第16話 自由という名の毒
アメリカ合衆国の独立が世界史に与えた影響はあまりにも大きい。
いまだ君主系国家が地上の大半を占めていた時代に母国を飛び出した移民たちが自分の生活を守るために自分たちの国を立ち上げる。
それは当時のヨーロッパを席捲しつつあった啓蒙思想のひとつの到着点であったからだ。
産業革命に代表される科学の発達とそれに伴う教育の普及は人民により大きな政治的能力を与えるべきであると主張するには十分すぎた。
しかし同時に、千年以上の長い年月を旧体制によって支配されてきた人民には自分たちが新たに支配者になるということを現実的に考えることは難しかった。
それが誰の目にも明確な形として現れたのがアメリカ合衆国の独立なのであった。
「やってくれたな………………」
オーギュストのため息は深く重い。
このところ大同団結した貴族との争いが顕在化し、オーギュストの行政改革はその進展の速度を著しく落さざるをえなかった。
なかでもショワズール公がその豊かな人脈を駆使して築いた対王室包囲網は見事ですらあった。
ならば国民の支持を背景に貴族との全面的な闘争に打って出ればよいかというとそんなことはないのである。
アメリカ合衆国の独立戦争はフランス王国の外交上決して無視できぬものであるし、その後にはバイエイルンの継承戦争が控えている。
経済的な結びつきを強めつつあるオーストリアとの関係には史実以上の注意が必要であることも問題だった。
とても国内で消耗必至の全面戦争を戦っている場合ではない。
「困ったことになりましたわね…………」
シャルロットも気持ち肩を落としたかのように呟く。
彼女としてはこの勢いにのって有力貴族をいくつか見せしめに潰せば国民の大多数の支持を得た王家に逆らうことはできないだろうと考えていた。
激発するような馬鹿は火種が大きくならないうちに各個に摘み取ってしまえばよい。
それだけの力を今のブルボン王家は所有している。
ところが貴族は自らの危機に強固な団結を取り戻し、遠く海外では人民がジョージ三世に対して独立を主張するという世界史的な問題が勃発するとはさすがの聡明なシャルロットにも予想することは不可能であった。
それでもここは貴族と対決するべきではないかとシャルロットは思う。
所詮貴族の連帯など己の利益を守るために団結しているだけであって、自分がその生贄になることなど思いもよらない。
主要な大貴族が血祭りにあげられたならばたちまちすり寄ってくる程度の風見鶏なのは明らかだった。
ショワズールあたりを王宮まで呼び寄せて暗殺してしまってもよい。
それでもなお武力闘争に及ぶだけの気概が貴族たちにあるとも思えなかった。
大義名分などというものは勝利者によっていともたやすくねつ造されるものなのである。
だがオーギュストの良心はそれを許さない。
同じ理想を持ちながらオーギュストとシャルロットの見ている世界は違う。
二人はそのことに気づきつつある。
オーギュストとシャルロットはフランスの将来のためには王権の強化と民衆の育成が必要であることでは一致していた。
しかし前世人民の代表であったオーギュストは王権のために無用な犠牲が出ることを好まなかったし、犠牲が必要であるとしてもそれが最小に留まることを無意識に要求していた。
目的のために犠牲が出ることは許容しても、自らが圧政者として人民を無法に蹂躙することは許容できなかった。
しかしシャルロットの考えは違う。
人民が大切にされるのは国家にとって必要であるからであって、人民によって国家が危機に瀕することがあってはならない。
最終的に国家のためになるならば一部の人民が虐殺されることなどは十分に許容範囲であるはずだった。
いや、真にフランス王国のためならば犯罪ですら許容されるはずだ。
にもかかわらずオーギュストは決して夢想家ではないが、暴力の許容に対する基準値が王家の人間のものとは思えぬほどに高い。
それがシャルロットにとっては歯がゆくもあり、同時に愛しくもあった。
