第13話 薔薇の毒
第一身分への課税―――――。
その措置を果断にも実行したのはオーギュストによって伯爵位を与えられた財務総監テュルゴーである。
史実においては貴族の抵抗によってその施策の半分も遂行できなかった彼だが、国王夫妻が全面的に支援している現状では怖れるものはなにもない。
もっとも理想主義者である彼は貴族を含む特権階級全てへの課税を目論んでいたが、さすがのオーギュストもそこまで急進的な改革を容認するわけにはいかなかった。
「……………このさい第三身分の支持をもとに貴族へも課税するわけにはいきませんか?」
「民衆に過度の期待をするのは危険だよテュルゴー。いざとなれば彼らは貴族よりよほど鋭い牙を剥くのだから」
テュルゴーにかぎったことではないが、啓蒙思想に傾倒した知識人というものは民衆というものを神聖視する傾向がある。
社会を構成するうえで被生産民である貴族や聖職者はいわば寄生虫のような存在であって、実質的に社会を支える民衆こそが尊いと考えがちなのである。
確かに義務教育が充実し身分制度が固定化していない社会であれば彼らの考え方は正しいのかもしれない。
それですらオーギュストは疑っているのだが、実際史実のフランス革命においても一般大衆はその無節操ぶりと識見のなさをさらけ出していた。
彼らにとって重要なものはパンであり、そしてガス抜きとしての不幸………すなわち特権階級の没落と断罪であった。
結局のところ気の遠くなるような犠牲のもとに手にした民主制も、生活が苦しくなれば口あたりのいい独裁者にあっさりと売り渡してしまうのが庶民の嘘偽らざる姿であった。
オーギュストの見るところ彼らには煽動する政治家の言葉を判断するだけの知識と判断力が決定的に不足しているのである。
生まれたばかりの赤ん坊に、正確な判断を期待するのは愚かもののすることだ。
民衆の政治への参加と教育の普及はセットのようなもので、どちらかが先行することはありえない。
しかし残念なことに理想家がしばしば現実よりも理論を優先することをオーギュストはよく承知していた。
そもそもここで国民の支持を当てにして貴族にまで課税すれば即座に全面対決を強いられる。
せっかく分断して各個撃破しようとした努力が水の泡になるのは論外だった。
「だいたい聖職者への課税ですらまだ抵抗が激しい。高位の聖職者はほとんどの場合大貴族だから当然なのだがな」
高等法院が勅法登記権を取り戻していないために、王命による第一身分への課税は即日発効され第三身分である民衆はこれを喝采をもって迎えていた。
しかしこれは第二身分への課税を控えたことで改革の不徹底であると見る勢力もブルジョワジーの中には少なからず存在し、また貴族たちも聖職者を輩出している名門貴族などはこぞってこれに反対している。
表立って反乱を起こすというわけではないが、賄賂や脅迫によって財産の査定を妨害したり、病気と偽って徴税官との面会を拒むなどのサボタージュは日常茶飯事となっていた。
現在までに課税することができた金額の合計は本来予定していた課税額の十分の一にも遥かに及ばない。
結局のところ行政機構の枢要部を貴族階級が独占しているために、王命が発効してもその運用の段階で致命的な齟齬が生じてしまうのだ。
せっかくの改革も末端で骨抜きにされたのでは意味がないに等しかった。
オーギュストにとって警戒すべきなのは無秩序な民衆権力の肥大と第一身分と第二身分の結束である。
史実においてルイ16世は結果的にとはいえ、その場当たり的で無責任な政策によってこれら全ての階級を敵に回してしまった。
目下の敵は聖職者と貴族であるが民衆は味方とするには足りない。
今は彼らの分断と国王の権力の拡大を速やかに成し遂げなければならなかった。
「今年も小麦の凶作は避けられません。国民を飢えから救うためにも、私は全力をあげて陛下のご下知に従います」
聖職者の抵抗に眉をしかめて僧服の男が深々と頭を下げる。
