第17話 新大陸へ

 アメリカの独立は果たして本当に世界史的な必然であっただろうか。

 少なくとも植民地が政治的独立を目指して本国と対立していくのは必然であると言わざるをえない。

 しかし1775年というタイミングでアメリカ合衆国が世界に産声をあげることが出来たのには、実は奇跡的ないくつもの幸運を必要としていた。


「本当に私でいいのかね?」

 ジョージ・ワシントンは辟易したように肩をすくめてみせた。

 フレンチインディアン戦争を戦いぬいた彼は、アメリカの義勇兵がイギリス正規軍と戦えば一蹴されるだけであるということを骨身にしみて知っていた。

 彼は有能な戦術指揮官であったが、現状手持ちとして与えられた兵力では時間稼ぎしかできないことを認識してもらう必要がある。

 それなしに司令官への就任など承諾できるものではない。

 彼は一介の農場経営者であり、過去にいささか勇名をならしただけの男にすぎないのだから。

「もちろん君しかいないよ――――大丈夫、私とてイギリス正規軍と野戦で勝利してくれなんて無茶を言う気はないさ」

「それは無茶というより茶番というべきだね」

 ジョン・アダムスが莞爾と笑って紅茶を差し出す。

 ボストン茶会事件に見られるように後年のアメリカは紅茶文化から決別していくが、彼らのようなイギリス移民はなかなか紅茶の習慣から逃れることは難しかったのだ。

 困ったものだ――――とワシントンは思う。

 愛妻マーサと結婚し百人以上の奴隷を所有する大農場経営者となったワシントンとしては、出来ればもう前線に立ちたくはないのが本音であった。

 幸いにして死んでくれているが、ジェームズ・ウルフ将軍が存命であればワシントンは迷わず従軍を拒否したであろう。

 それほどにあのイギリス人指揮官は常軌を逸した運と強さを持っていた。

「今の軍権を握っているのはあのジャーメインだ。出鼻をくじくことぐらいは容易いだろう」

 なかなかに手ごわい勢力、と国際世論に認識されなければ対外的な援助を得ることすら難しいことをアダムスは承知していた。

 誰だって沈むとわかっている船に乗り込む趣味はないのだ。

 戦略的なパートナー足りうる資格こそが今アメリカ合衆国に求められていた。

 そして植民地を見下したジョージ・ジャーメインが軍事指揮権を握っている今こそが、アメリカがもっとも勝利する可能性の高い千載一遇の好機だったのである。

 …………まったく若さってやつは…………。

 人知れずワシントンは嗤う。

 そんな高尚なものに本当の価値はない。

 彼はあくまでも独立をイギリスとの交渉の一材料と考えていた。

 アメリカに生活するものが最大の利益を得るためにはむしろイギリス連邦に留まるほうがのぞましいのだ。

 所詮独立などという美名で腹は膨れないのである。

 大陸会議の中でパトリック・ヘンリは「我に自由を与えよ。しからずんば死を」と叫んだ。

 だがワシントンにとって自由とはあくまでも生きるための自衛手段であって、自由のために己の命を捧げるというのは本末転倒でしかなかった。

 このところ何かと邪魔なインディアンと、うるさく金を巻き上げようとする本国の貴族どもを排除できれば安心して農場の経営に打ちこめる。