まるで傷つけてはならぬ極彩色の宝石に、自分だけが気づいているような感覚だ。
柔らかな金髪を掻きあげシャルロットはオーギュストの大きな肩に頬を預け全身の力を抜いて目を閉じた。
――――――この人を守ることこそ我が運命。私はこの命賭けて戦い続け愛し続ける。たとえ貴方が私を愛さなくなったとしても―――――。
それは誰に告げることもできないシャルロットの誓いであった。
アメリカの独立をめぐる国際情勢は複雑である。
もっとも大きな原動力は啓蒙思想の流行と、突出するイギリスの国力をどこかで歯止めをかけねばならないという国際政治力学であろう。
産業革命と蒸気機関の実用化を成し遂げたイギリスはこの時代間違いなく世界最強の国家であった。
イギリスの不利益はフランスの利益である。
アメリカがイギリスと争ってくれるだけでイギリスは少なからぬ戦費と犠牲を払うことになるだろう。
当初フランスは出来る限りながく両国が争い続けてくれることを願っていた。
それを傍観することができなくなったのはベンジャミン・フランクリンの来仏によるロビー活動が非常に効果的であったことがあげられる。
当時政治家として、物理学者として、気象学者としてフランクリンの名は抜群な知名度を誇っていた。
凧をあげて雷が電気であることを発見したことでも知られ、有名な著述家でもあった彼は持ち前の雄弁によってアメリカ合衆国政府の正統性を説いた。
その主張をまともに受け取ることは君主制国家にとって非常に危険であることは歴史が証明している。
すなわち、人民は基本的人権を生まれながらに所有しており、その権利に対する侵害には革命を起こす権利を有するとしたのだ。
ジョン=ロックの思想を色濃く受け継いだ人民主権理論は閉塞した封建主義へのアンチテーゼとして欧州の富裕層に瞬く間に支持者を獲得しつつあった。
後年義勇兵としてアメリカに赴くラ・ファイエット侯爵などは感涙にむせびながら人民の剣たることを誓ったという。
唾棄すべき堕落であるとオーギュストは思う。
ベンジャミン・フランクリンは印刷業で財をなした富豪であり、フレンチ・インディアン戦争ではイギリス軍の兵站に尽力したことでも知られていた。
アメリカ合衆国総司令官に選出されるワシントンもまたフレンチ・インディアン戦争においてフランス軍を撃破した功績を評価されてこその司令官就任であった。
フランスに害をなした仇敵がどの面をさげて援助を求めてくるものか。
所詮は国内貴族にとって海外植民地での戦争は対岸の火事でしかなかったのである。
しかしアメリカ支持で世論が盛り上がった理由はそれだけではない。
国際政治におけるライバルであることも大きな理由だが、もうひとつフランス人がほとんど遺伝子レベルでイギリス人が大嫌いであるということがあげられる。
これは比喩や冗談ではない。
前世の記憶を所有するオーギュストでさえもイギリス人は気位ばかり高くて食事の豊かささえ理解することのできない田舎っぺであると確信している。
現代人ですらこれほどの抜き差しならない偏見をイギリス人に対して抱いているのだ。
当時のフランス人にとってイギリス人は成りあがってかつての主人に牙をむく恩知らずな下僕以外の何物でもなかった。
ノルマンディー公ギヨーム二世によって征服されたイギリスはフランス文化に強く影響されていた。
国王や宮廷人は英語ではなくフランス語を話し、外交的においてもフランスの風下に立っていたことは否めない。
その傾向はアンジュー伯がプランタジネット朝を開いてからさらに増大しこそすれ決して低くなることはなかった。
ようやくイギリスが独自性とともに覇権国家としてフランスに伍する国力を手に入れるのはチューダー朝も後半に入ってからのことである。
絶対王政を確立し大航海時代の勝者となったイギリスはここにおいて初めてフランスの影響下から独立したと言ってもいいだろう。
かつての主人に追いつき追い越そうとしているイギリスをフランスは嫉妬と軽蔑をもって冷やかに見つめていた。