理想に燃えた瞳は大きく見開き、広い額が知性を感じさせる上品な容貌と相まって聖職者らしい徳の高さを醸し出していた。
高位聖職者の代表格のような地位にいながら彼は貧困層の救済と、国民の生活の向上に深い関心を寄せていることをオーギュストは知っていた。
――――――男の名をエティエンヌ=シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌという。
モン・サン=ミシェル大修道院長であり、史実ではカロンヌの跡を継いで財政改革のために高等法院と対立した男であった。
第一身分出身でありながら特権階級への課税を志したが、高等法院とそれを利用する貴族勢力との争いに敗れ1788年に財務総監を辞職。
その後大衆に温情的であったにもかかわらず反革命容疑で収監され1793年獄中で服毒自殺した。
テュルゴーの友人でもある彼を招いたのはもちろん第一身分への工作を依頼したからである。
モン・サン=ミシェル大修道院長が課税に積極的に協力したという事実を公表した場合その影響力は無視できぬものになるはずであった。
分割せよ。しかる後に統治せよ。
イギリス人はその植民地の統治法をそう表現したという。
ひとまず第一身分と第二身分との間にくさびは打ち込んだ。
そして今度は第一身分のなかで協力的な高位聖職者を政権内部に取り込むことで第一身分を分割する。
シエイエスのような平民聖職者の登用と合わせてオーギュストは第一身分の改革についても主導権を握るつもりでいた。
場合によってはある程度の甘い汁を吸わせてやることにもためらいはない。
後は―――――――――――。
「そろそろ悪童たちが着くころかな」
パリから東北東に約130kmにランスという街がある。
そこはフランス王家にとって特殊な意味を持つ場所であった。
なぜならフランス国王の戴冠式は多くの場合このランスにあるノートルダム大聖堂で行われるからだ。
もちろんその格式も権限も高く、彼らにはフランス王家も自分たちには粗略な扱いはできまいという自負があった。
もっともそも自負はみじめにも踏みにじられる運命にあるのだが。
「…………これはいったい何の真似か?」
応対を任された司教は怒りと困惑の色を隠さなかった。
まさか国王戴冠の伝統あるノートルダム大聖堂に軍人ごときの乱入を許す日がこようとは夢にも思わぬことであった。
「陛下より課税の御状があったことは承知しておりましょうな」
男の顔が渋面に歪められるのをケレルマンは愉快そうに見つめた。
昨日までの常識が明日からも続いていくことを無邪気に信じていられる幸福な時間は終わったということを認識できないのであればそれはそれで構いはしない。
もっとも味わうべき苦痛は間違いなく増大するかもしれなかったが。
「先日徴税官の一人が買収で逮捕されましてな。新たな徴税官とともに査察を行っているところなのですよ」
大司教の候補として出世争いのトップを走ってきた男はようやくことの成り行きを悟った。
同時にこの問題の矢面に立つことの危険さも。
寝耳に水の教会への課税は彼らの必死の妨害にもかかわらず成立し施行された。
これは前王ルイ15世が高等法院を廃止してしまったことも大きいが、教会側勢力が一枚岩になれなかったことも大きな要因であった。
ブリエンヌを初めとして教会が莫大な財産を所有することに批判的な近代的な高位聖職者に、平民出身で出世が絶望的な平聖職者が諸手をあげて賛同したため
足元を切り崩された教会は、課税に反対すればするほど世間の批判にさらされるという悪循環に陥っていた。
そこで次善の策として徴税官ら行政組織の末端を買収することで被害を最低限に食い止めようと図ったのだが、どうやらこちらの動きは国王に筒抜けであったらしい。
「申し訳ないが大修道院長様は病に伏せっておられるゆえ後日改めてお越しいただきたい」
とにかく今は時間を稼ぐことであった。
どのような策を用いるにしろこのまま証拠をあげられるよりはずっと良い。
