第18話 反逆のラッパと呼ばれた男
ラ・ファイエット侯爵
マリー=ジョゼフ・ポール・イブ・ロシェ・ジルベール・デュ・モティエは若干18歳の青年だった。
しかし後に「両世界の英雄」と呼ばれた彼の事跡を決して軽々しく見ることはできない。
彼なかりせばアメリカの独立は失敗していたか、あるいは遥かに条件面で劣悪な講和を強いられていた可能性が高いのだ。
ラ・ファイエットと親交のあったアメリカ第三代大統領トマス=ジェファーソンは後年ラ・ファイエットを「彼の弱点は人気と評判に対して飢えきっていることだ」と評したという。
だが同時に「彼ほど勇敢で信頼できるものを私は知らない」とも絶賛している。
自らの名声のために命を張るだけの度胸をラファイエットは持ち合わせていたし、理想のために殉じる覚悟が出来るほどに理想主義者でもあった。
彼の率いる軍の兵士はこぞってラファイエットに指揮されることを栄誉にしたと言われている。
アメリカの民兵が自国の将軍ではなく、余所者であるラファイエットの指揮に進んで服したことを考えても、彼が人物的な魅力に富んだことは疑いあるまい。
宮廷の婦女子には好かれなくとも、前線の兵士にとっては、彼は尊敬と信頼を与えるのに十分な人物だった。
「この海の彼方に私を必要としている人民がいる」
ラ・ファイエット侯ことジルベールは朴訥な男である。
服装は装飾を省いた軍服で、宮廷貴族の好むような香水もかつらも彼には不要な邪魔者でしかない。
ラ・ファイエット家は裕福でそれなりに政治力のある大家であり、当然ジルベール自身にもそれなりの交際能力というものが求められたが上辺だけの空々しい貴族の交際が彼にはどうにも我慢がならなかった。
7年戦争で戦死した父にかわってわずか2歳で跡を継ぎ一家を盛り立てなければならない重責と、決して心を許すことの出来ない虚飾だけの生活にジルベールは疲れきっていたと言っていい。
いつまでたっても慣れぬ宮廷の雀のような生活は、ジルベールをして彼をもっとも根源的な部分に立ち返らせようとしていた。
男ならば雄雄しく戦って死にたい。
勇猛で部下思いで知られた父の名を辱めるわけにはいかなかった。
ラ・ファイエットが尊敬する父の遺志を引き継ぎ王国軍人を志したのは当然の帰結であった。
いかに軍といえどフランスの宿痾たる貴族主義の弊害なしとはいかなかったが、それ以上に実力を必要とする組織でもあったのはラ・ファイエットにとって救いでもあった。
―――――これだ、これなのだ!
ラ・ファイエット家ではなくジルベール個人としての評価。
自分だけが実感することのできる戦士としての力量、指揮官としての実力。
それこそがラ・ファイエットがもっとも求めてやまぬ自分個人だけに与えられた名声だった。
若くしてラ・ファイエット家を継いだジルベールは貴族ラ・ファイエットに対するものではなくただ一人の青年ジルベールに対する評価にこそ飢えていた。
家柄ではなく個人、神ではなく理性、そんな啓蒙思想に彼が傾倒していくのは理の当然であったと言えるだろう。
「待っていろ、オレが、このラ・ファイエット侯ジルベールが君たちを自由の新天地に導いてみせる」
世界史上類を見ない人民による人民のための人造国家。
まるで夢を見る少年のようにジルベールは頬を紅潮させまだ見ぬ栄光を幻視していた。
そして彼の発する巨大な熱気はいつしかラメー兄弟をはじめとした啓蒙派貴族たちに伝播していく。
いつの世も理想に向かって走る知性ある青年こそが時代を動かす原動力になるのは変わらない真実なのだから。
―――――――問題は彼らの若さゆえに、始めることは為しえても終わらせることが困難なことなのだが。
「すまんがこのとおりの痛風でね。悪いが寝たまま失礼させてもらうよ」
老人が身を横たえたベッドは素朴な造りながら名匠が手を施したと思われる細工が随所に見受けれらる高価なものであった。
巨大なベッドに埋もれるようにして老人はわずかに視線をあげることで客人に答えた。
飄々と微笑しながら見つめる瞳は穏やかでとうてい彼がついこの間まで国家の一線にたって内外の敵を戦ってきた闘士とは思われないほどだ。
しかし知性に溢れる透徹した瞳はどんな小さな嘘も見逃さないであろうことを客として訪れた男は十分に知っていた。
