことを言わせておいたら神から与えられた神聖な王権は空疎なたんなる飾りと化してしまうだろう。
しかし不思議なことに高等法院に対する民衆の支持はそれほど低くない。
高等法院を構成するのはほとんど全てが法服貴族であり民衆を代表するとはとても言えないが、それでも彼らは啓蒙思想を旗印としており言ってみれば流行にのっているという感があった。
彼らが旗印としていた啓蒙思想が国王の改革などよりよほど恐ろしい被害を彼らにもたらすのはもう少し先の話となるが。
史実におけるルイ16世は間違いなく国民のための改革を志していながらこれを高等法院に阻まれ、閉塞する経済状況に対する不満を巧妙に革命へとすり替えられてしまった。
イメージ戦略に失敗したといえばわかりやすいだろうか。
史実を知るオーギュストが高等法院の復活を阻止したことは当然である。
もしそうでなければ第一身分への課税すら実効させることは不可能であっただろう。
しかしかつて国王にも比類する強大な権限を掌握していた過去を忘れられない法服貴族たちは折に触れて復権を画策しており、その彼らにとって変わらず大法官としてオーギュスト支持を貫くモプーの存在は目の上のタンコブどころではなかった。
なんといってもモプーはルイ15世に登用され高等法院を壊滅させた張本人なのだ。
本来新王の登場とともに表舞台を退場してしかるべきであるにもかかわらずのうのうと大法官の地位に居座り、法服貴族の復権を妨げ続けているのは国王の支持あればこそなのだが表だって国王批判が遠慮されるなか、モプーへの敵意は法服貴族たちの間で抜き差しがたいところまで高まってしまっていた。
「モプーがいなくなったところで高等法院が復活することなどありえんのだが」
「それを理解できぬ愚か者が多うございまして」
「誰が殺った?」
「……法服貴族の若僧ですが………おそらく彼一人の決断ではありますまい」
このところ不平貴族たちの間で謀議が加速していることにデオンは気づいている。
しかし無数に存在する貴族たちの不満や陰謀から黒幕を特定し断罪することのできる証拠をあげることは至難の業であった。
おそらくはアルトワ伯やさらにそれ以上の大物、どこかでルイ・フィリップが糸を引いているのは間違いないだろうと想像してはいたが。
「モプーに追贈してその死に報いるぞ。次の大法官は宮廷大臣をあてる」
「マルゼルブ様ならば間違いはないか、と」
「今度は殺されるなよ?」
「御意」
宮内大臣であるラモワミョン・ド・マルゼルブは法律家でありテュルゴーとも親交のある百科全書派の知識人である。
史実ではマリー・アントワネットの不興を買い、また進まぬ改革に嫌気がさし王宮と去るがルイ16世の裁判においては死を賭して国王の弁護にあたった気骨の士でもある。
死を賭したのは決して比喩ではなく、事実マルゼルブはその後家族もろとも断頭台の露と消えている。
ほとんど敵しかいない大法官の地位を引き継ぐにはこのうえない人材だ。
「―――――私も命の心配をしなくてはならなくなったか」
絶対王政という言葉の響きほどに王権とは強固なものではなく、ブルボン家はむしろ以前の王朝以上に暗殺の脅威にさらされてきたと言っていい。
宗教対立の渦中にあった初代アンリ4世がまず暗殺されているし、ルイ14世もまた暗殺の一歩手前で九死に一生をえた。
新教側としてフランス国王と争ったという過去を持つブルボン王家と貴族たちの関係はその成立の過程からいってもそれほど良好なものではなかったのである。
テロを肯定するつもりはないが今オーギュスト暗殺されれば改革はすべてご破算となってしまうことは避けられない。
そうした意味で暗殺という手段は卑怯ではあるが有効な政治的手段のひとつではあった。
「まったく……これが堂々と軍でも率いてくっれば何万いようと物の数ではないのだが」
「王宮の人間も現在情報省のほうで内偵を進めています………少なくとも宮廷内で暗殺だけは起こさせません」
「頼りにしているぞデオンよ」
「このままでは神の恩寵は廃れフランスから正義が失われてしまうでしょう」
国王に不満を抱いているのは何も法服貴族ばかりではない。
王国のなかに国外国家を形成している感のあるカトリック勢力もまたオーギュストには恨み骨髄と言ったところである。
その理由は第一身分である彼らにオーギュストが課税し、欲しいままに資金を融通することができなくなったことが最も大きいがそればかりではなかった。
もっと長期的な意味において、オーギュストの政策は教会の存在を根幹から揺るがしかねないのであった。
カトリック教会が地上における神の代行者として君臨し続けられたことは彼らが平民を愚かなままにしていた愚民政策によるところが大きいのである。
それがオーギュストは王国の各地に王立の学校を設立し平民の知識の向上を促すとともに平民による社会進出を推し進めている。
その流れはフランスの農村部にも及び始め教会はミサに訪れる信徒の確保に難儀するようになりつつあった。
さらに追い打ちをかけるようにオーギュストなナントの勅令を復活させた。
ナントの勅令とはブルボン王朝の初代国王であるアンリ4世が近代ヨーロッパでは初めて信仰の自由と権利を国王の名のもとに認めたもので、これによりプロテスタントはカトリックと同様の保護を国家から受けられることになった。
1685年ルイ14世によって廃止され大量のプロテスタントの国外流出を招いたため、これがフランスの弱体化を招きフランス革命の遠因となったとさえ言われている。
時あたかも中世から続いてきた古き良き時代が失われ近代の新たな思潮が世界を席巻する過渡期である。
彼らが抱いた危機感たるや並大抵のものではなかった。
イギリスがイギリス国教会としてカトリックから独立し、スウェーデンのグスタフ・アドルフの例に居られるようにヨーロッパの覇権国家における新教の影響は絶大である。