 もう少し若ければむしろインディアンどもと戦って彼らの土地を奪いとりたいくらいだったのである。

 ワシントンの憂鬱を正確に見抜いたアダムスは赤ら顔を歪めてクツクツと嗤った。

「―――――そう、私はまさに君のその現実的な打算にこそ期待しているのだよ」




 ショワズールは若手貴族への対応に苦慮していた。

 アメリカで起こった独立戦争は国王を追い詰める絶好の奇貨であったはずだった。

 事実分断されかかった貴族たちはショワズールのもとで結束し、国王による貴族の権益剥奪に抵抗し続けている。

 高等法院という切り札こそ失ったが、まだまだ末端の法務官僚は貴族たちの牙城であり、行政組織が抵抗し続けるかぎり国王の改革もまた絵に描いた餅に過ぎなかった。

 しかしそうした消極的な抵抗は国王の死命を制するには全く足りないということもショワズールは重々承知していた。

 明らかに第一身分と第二身分を分断し各個撃破することを狙った国王の改革はこのところ停滞を余儀なくされているが、それは一時的な雌伏にすぎない。

 王室直轄領では新たな産業が勃興し、街道が整備され、税が軽くなり、賄賂などの不正が厳しく取り締まられていた。

 そうした改革の成果があがるのは往々にして時間がかかるものなのだが、将来に対する期待が現実を追い越して王室領は空前の活況にある。

 おかげで王室領の恩恵に預かろうとする貴族たちを繋ぎとめるのは刻一刻と困難になろうとしていた。

 そして国王の肝いりで設立された王立官僚学院の卒業生である平民が、下部官僚として行政組織に浸透しつつある。

 長きに渡る王国の行政に対する影響力が失われたとき、貴族階級の敗北が決定する以上ショワズールも座したまま敗北を許容するわけにはいかなかった。

 だが、現状で軍事的な手段に頼るのはいかにもまずい。

 近年さらに拡充された王室近衛連隊は実力主義の精鋭であり、その強さは自らの生命はおろか家名すら失ってしまったラ・ヴォーギュイヨンが身をもって示している。

 一家の家名すら奪った果断な国王の処置は貴族たちの猛烈な反発とともに、たとえ歴史ある家系でも反逆すれば断絶させるという国王の強い意思に恐怖する結果も生んだ。

 迂闊に反逆すれば一族郎党が路頭に迷う。

 よほど勝率の高い賭けでもないかぎり進んで乗ろうとする貴族がいるはずがなかった。

 だからこそ、このアメリカ独立を利用して王国財政を圧迫することで、財政破綻ないし増税に追い込むことが現在の窮地を乗り切る妙策であると考えたのだが………。

「どうしても行くのかね?ラ・ファイエット侯」

「助けを求める人民を救うためには、もはや一刻の猶予も許されませぬ」

 精悍な顔つきの男である。

 若干十八歳だが軍人としての教育を受け、その資質には高い評価が与えられていた。

 何より虚栄心に富み、ショワズールにとって操りやすいことも大きかった。

 当初はショワズールとともにアメリカ独立への介入を国王に請願するだけであったが、レキシントンコンコードが高らかに喧伝されるとほとんどのめりこむように啓蒙思想に傾倒していった。

 洒落がわからず能弁の才もないが、他人の人気を得ることに飢えきったラ・ファイエットは旧来のアンシャンレジームでは与えられなかったものを啓蒙思想の中に見出したのである。