外交官であり、スパイでもある男にとって、目の前の老人は幾度も煮え湯を呑まされてきた宿敵でもあった。
「お身大切に。いまだイギリスにとって伯はなくてはならぬ重鎮でございます」
「ふん………国王にうとまれた隠居にすぎぬよ」
自嘲とともに老人は深いため息をつく。
彼の能力と識見が決して隠居のそれでないことは彼自身が一番よく知っているのだ。
「そんなことを言っても誰も信じますまいよ。チャタム伯ウィリアム・ピット殿」
「前置きはいい。新しい主人が頭でも撫でてくれたか?シャルル・デオンよ」
今年47歳になるとは思えぬ若々しい美貌で、デオンは老人の鬼気迫る重圧をものともせず不敵に笑った。
ふくよかで卵型の顔立ちがまるで貴婦人のような艶やかさである。
それもそのはずシュバリエ・デオンは常に女性であることを疑われているという稀有な外交官であった。
後世にデオンの騎士という戯曲にも描かれることになる彼は前半生を男性として、後半生を女性として生きたという世界史においても稀な人物である。
もともと女性と見紛うばかりの美貌に恵まれていた彼が性別を疑われるもとになったのは、その美貌を利用してロシア皇帝の女官に化けて潜入したという武勇伝に基づいている。
もっともこれは本人が主張しているだけなので真実かどうかは定かではない。
時に雄弁であり、時に娼婦のように官能的な彼は優秀な外交官であったが、同時にフェンシングの達人で決闘を申し込まれて敗北したことはついに生涯なかったという。
1774年ルイ16世に対し自分は女性であると主張し、ドレス代を支給されるかわりに女性として生活することを命じられた彼は以後の生涯を女性として生き続けた。
それは革命によって王室が滅んだ後も続き、年金を失ってフェンシングの見世物をするまでに落ちぶれたものの、美しいドレスを身にまとって試合をする老婦人を誰も負かすことはできなかった。
世界史上初めて明らかになった性同一性障害の例としてあげられることも多く、性同一性障害という言葉の認知度の低かった時代にはエオニズムという独特の用語が彼のために生み出された。
しかし彼の死後解剖された彼の体は紛れもなく男性のものであり、ただし体毛が薄く、胸もいささか膨らんでいたという解剖所見が現在も残されている。
結局生涯ともにしたのはいずれも女性であり、性質の悪い性癖の持ち主であっただけという意見もないわけではない。
シャルル・デオンがどのような性癖、あるいは身体的疾患を抱えていようとも現在の彼はルイ16世のために働く一外交官であった。
昨年フランスへの復帰を願った自分に対して、ルイ16世陛下は手厚い歓迎をもって迎えてくれた。
ほとんど嫌がらせのような仕打ちを受けたルイ15世と本当に血が繋がっているのかと疑ってしまうような厚遇であった。
すでに彼にはシュバリエという騎士号ではなく男爵位が約束されており、対イギリス情報網の指揮官としての手腕が今まさに彼に期待されていた。
一流のスパイとしてロシアやスペインを相手どって活躍したころの血潮の熱さが老いた彼にもようやく戻ろうとしていた。
「ジョージ三世陛下におかれてはいささか植民地を甘く見すぎではございませんか?」
「陛下が、ではない。無能な内閣の責任じゃ」
吐き捨てるようにピットは呟く。
憤懣やるかたなく顔が紅潮しているところを見るとよほど鬱憤がたまっているらしい。
もともと熱い政治家ではあるがポーカーフェイスを重んじるイギリス貴族としてはごくめずらしい光景であることは明らかだった。
チャタム伯ウィリアム・ピット。
大ピットとも呼ばれ7年戦争やフレンチインディアン戦争という国難を勝利に導いた稀有な政治家である。
能力主義により抜擢人事を行い、彼が見出した人物はジェームズ・ウルフやロバート・クライフ・ジョージ・アンソンなどイギリスにとってなくてはならぬ有能さを発揮した。
しかし勝利を目前にした7年戦争の末期にさらなるスペインとの戦争を主張して国王ジョージ三世と対立し下野を余儀なくされた。
彼が首相を解任されたとき、当時フランスの宰相であったショワズールは「彼の解任は戦闘における2回の勝利に勝る」と独語したという。
現在は一議員として政界のご意見番のような地位にいるがその影響力はまだまだ衰えてはいなかった。