いや、近代国家として成長していくためにはカトリックの旧態然とした権力機構は邪魔にしかならない。
科学の発展に迷信は邪魔であり、急速な科学や医学の発展は確実に教会の威信を下降させつつあった。
ラボアジェやディドロを初めとしたオーギュストのブレーンには科学者が多いことも彼らの懸念を加速させていた。
すなわち、ルイ・オーギュストはカトリック教会にとっての信仰の敵なのだ――――。
「擁護者殿も貴方がたと志しを同じくしておられます。事が成った暁には以前にもまして教会への敬意を表すことでしょう」
赤いチョッキが印象的な紳士は人好きのする上品な笑みを浮かべた。
本来であればカトリックがもっとも忌避すべき山師でありながら各国の宮廷で辣腕をふるってきた彼の交渉術と話術はまだいささかも衰えない。
魔術師に魅入られた生贄のように無防備な微笑を浮かべて司祭は華麗ともいえる手つきで男に向かって十字を切る。
「父と子と聖霊の御名において――――Amen。それでは擁護者殿によろしくお伝えを、サンジェルマン伯爵」
「今の私はサンジェルマン伯爵ではありません………これよりはラモーダンとお呼びください」
「これは失礼を。それではラモーダン伯爵に神の恩寵がありますように」
赤いチョッキの男―――サンジェルマンは擁護者……ルイ・フィリップが教会の権威など歯牙にもかけていないことを知っている。
もはや時代の流れにカトリックは合わなくなろうとしているのだ。
その流れは国王でもルイ・フィリップでも変えることなどできはしない。
しかしそんな骨董品に等しい彼らでも国王ルイ・オーギュストを殺し歴史を変えるだけの力がある。
サンジェルマンは新国王に即位したばかりのオーギュストに謁見したときの背筋も凍るような畏怖を忘れてはいなかった。
全てを見透かしているような透徹な瞳………。
サンジェルマンは不老不死の魔人などと偽っているが本当は錬金術師として知識が豊富であるだけのただの男である。
だからこそ知性において世界中の誰にもひけはとらないという自負があった。
各国の言葉を流暢に話し、哲学、経済学、科学、文学、音楽、数学どれでも一級の知識を有し、ラボアジェのような専門の天才はともかく総合の知識量で自分以上の男になど会ったこともない。
その自信が根こそぎ覆るような感覚をオーギュストに感じたサンジェルマンは逃げるようにヴェルサイユ宮殿を逃げ出していた。
あの男はこの世界にいてはいけない――――あれはこの世界のものとは何か違う存在だ。
いったんはロシアに逃亡したサンジェルマンがルイ・フィリップの門を叩いたのにはそうした事情が存在した。
「死ね………実を結ばぬ藁にように死ねオーギュスト。お前は歴史に名を残してはならないのだから」
「巡幸を取り止めるわけにはいきませんか?」
「宮内省が通達したことだし私は貴族と今全面的に衝突するつもりはないしな」
有力貴族はこぞって王太子の誕生祝いにかこつけて国王を招きその忠誠を示そうと晩さん会の開催に忙しかった。
ことが王太子誕生の祝いであるためにある程度以上の貴族の屋敷には挨拶に出向かなくてはならない。
それをキャンセルしようものなら今は国王派として改革に賛同している貴族でも間違いなく反国王派にまわるだろう。
いつか対決しなくてはならないと思ってはいるがオーギュストはわざわざ敵を増やす必要はないと考えていた。
それがシャルロットには歯がゆい。
「フランスの命運はただ陛下一人の命にかかっているのです。避けうる危険は避けなくてはなりません」
反国王派貴族が慌ただしいことにシャルロットが気づいていることをオーギュストは確信した。
いったいどこから情報を収集しているものか。
産後の肥立ちが悪く、起き上がれるようになったのはつい先ごろであったというのに相変わらずの妻の政治力には苦笑を禁じ得ない。
「調査には確実を期すように手配しよう………そんな怖い顔をしないでくれ愛しい人」
二児の母になったが嫁いできたばかりのころから全く変わることのないスタイルを保ち続ける妻の肩を抱いてオーギュストは唇を寄せる。
私は甘いだろうか?
確かに自分は国民の評判や人間としての道徳規範を気にしすぎるかもしれない。
それでも守るべきルールを守れない人生にいったい何の価値があるだろうか。
フランスの凋落の未来を救う。
そのためならばどんな卑怯な手段を取っても構わない………とはオーギュストは思わなかった。
人生とはどれだけ自分の意思を貫けたかで価値が決まる、と教えてくれたのは政治を志したころの代議員だったろうか。
ならば妥協などしたくない。
自分の定めた最低限のルールを守りきり、同時にフランスの運命も救って見せる。
私が転生したことに意味があるとすれば、それは私という人格だけがこの世界に為すべき使命があるからということなのだろうから。
「………仕方ありませんね………そんな貴方を好きになってしまったのだから………」
これが惚れた弱みか、とシャルロットはかつての自分ではありえない心の動きを心地よくも感じていた。
吊り目がちな意思の強そうな眉から力が抜けて垂れ下がると途端に愛嬌のある柔らかな表情になる。
おそらくシャルロットのこの可愛らしい表情を知っているのはハプスブルグの家族を除けばフランスにオーギュストあるのみであろう。
暖かいシャルロットの華奢な腰を抱きよせてオーギュストはシャルロットの小振りの赤い唇を吸った。
「んっ………」
情熱的に求められたことで官能の火がついたのか、シャルロットのオーギュストの背中にまわしていた手にギュッと力がこもった。
どうやら久方ぶりの夫婦の夜はだいぶ遅いものになりそうであった。
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