第12話 ルイ15世崩御
オーギュストの第一子が誕生した一週間後、ルイ15世は崩御した。
史実通りの1774年5月10日となった国王の崩御はフランス宮廷に深刻な衝撃を与えずにはおかなかった。
すでに愛妾として権力を行使してきたデュ・バリー夫人は国王が秘蹟を受けるためにパリから追放を余儀なくされていた。
そして長年国王の庇護のもとで好き放題をやってきた王女たちも甥であるオーギュストが容認してくれなければいつ政略結婚をおしつけられるかしれたものではない。
しかもオーギュストがフランスの国家財政の立て直しに並々ならぬ熱意を注いでいることは宮廷貴族ならば誰でも知っている事実であった。
即位と同時に貴族に対する課税が始まるのではないか?
そんな危機意識とともに貴族は水面下で反国王の連帯を強めつつあった。
伝染病であったこともあり、ルイ15世の葬儀は国王のものとも思えぬほど簡素なものとなった。
いまだ嫡男の誕生していないオーギュストとマリーは当然のことながら葬儀に参列するわけにはいかなかった。
そう、先だって生まれたオーギュストの初子は女の子であり、名をテレーズという。
母親譲りの美しい金髪で将来の美貌は約束されたようなものだと思うのは親の欲目というものだろうか。
母子そろってつかの間のまどろみに落ちている寝顔を愛おしそうに見つめながらオーギュストは呟いた。
「さて、狼煙をあげようか…………」
戴冠式の日取りはまだ決定していなかったが、今こそルイ16世として国王となったオーギュストは薄く嗤ってワインを呷った。
残された時間はあまりにも少ない。
オーギュストの戦いは即位してこれからが正念場なのであった。
「今こそ高等法院を復活させるべきでございます。陛下」
即位の当初から貴族たちがもっとも力を入れてきたのは高等法院復活の嘆願であった。
ルイ15世によって6つに分割され勅法登記権を失った高等法院はもはや司法機関ではなくただの調停機関にまで落ちぶれていた。
「国法によって王権が擁護されてこそ王国は千年の繁栄を得るでしょう」
なるほど確かに法治の確立は国家にとって大切なものだ。
前近代の国家にあっては司法の持つ影響力は立法や行政にも勝るかもしれない。
だがそれも司法が恣意的な権限の濫用を図らなければの話である。
史実においてルイ16世はこの高等法院に泣かされ続けた。
パリにおける革命の勃発の引き金を引いたのは実にこの高等法院であったと言ってもいい。
法服貴族によって占められた高等法院は、その自らの既得権を守るため全身分に対する公平な課税に真っ向から反対した。
そして国王が高等法院の権限剥奪を図るや、三部会によって賛成を得なければ国民への増税は承認できないと主張したのである。
このことによって第三身分が勢いづき、最終的に高等法院は革命の勃発とともに永遠にその役割を終える。
なぜこれほど高等法院が問題になるのかといえば、それは高等法院がひどくいびつで不完全な形ではあるが司法の独立を達成していた。
すなわち勅法登記権を所有していたことによる。
モンテスキューによって提唱される司法と立法、行政を分割した三権分立は専制政治の暴走を防ぐためのアンチテーゼとして誕生した。
それが市民革命による国民主権前に限定的ながら司法の独立を成し遂げていたという事実は特筆に価する。
もっともそれは売官制度による法服貴族の誕生と、その前提となる国家財政の疲弊がもたらした偶然にすぎぬものでしかなかったのだが。
いずれにしても国王の発する勅令が高等法院によって登記されなければ勅令を施行することができないという事実は、ルイ16世の財政改革を頓挫に追い込むには十分すぎるものであった。
「先王陛下がどうして高等法院を廃止したかわかっているか?」
「…………彼らは彼らなりに真に王国の将来を思っての行動でございました。それを先王陛下にご理解いただけなかったのは非常に残念なことです」
「ほう、先王陛下の判断が誤りであったと?」
「い、いえ、それは……」
実際に実行に移すことはかなわなかったが、あのルイ15世でも財政が窮乏していることは承知していた。
貴族に対する課税を画策したその結果がモプーによる高等法院の分割である。
国王が課税しようとするうえでもっとも激烈に反対したのは実は大貴族ではなく彼ら法服貴族であったのだ。
それは彼らの多くがもともとは平民であり、金で貴族の地位を取得したブルジョワジーであることと深い関わりがある。
売官による貴族の地位はとうの昔に飽和状態に達しており、新興のブルジョワジーは免税の貴族の地位を得ようとしてもその空きがない。
これは貴族化した旧ブルジョワジーと新興のブルジョワジーとの間に抜き差しがたい対立を引き起こしてもいた。
「先王に反対したことをぬけぬけと正当化する輩に司法を渡すことができると思うか?そこは嘘でも先王陛下は決して間違っていませんと言うべきところではないかな?モールパ伯」
「そ、それは…………」
ここで迂闊に言質をとられて貴族への課税を認めさせられてはかなわない。
国王が貴族への課税を試みようとしているのはすでに周知の事実でもあるのだから。
高等法院の復活はその対抗手段のひとつでしかないのだ。
「要は貴族たちへの課税を逃れたい、そういうことなのだろう?モールパ伯」
そういうとオーギュストは意地悪そうに口の端を釣り上げた。
まるで悪魔と取引でもするようだ、と歴戦の宮廷貴族であるはずのモールパ伯が思わず震えたほどの迫力であった。
自分から口にすることはできないが、結局のところはそのためだけにモールパは仲間たちを代表して国王との交渉に臨んでいるのだ。
「…………私としても忠実な貴族に課税するのは決して本意ではないのだ。しかしこれ以上平民に課税することは不可能だし国家財政を破綻させるわけにもいかない」