男は実のところ軍人が同行してきたとはいえこの歴史あるノートルダム大聖堂に強制執行するとは考えていなかった。
そんなことをされては秩序が保てないであろう。
平民どもに栄えある大聖堂を穢されるようなことがあっては信者たちが黙っていないはずであった。
「…………残念だな。私たちに命令できるのは国王陛下であって猊下ではないのでな」
ケレルマンは本当に残念だ、とでも言うように首を振った。
同時に2個中隊の銃兵が縦隊を組んで聖堂内へと歩み出す。
想像の埒外の出来ごとに男は惑乱してケレルマンにとりすがった。
「貴公は自分が何をしているのかわかっているのか?ここは教皇庁にも一目置かれるノートルダム大聖堂なのだぞ!」
これほどの暴挙は憎むべき新教徒と争った時代ですら記憶にない。
彼にとって教会とは君主の上に君臨するべきものである。
だからこそ彼は宮廷ではなく教会に自らの人生を捧げた。
神の法は世俗の法に上位するのは当然であり、それによってもたらされる利益は彼をさらに高い位階へと押し上げてくれるはずであった。
しかし百年前ならばいざ知らず、資本主義経済が黎明を迎え産業革命が進行しているなかで神の名のもとに清貧を押しつけ愚民政策を維持することは不可能である。
カトリックの信者ですら都市部の人間は本来プロテスタントのものである職務遂行の精神や合理主義をごく当然に受け入れていた。
宗教が政策すら左右した時代はとうに過去のものであったのである。
「放しなよ。別に金がなくたって主は怒りゃしないさ」
ケレルマンに掴みかかった手を一人の少年が万力のような腕力でねじあげる。
たまらず男はケレルマンからその手を放した。
浅黒い肌をした少年が白い歯をむき出しにいたずらっぽく笑っているのを見た男は自分が有色人種に暴力を振るわれたという事実に半狂乱となって激昂した。
「汚らわしい黒犬め!貴様ごときが主の御心がわかろうか!」
「詩篇50章第16節だったかな?神のものは神に、カエサルのものはカエサルに…………フランス王国のものはフランス王国にってことさ」
「はっはっ!うまいことを言うじゃないか、デュマ!」
ケレルマンに褒められてデュマはうれしそうに目を細めた。
すでにケレルマンの従兵につけられてから半年近い時間が経過している。
軍隊はデュマにとって天職というほかはないところであった。
彼が黒人の血を引こうとも、ケレルマンは決して馬鹿にしないし、馬鹿にした兵がいたとしても力さえ見せれば容易に受け入れてくれる。
兵にとっては有能な上官だけが自分たちの命を守ってくれるのであり、そこに異国の血が混じっていることなどはそれほど大きな問題ではないのである。
ようやくにして自分本来の居場所を見つけたデュマ少年は砂に浸みこむ水のように知識を吸収し、ケレルマンにとっても欠くことの出来ぬ存在となりつつあった。
仮にも貴族の子息であったので、それなりの初等教育を受けていることも大きかった。
「君のように肥え太った主の姿を私は見たことがない。そのことの意味をそろそろ考える時が来たのではないかな?」
伝令が笑み崩れて走り寄ってくるのが見える。
どうやら秘密金庫の在りかでも発見したらしかった。
ノートルダム大聖堂が近衛兵によって強制的に調査されたという事実はフランス全土を震撼させた。
さらには大聖堂に秘匿されていた財産の莫大さが衆目の目にさらされたことで教会はひどく微妙な立場に立たされつつあった。
この暴挙に対して責任者の罷免を求める動きも存在したが、秘匿財産の巨額さが公表されたことで彼らは迂闊に動けば横領の片棒担ぎにみなされることを自覚していた。
僧侶が自らの富貴を求めることは建前としては決して褒められるべきではなかったからである。
カトリックの影響力の低下に悩むローマ教皇ピウス6世からは厳重な抗議がオーギュストのもとに届けられた。
一息に破門を言い渡せないところが教皇庁の苦境を表していた。
