第21話 デオンの騎士

「誰もわかっちゃいない!国王が尊い擁護者でなどあるものか………」

 狂気を孕んだ瞳で独語する一人の男がいる。

 牢獄というには豪奢すぎる十分に整った部屋ではあるが、男を中心とするその空間だけがまるで闇がわだかまったかのように暗い。

 いまだ彼の名は世界に知られてはいないが、後世に人間の精神性のひとつの極を象徴する名に昇華する男である。

 男の名をドナスィアン・アルフォンス・フワンソワ・ド・サドという。

 サディズムの語源となった男であった。

「馬鹿め!馬鹿め!大馬鹿者め!」

 彼の信じるところ人間とは悪を根源的に所有した生き物である。

 啓蒙思想は人間の理性を尊く美しい存在であると説くが、あくまでも人間の本質は悪であり、人間の理性とは悪に傾倒することこそが正しい状態であると言える。

 見てもみるがいい。

 果たして聖職者のどれだけが色欲の罪を犯さずに生きているだろうか。

 告解にくる夫人を犯し、あるいは修道女を手籠めにする高位聖職者など掃いて捨てるほどいるではないか。

 貴族が世界にいったい何の貢献をして敬われるというのか。寄生虫のように貧乏人から金を無心する以外に能などあるまい。

 見よ!この世界の現実を直視せよ!

 悪徳こそが人間の、世界の本質、悪徳を極めることこそ本当の人間の悦び!

 偽善者の仮面を捨てよ!今は隠している黒い欲情を解放することが、本当の自然人の解放なのだから!

「国王が慈悲深い羊飼いだからといってありがたがるなど愚の骨頂だ!幸せな羊の人生になんの価値がある!」

 確かにサドの主張は一面の本質を突いている。

 だからこそ彼の主張は抑圧された精神の叫びとして数多くの賛同者と研究者を惹きつけずにはおかなかった。

 ロベスピエールを初めとする革命期の思想家たちは、身分ではなく人間の理性による美徳こそが人間としての貴賤を決めると信じていた。

 そして理性こそは神に変わって世界を秩序づける至高の存在であることを疑わなかった。

 専制政治に対する身分制度の打破として互いに人間の理性というものを捉えていながらも、サドと革命家たちの理性に対する回答は百八十度違う。

 にもかかわらずサドの著作が革命を後押しする一翼となったのは皮肉なことと言わざるをえない。

「わからせてやる………人間がなぜほかの生き物とは違う特別な存在かということを…………!」

 深夜だというのにサドの走らせるペンのスピードはますます速くなっていくようであった。

 しかしサドは知らない。

 彼の著作が王室の命令によりその発表が闇に葬られているということを。

 そしてサドの暴虐にもかかわらず無私の愛情を注ぎ続けていると信じた良妻ルネがそれに協力しているということを。





 参謀本部はナポレオンの登場以降、近代国家が国民皆兵へと突き進むなかで、肥大化した戦争を出来る限りスムーズに遂行するためプロイセンで発明された組織である。

 平時から仮想敵との戦術を立案し、補給の体制と兵の動員、行軍と輸送の計画、街道の整備から国外からの輸入計画にいたるまで、およそ戦争に関係する全てを想定することが彼ら参謀に与えられた膨大なデスクワークとなる。

 その出現は戦争というものが一人の天才が指揮するだけでは制御が及ばなくなってきた証であり、ただ一度の会戦が戦争の勝敗を決することにはならない国家総力戦の萌芽をも意味していた。

 こうした平時の努力こそが戦時の優劣を左右するのは大モルトケの戦争芸術とも言える普仏戦争を見れば明らかであろう。

「弾はいくらでも手配しますから射撃訓練は可及的速やかに実施してください。日々の訓練だけが兵の士気と練度を維持するのです」

「承知しておる。では新兵の装備の手配は頼むぞ」

 さすがに今のフランスに国民皆兵の余力はない。

 しかし堅実な経済の好調と王室直轄領の繁栄はフランス軍の近代化と組織変更を促すには十分であった。

 そしていよいよと言うべきであろうか。

 参謀本部の登場とともに新編の師団長として国王の息のかかった人間が登用され始めていた。

 新編された師団長の名をジャン・バディスト・ド・ロシャンボーと言う。

 アメリカ独立戦争に派遣されヨークタウンの戦いで決定的な役割を演じることになる彼は軍人の家系であるロシャンボー家に生まれた根っからの貴族であった。

 その彼がオーギュストに忠誠を誓うわけはやはり職業軍人であることと無縁ではないだろう。

 宮廷貴族のように放蕩の生活を送るものたちとは、第一線で軍務に就く軍人貴族は一線を画している。

 彼らにとって職責を全うすることと国王への忠誠を果たすことは貴族としてのプライド以上に尊重すべき事柄なのだ。

 もっともロシャンボーほどに優秀な職業軍人は数えるほどしかいないのも確かではあったのだが。

 そして彼の副官としてシャルル・ディムーリエが准将として就任している。

 フランス革命前期においてルイ・フィリップを推戴しようとして政権転覆を謀り失敗したディムーリエだが、ナポレオン出現前の王国将軍としては最優秀の部類に入る。

 彼が失敗した理由は彼の作戦の失敗というよりは、不運なことにフランス史上でも屈指の戦術家であるルイ・ニコラ・ダヴーが革命政府を支持してディムーリエの前に立ちふさがったからだ。