彼は部下であったジェームズ・ウルフからアメリカ植民地人の独立性と有能さを報告されていたし、年生産量を上げ続ける彼らが本国の都合のいいように税を納めるはずのないことを熟知していた。
彼らは奴隷ではなく有能な経営者なのであり、経営のために政治力を駆使するのはむしろ当然のことなのであった。
確かに新大陸では巨万の富が生み出され続けている。
だからここから搾り取ってしまえばよい、というのはあまりに浅はかな了見を言わざるをえない。
インディアンを死ぬまでこき使って金山を採掘させていた昔とは違うのだ。
一定の品質を保ったプランテーションや本国には及ばないが確実に産業革命へと発展しつつある北部の工業製品は、決して無能なアウトローに為しうるものではない。
なめてかかっては大怪我をするのは火をみるよりも明らかであった。
にもかかわらず首相フレデリック・ノースも軍部のジョージ・ジャーメインも全く危機感に乏しいことがピットには歯がゆくてならない。
「海ならともかく陸において決定的な勝利を得ることは難しいでしょう。しかも植民地から入るべき税収がいっさい途絶え果たしてどれだけ戦費に耐えられることか……」
「嫌味でも言いにきたのか?」
デオンに言われるまでもなくそんなことはわかっている。
わかっているからこそこうして病床にありながらもピットは議会対策に余念がないのだ。
「いえ………ただこれだけを覚えておいて頂きたかったのです。我が主ルイ16世陛下はアメリカとの仲介の労を取る用意がある、と」
フランスの青年貴族たちが大挙して新大陸に押し寄せている情報をピットは知っている。
いずれフランスの参戦は避けられないものと覚悟していただけにデオンの言葉はまさにピットの意表をついた。
「今はまだ無理でしょう。しかし戦況が相応しいものになったとき、陛下の差し伸べる手をとっていただきたい。新大陸は………我がフランスにとっても劇薬なのです」
なるほど、とピットは首肯した。
イギリスですら現在の立憲君主体制を築きあげるのには多くの血を必要とした。
しかもその改革はいまだ途上にあり、現にジョージ三世が議会運営に口を出す現状では政治における国王の影響はあまりに大きい。
こんなときに本国に対して叛旗を翻した植民地が、王国の手を離れて彼らにとっての理想郷を打ち立てるというのは確かに劇薬にすぎる。
国王が主権者として専制政治を続けるフランスにおいてはさらにその影響は大きかろう。
「…………和平を仲介したとしてかの地に渡ったフランスの貴族たちをどうする?」
彼らが王命によって赴いたわけでないことはピットも熟知している。
当初は国家予算が逼迫するなかでの窮余の一策かと思ったが、本気で熱にうかされた青年貴族の暴走のようだ。
彼らが中途半端な和平を了として帰国する可能性は低いと言わざるを得ない。
「もちろん王命に従わぬ不届き者は追放されても文句はありますまい」
いささかの逡巡もなく言い放ってデオンはシニカルな笑みを口元に浮かべた。
彼らは国王ではなく理想に忠誠を誓っている。
王国の藩屏である義務よりも己の理想を貫くことに重きをおいている。
そんな輩にはまとめて消えてもらうことが望ましい。なまじ能力があるだけに彼らは王国にとって危険な存在だった。
潜在的に危険とはいえ、平然と自国の貴族を切り捨てるデオンの言葉にピットはオーギュストが相当以前からこの事態を予想していたことを悟った。
即位してまもな若僧だが、なかなかどうして政治と言うものを知っている。
――――――政治の本質とは最大多数のためにいかに効率的に味方を殺すかという非常に高度な技術である。
切り捨てるべきものを切り捨てずしてより多くのものを掴むことはかなわない。
革命の嵐を一足先に体験したイギリス人は身に染みてそれを知っている。
「考慮に値する提案であることは確かだ。ふむ、……………貴殿の主が10年早く生まれなかったことに感謝しておこうか」
おそらくは最大級のピットの賛辞にデオンは華麗に腰を折り長く伸びたプラチナブロンドを揺らして一礼した。
「必ずや我が主に伝えましょう。反逆のラッパは老いてなおいまだ健在なり、と」
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