少なくとも彼らにとってサンドイッチとオートミールで腹を満たすような国民を先進的文明国とみなすことはできなかった
イギリスの食文化が貧しいのは彼らの土地の大半が農耕に向かぬ痩せた土地であるためなのだが、フランス人にとってはそのあたりがいかにも垢ぬけない田舎者に見えて仕方ないのである。
フランスの政治的寓話としてこんな話がある。
あるフランスの政治家がイギリスからトラファルガー海戦の記念式典へ招待を受けた。彼は間髪いれずにこう答えてその式典への参加を断ったという。
「当方はノルマンコンクエストの記念式典の準備中でそれどころではない」
良いか悪いか、正しいか正しくないかではない。
もちろん必要ならば悪魔とでも手を握るのが政治家でなくてはならぬ。
それでもイギリス人が大嫌いだ。
――――――無意識下にまで刷り込まれた典型的フランス人のそれが嘘偽らざる本音であった。
イギリスを敵として捉えただけで支持を集めることは容易い。
ましてこの時代のフランスには7年戦争やフレンチインディアン戦争においてイギリスに屈辱を味わわされた貴族が多数存命であった。
その筆頭に事実上の宰相として当時辣腕をふるっていたショワズールがいた。
王国の財政事情を知悉する彼はオーギュストに対する政治的闘争の手段としてこのアメリカ独立戦争を利用するつもりでいた。
すなわち、参戦によって国費を消費させ最終的に王権を失墜させる――――。
アメリカを支援すればアメリカがイギリスを見放しフランスを最大貿易相手国として受け入れてくれるなどという甘い考えはショワズールにはない。
しかしそうした甘い願望をもって貴族が多いことも事実である。
パリ条約によってフランスはあまりに多くの海外利権を失いすぎた。
ここでイギリスをやりこめることが出来たならば、失われた植民地を取り戻せるのではないか。
いや、賠償金をせしめることすらできるかもしれない。
当然独立を支援したアメリカはフランスを同盟国として優遇してくれるだろう。
そうした願望が史実において全くの画餅に終わったのだが、この時点でそれを理解できる貴族はあまりに少なかった。
アメリカが独立したとしても大西洋の制海権がイギリスにあることは変わらないということを考えれば、それが夢想にすぎないと気づくことは可能であるはずなのだが。
国王と抵抗貴族との行政改革とアメリカ支援をめぐる綱引きは双方に予想だにしない副次効果を生み出しつつあった。
アメリカの独立支援を声高に主張するショワズールに釣られるように、義勇兵として参戦を表明する進歩派貴族が続々と現れたのである。
革命への情熱に浮かれるように大陸へと渡っていく青年貴族たちに煽ったはずのショワズールのほうが困惑した。
国王を追いつめるはずの味方が、私財を投じて海の物とも山の物ともつかぬ独立戦争などへ首を突っ込んでしまったのだ。
先頭をきって煽ってしまった以上、彼らを不当におとしめることも出来ずショワズールは彼らを称賛することによって国王の決断を急がせることしかできなかった。
「藪をつついて蛇を出すとは…………ショワズールも老いたか」
オーギュストは深い恐怖とともに予想以上に進んでいた侵食に歯噛みする思いであった。
啓蒙思想と言う名の毒はオーギュストの推し進めた改革によって史実よりも早く進歩派貴族の間に浸透していたのだ。
このままでは史実より早く人民に参政権を求める運動が活発化することが予想された。
かつて共産主義が世界を席巻したとき、その支持者の大半は富裕層の知識人であったという事実をオーギュストはよく承知していた。
知識あるものこそ新たな知識の毒に染まりやすい。
ジャポネのセキグンにも大学卒業者が数多く含まれていたはずだ。
道半ばにしてフランスの前途に漂う暗雲はますますその厚さを増しているようにオーギュストには思えた。
「フランス革命は起こさせない。絶対に」
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