 もともと王党派としてブルボン王朝に忠誠を誓っていた彼だが、機会主義者らしく国民議会のダントンに近づくなどしており必ずしも王家にとって忠義の家臣というわけではない。

 しかし少なくとも彼が現時点で即戦力となる戦術家であることだけは疑いなかった。

 近衛連隊ばかりでなくついに陸軍の掌握に動きだした国王に貴族たちの動揺は激しい。

 軍における士官の90%以上が貴族出身であるという事実は厳然として残されてはいるが、軍という暴力組織を国王に握られてしまった場合、平民たちと戦うための盾が自分たちには存在しないことに今更のように彼らは気づいたのである。

 さらに貴族たちの恐怖を煽っているのが勝利の組織者たるラザール・カルノーだ。

 すでにしてオーギュストの腹心の立場を手に入れたカルノーは貧弱であったフランス陸軍の装備に手を入れ食料事情を含めた改革を強力に推し進めていた。

 ヨレヨレの軍服に自前で手に入れた穴だらけの靴、そしてパン一切れにすら不自由していた貧乏人の吹き溜まり………平時の陸軍とはそうした存在であったはずである。

 ところが今は王室直轄領となっているベリー公領やパリから離れた田舎の農民を多く徴募した新兵は眩い軍服を光らせ軍靴の音も高らかにパリ市街を行進し、さらに豊富な弾薬で郊外の射撃場で連日訓練を繰り返していた。

 万が一戦争が勃発すれば貴族の抱える私兵など鎧袖一触になぎ倒されることは明白であった。

 新たに編成された師団の連日の猛訓練はその存在だけで貴族を十分恐れさせるだけの示威行動になっていたのである。

「新編のフランス陸軍の行動指針はモーリス・ド・サックス大元帥を参考とする」

 参謀本部初代総長に就任したケレルマンは若い日に憧れたフランス大元帥サックスの著書を徹底的に師団の運営に生かすつもりであった。

 派手な帽子は実戦には不向きである。

 兵の訓練は実質的な戦闘能力を保つためには必須である。

 兵のもっとも養うべき根本は脚力にこそある。

 軍がもっとも重視すべき能力は機動力である。

 ドラムで機動を統制するのは有効である。

 長期戦で戦線が膠着すると火力戦は有効ではない。

 など彼の記した著作には今後訪れる近代戦でも通用する数々の有用な提言が散見される。

 ザクセン選帝侯の庶子という外国人でありながら彼がフランス軍の最高司令官に登りつめたのは伊達ではなかった。

 ケレルマンは実戦の荒波で鍛え上げられてきたかつての上司の雄姿を今も鮮明に覚えていた。

 それにしても、とケレルマンは思う。

 この参謀本部という組織を考え出した国王には頭が下がる。

 今は目に見えないがもし戦争になれば参謀本部という組織は戦争の概念を覆しかねない価値を孕んでいた。

 これまでも軍部に兵站や作戦を扱う部署はあったのだが、しかし動員から戦場にいたるまでのグランドデザインを描く部署は存在しなかった。

 地図を作製し、軍道を整備し、何人動員し、どこで集結させ、どこで戦うのか。

 もしも敗北した場合どこまで撤退し兵を再編するのか。また援軍はどこから派遣するのか。

 仮想敵国の動員能力は?機動能力は?継戦能力は?指揮官の性格は?兵の質は?