古い体質のカトリック教会は各国の啓蒙君主の間でその評価が下がるばかりであり、カトリック側の君主としてフランス国王が占める地位は決して低いものではなかったのだ。
万が一フランス国王がイギリスのようにプロテスタントの国教会を立ち上げては目も当てられない。
それでなくともプロイセンやイギリス・スウェーデンと欧州の大国の中ではプロテスタントのほうが優勢なのである。
教会のそれにくらべフランス貴族の受けた反応は鈍かった。
しかしショワズール公をはじめ有能な貴族の一部は今回の事件が示した事実を正しく認識していた。
特筆すべきなのはついに国王が貴族の支配が及ばぬ固有の兵力を手に入れたという事実だ。
史実においてルイ16世がついに国軍を投入できなかったのには理由がある。
結局のところ軍の頭脳にあたる上級指揮官は貴族によって占められており、逆に下士官のほとんどは平民であった。
指揮官も兵も各々の理由によって戦いたがらないのでは実質的に国王の命令によって国民議会を討伐することなどありえなかった。
国王にとって唯一計算出来る兵力は結局のところ傭兵たちでしかなかったのである。
しかし今オーギュストは近衛という、直卒で指揮官も兵も国王に忠誠を誓った兵力を手に入れた。
言ってみれば国王が頭脳で貴族は手足であったために、国王の決定はしばしば実現段階で骨抜きにされてきたのだが、ようやくオーギュストは自分の自由になる手足を手に入れたともいえる。
軍隊ばかりでなく行政機関にもベリー公領での教育機関を卒業した平民が浸透しつつあることを一部の貴族たちは恐怖とともに自覚したのである。
混迷と亀裂は王国中に広がりつつあった。
体制のいかなる変化も容認できない旧勢力、
経済改革には協力するが身分制度は維持したいという勢力、
この機会に一気に立憲君主体制を実現しようとする勢力。
だがまだ足りない。
オーギュストが力を蓄えるまで、彼らにはさらなる不審と猜疑による分裂をしていてもらわねばならなかった。
「…………やはりショワズール公の復権は取り止めてもらわなくてはならないわね」
シャルロットは山のように積まれた嘆願書を前にため息を漏らした。
手紙の一通には国王の改革の性急さを戒めるよう口添えいただきたいというショワズールからの手紙も混じっていた。
進歩派と目される貴族でも改革が経済に留まらず身分制度への改革にまで及ぶのではないか、ということに危機感を抱くものも少なからず存在する。
それは全くの事実なのだが――――現段階で彼らを敵に回すのは得策ではなかった。
王国経済の復興にはまず彼らの協力が不可欠であったし、経済とプライドを秤にかければ最終的には経済に傾くのが歴史的な事実でもあったからだ。
「わかりやすい敵が必要だわ。そうすれば一握りを血祭りにあげることで最大の効果をあげることができる」
進歩派貴族の不安を根本的に取り除くことが不可能である以上別の手段で彼らを繋ぎ止めなくてはならない。
その手段としてもっとも有効なものは恐怖であることをシャルロットは王室に生きる人間として当然のように受け止めていた。
「――――――そう思わない?カルノー?」
一児の母となったシャルロットは深紅の衣装を好んで着用するようになった。
まるで薔薇のようだ、とカルノーは思う。
血を連想させるような毒々しさ、触れるものを傷つけずにはおかない鋭い棘に比類ない美しさが同居している。
妖艶に微笑むシャルロットのマリンブルーの瞳から視線を逸らすことができない。
カルノーは忠誠を誓う騎士のように片膝をついて頭を下げた。
人並みはずれた知性の持ち主である彼を毒することができるのは、同じく人並みはずれた知性の持ち主だけだった。
主であるオーギュストには彼女以上の知性はあっても――――残念なことに毒がない。
「まこと妃殿下のおっしゃる通りかと存じます」
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