 ショワズールはラ・ファイエットのためにある程度の見返りを用意しようとはしていたが、彼が欲しているのは利権のような見返りではなく名声であった。

 おそらくは旧体制を守ろうとしているショワズールのもとでそれは得られないであろうことをラ・ファイエットは本能的に察したのかもしれなかった。

 それほどにラ・ファイエイットという青年には動物的と言ってもいい嗅覚が備わっていた。

 端的に言うならば、啓蒙思想とは人間の理性というものは普遍的なものであり、その価値は神性を上回る。

 すなわち理性を持つ全ての人間は平等なのであって、そうした理性を中心として社会体制は変革されなければならないという考え方であった。

 ジョン=ロックの社会契約説もその延長線上にあるものと考えてよい。

 その主張が最終的には人民を主権者とする社会構造の革命を求め、王権神授説の否定と宗教的権威の否定に至るのは歴史が証明していた。

 ラ・フアィエットの本能は自分を馬鹿にしていたアンシャンレジームの崩壊を正しく予測していた。

 宮廷の艶やかな衣装も、知性に溢れた会話も、流れるようなダンスも、ラ・ファイエイットには何もない。

 このままショワズールに従っていても結局は田舎貴族として後ろ指を指される自分が、ラ・ファイエットには容易に想像することができた。

 ―――――――そんな宮廷など意に介さぬ大きな男にオレはなる。

 若さゆえの幼稚な英雄願望である。

 しかしそれを止める有効な言葉をショワズールは持ち合わせていなかった。

 もともと彼らにアメリカの窮状を訴えたのは自分なのだから。

 それにしても…………とショワズールは苦悩する。

 ラ・ファイエットやラメット兄弟のように新大陸の新たな思潮に共鳴する貴族のなんと多いことか。

 しかもそうでない貴族に比べて、彼らが戦や法律や行政等なんらかの才に恵まれていることがショワズールの懊悩を深くしていた。

 もっとも頼みにしたい仲間が新大陸に去っていく。

 残された仲間は不平を口にはするが政治闘争より宮廷での晩餐会を気にするような輩ばかり………。

 それでは自分が守ろうとしているものは………アンシャンレジームとは………貴族とはいったいなんなのだ…………。

 ここ数年めっきり老けたショワズールの額に深い縦皺が刻まれていく。

 それでも貴族に生まれた以上貴族として生きていくのが義務であることを老人は疑っていなかった。



 ―――1775年11月末

 シャルロットは第二子のお産のためにベッドに横たわっていた。

 今度生まれるのは男の子のような予感がある。

 フランスの王妃として何よりも優先されるべき使命であるだけにシャルロットは不本意ながら体調管理のためにこのところ政務から遠ざかっていた。

 正直なところオーギュストはホッとしている。

 シャルロットはデュ・バリー夫人らの人脈を利用し、青年貴族を煽り彼らのアメリカ行きを押し進めていた。

 しかも大陸へ動向する傭兵に自らの配下を忍び込ませて情報収集と暗殺の準備にあたらせるというあざとさだ。

 現にショワズールを悩ませているあたりシャルロットの謀略は成功していると言ってもよいだろう。

 しかしオーギュストは今青年貴族たちに啓蒙思想の熱狂を煽るのは危険すぎると判断していた。

 問題はそれがフランス革命の常軌を逸した狂騒を知識としてオーギュストが知っていることに依拠しているということだ。

 さらに困ったことにオーギュストでも妻の手が現在どこまで伸びているのか正確に把握していない。

 要するに止める術がないのである。

 実際のところカルノーをはじめとしてオーギュストの側近には数多くの王妃の親派が存在した。

 シャルロットはオーギュストの正式な閣僚ではないが、その影響力はもはや宰相のそれに匹敵していた。

 こうしてシャルロットが出産に病臥してくれたのは僥倖といってもよい。

「身体を労わってくれ。君をさらしものにはさせないから」

 オーギュストは反国王派貴族の抵抗を承知のうえで王妃の出産公開を停止した。

 もちろん代わりに国庫を開いて全土でワインを振る舞い、祭りを開催することで国民の評判は上々である。

 たとえ政治的には愚策であったとしても、一児の父として夫としてシャルロットを衆目の目にさらすのはオーギュストの良心が許さなかった。

「きっと男の子だわ…………それも貴方に似ている…………私にはわかるの」

「困ったな………できれば顔立ちは君に似ていることを祈っているよ、私の可愛いマリー」

 時代の節目を前にしてお互いの政治的立場がどこかですれ違っていることを二人は自覚していた。

 それでもなお、仮にいつか政治的に敵に回ることがあるとしても、二人にとってお互いは自分の命よりも大事な愛する人であった。

「愛しているよマリー」

「愛しているわ貴方」

 どちらからともなく二人は熱い口づけを交わす。

 死が二人を分かつまで、二人の愛が決して裂かれることはない。

 しかし愛によって政治が動かぬことも、誰より二人自身が一番よく承知していた。




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