 それらを統合的に分析し平時から作戦を練る。

 もちろん仮想敵国は一国だけではなく、侵攻能力をもったあらゆる敵を想定して対処策をあらかじめ準備するのである。

 まして近代戦では食料だけではなく銃と砲の運搬と弾薬の補充が必須であり、一個人の才能に頼るには戦争は巨大になりすぎようとしていた。

 そうした意味でナポレオンという巨人は近代戦の初期に花開いた大輪の徒花であったのかもしれない。

 いずれにしろフランス陸軍は総力戦による戦争のグランドデザインという明確な目標にむかって第一歩を踏み出した。

 まだまだ運用上の問題は多いが、国王の影響力が増大すれば将来的にそれが解決されるのは明らかだった。

 それにしてもルイ・フィリップを初めとする有力諸侯たちが現在参謀本部で立案されつつある国内統一戦の作戦案を見れば目をむいて卒倒するに違いない。

 新編の師団は何よりも国内鎮圧戦を念頭において訓練されているのだから。

 ―――――あとは参謀をスタッフとして各師団に送り込み戦術上の縦のラインを作り上げれば完璧だ。

 戦争とは血を流す政治であり、政治とは血を流さない戦争である。

 後年クラウゼヴィッツは戦争論の中でそう記述するが、現実には第一線の将軍でそれを理解しているものは乏しい。

 だからこそ中央からの統制によって現地の指揮官を暴走させないための手段が絶対に必要であった。

 たったひとつの戦術的勝利が結果的に国家の敗北を招いた例は少なくない。

 戦争とは終わる形を想定してから始めるべきものなのだ。

 ケレルマンは手元の作戦書に目を落として薄く嗤った。

 そこには「アメリカ独立戦争の長期化によるイギリス経済の衰退とフランス国内の再統一の可能性について」と記されていた。





 いささか肥満気味の侍女が湯気と共に甘い香りを漂わせた紅茶を手にうやうやしく腰を折る。

 その流れるような動作はあくまでも優雅で折り目正しく、誰の目にも侍女がよく躾けられたベテランであることを予想させた。

「本当に貴方は女装がお似合いなのですね、デオン男爵」

 まるで愉快な曲芸師の芸でも見たようにシャルロットは目を細めた。

 いかにもやり手そうな侍女の正体がいまやフランス情報省の長であるシャルル・デオンであることをシャルロットは知っていたのである。

 というよりシャルロットがデオンをいまだベッドから出ることのできぬ自分のもとへ呼びつけたのだ。

 決して余人にはわからぬように――――――。

「まあ、せっかく似合うのを利用しないのもどうかと思いましてね」

 人によっては侮辱ととれなくもない女装が似合うという言葉にもデオンは悪びれない。

 今までもこうして女装を任務に使うことは数え切れぬほどあったし、これからも利用させてもらうことになるだろう。

「貴方を使うわけにもいかないから女装の似合う男を数人選んで宮廷の警護に回しなさい。それから王宮に入る食料と料理人は必ず情報省の手を通して」

「―――――よろしいので?」

 侍女に男をもぐりこませるなどとは前代未聞である。

 また王宮出入りの食料を暴いたり料理人の身元を洗うのは既得権者である宮廷貴族の反感を買うのは疑いない。

 もっともそれが有効な手段であることもデオンは認めていた。

 自分が敵の立場であればやはりそこから標的をしとめようとするであろうからだ。

「陛下は強くなりすぎました。もはや敵は正面から陛下に歯向かうことを止めるでしょう。そして王太子が生まれた今、改革を止めるためにはただオーギュスト様のお命ひとつあれば足りるのです」

 陸軍に浸透した国王の影響力を考えれば武装蜂起という手段を貴族たちが選択する可能性は限りなく低いものになろうとしていた。

 ならば考えうるのは暗殺である。

 宮廷に長い年月をかけて巣食った貴族の人脈と影響力は侮れない。

 オーギュストは優秀な政治家であり組織者でもあるが、身体はごく平均的な成人男性を逸脱してはいなかった。

 シャルロットに流れるハプスブルグ家の血が、ベルサイユ宮殿を蝕む暗い気配を敏感に察していた。

「王妃からの命令といえばそなたが蒙る実害もさほどではないでしょう。しかし暗殺という手段は何も毒や間諜だけが為しうるものではありません。引き続き情報の収集には全力をあげるよう」

「御意」

 デオンとしてもルイ15世の不興を買った自分を男爵にまでさせてくれたオーギュストには恩を感じている。

 現在の社会的地位を守るためにもまずオーギュストの命を守ることが先決であった。

 それにしても………。

「御子を産まれ決して体調も優れぬというのに妃殿下におかれてはさぞご心痛のこととお察しいたします」

 王太子の誕生は喜びだけを王家に齎したのではなかった。

 赤子の王位継承者ほど操りやすい存在はいない。

 ルイ・ジョセフの誕生によってオーギュストの地位はむしろ危険性を増したとも言える。

 しかし反乱ではなく暗殺によってオーギュストの排除を図ろうとすることを見抜いたシャルロットの慧眼はやはり尋常のものではない。

「こういう裏方の謀は女のほうが察しのよいものなのよ………もしかしたら貴方が女性であるという噂もまんざら的外れではないのかしら?」

 嫣然と微笑むシャルロットにデオンは悪びれもせず真っ向から微笑みを返した。

 本当に男であるのか疑いたくなる慈愛と母性に満ちた妖艶な色気すら孕んだ微笑であった。

「それは殿下のご想像にお任せいたします」


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