平民などどうなろうと知ったことではない、とはモールパは言わない。
新国王は平民を決して軽視していないと察する程度の洞察力は彼も持ち合わせていたのであった。
「私は主は清貧をもって尊しとなしていたと記憶しているのだが、モールパ伯はいかがお考えかな?」
オーギュストが暗に示した言葉の意味をモールパは驚きとともに受け止めた。
乾いた喉から老人のようなしわがれた声を発するまでにしばしの時間が必要であった。
「へ、陛下………まさか………………」
16世紀の宗教改革の嵐とともに教会の権威は確実に減少している。
しかしヴァロア朝を断絶させ、ブルボン王朝の初代もまた宗教テロに倒れたこともあり、聖バーソロミューの虐殺以後は特に王室は宗教への介入を避けてきた。
オーギュストの言葉はそうした政府の姿勢の全面的な転換を示唆していた。
「教会が資産を溜め込むのは主の意思に反する。彼らが我がフランスのために財産を供出してくれるのなら貴族に対する課税の必要もないと思うのだが?」
第一身分である教会はフランスの国土の10%を所有し、十分の一税などの課税特権をも所有していた。
その資産は莫大なものであり、しかもその一部はローマ教皇庁へと流出さえしていたのである。
もちろん教会の上部を占める大司教や司教は貴族の人間が選出されていたが、それでも全体の貴族数に比べればわずかなもので費用対効果という意味では貴族に対する課税よりも効果が大きいともいえる。
オーギュストとしては第一身分である僧侶と第二身分である貴族と完全に敵対するには力が足りないと考えていた。
彼らが一致団結して反抗してきた場合容易く国政は停滞する。
ならば分断していまえばよい。
教会とつながりのある貴族は反対するだろうが、つながりのない貴族は自分たちへの課税を免れるためならば簡単に教会を売るだろう。
分断され力が弱まれば、次は貴族の番なのだがそれに気づくほど貴族の大半は賢くないのが実情であった。
もし彼らがもう少し先の見える人間であったならばそもそも革命は起きなかったに違いない。
「君たちの協力しだいによっては高等法院の復活も考えてもいい……………では下がりたまえ」
モールパは悄然として国王の私室を後にした。
……甘くみていた。
自分は新国王をあまりにも甘く見すぎていた。
アデライード王女から聞いていた王太子の評価とは違いすぎる国王の力量にモールパは正しく頭を抱えていた。
この問題は自分が抱えるには大きすぎる。
しかし同時に、彼は仲間の貴族の一部が自分の利益が保障されるのなら国王に進んで協力するであろうことを確信していた。
…………フィリップ殿は団結なしに国王と戦うことは不可能だと言っていたが……………。
新国王に対する不安からオルレアン公の息子であるシャルトル公フィリップに衆望が集まっていた。
彼は持ち前のカリスマと弁舌と資金力によって貴族の若手の間で無視できぬ勢力を築きつつあり、モールパ伯もまた彼に協力を求められた一人でもあったのだ。
だが残念なことに現実はフィリップの希望を裏切ることになりそうであった。
貴族の大部分は理想より利益によって仕える主を変えるのだから。
「ああっ!お待ちしておりましたわ夫人!」
そう言ってシャルロットはベッドから身を起こしてうれしそうに微笑んだ。
王女を出産していまだベッドから出られぬ身ではあるが嫣然と微笑む彼女は正しくフランス王妃であった。
「………どうぞお身体を楽になさってくださいませ。こうして拝謁を賜っただけでも恐悦の極みでございます」
「そんな他人行儀なことをおっしゃらないで」
そういって可愛らしく首をかたむける愛らしい王妃の仕草に何故か背筋を走るものがある。
―――――やはり自分の勘に狂いはなかった。
凡人ではあるが人の心の機微をうまく読み取ることで宮廷を泳ぎ渡ってきた夫人は改めて王妃の恐るべき本質を理解した。
そう、彼女の名はデュ・バリー。
ルイ15世の危篤に伴ってパリを追放された人物であった。
追放されたとはいえ彼女が生きていくのに不自由のない資産は十分であった。
ルイ15世から下賜された宝石だけでも平民ならば一生飽食したとしても無くなることはありえない。
しかも貴族としての高額な年金も保障されている以上、彼女が生活を心配する必要な何もないはずだった。
だが国王の愛妾として宮廷の暮らしに慣れた彼女にとってパリを離れた田舎暮らしは拷問にも等しいものであった。
美しく着飾っても誰も見てくれるものもなく、見目良い男性と洒落の聞いた会話を楽しむこともできない。
貴族相手の高級娼婦として身を立ててきた彼女に田舎の暮らしはあまりに退屈すぎたのである。
そんな彼女に使者があったのがつい先日のことであった。
リアンクール公からという使者の言葉に当初夫人は首をかしげた。
決して政治的に対立した相手ではないが、かといって親しかったというわけでもない。
―――そんな疑問はすぐに氷解した。
リアンクール公はただの隠れ蓑であり、夫人を招いたのはシャルロット王妃その人であったのだ。
「このような落ちぶれた身のお声をかけてくだすった妃殿下には感謝の言葉もございません」
パリの社交界に復帰させてくれるというシャルロットの言葉に夫人は歓喜したといっていい。
女の盛りをすぎるには夫人はまだ若すぎた。
対立ではなく協調を選んだ自分の選択は間違っていなかった。
そう彼女が自らの先見を誇っていたのもシャルロットが口を開くまでであった。
「勘違いをなさらないでください。夫人はリアンクール公のとりなしによって社交界の復帰を許されたのです。私は反対したのですが夫がリアンクール公への義理からやむなく復帰を許した―――――そういうことでよろしいですわね?」
貴族間の情報を頼りに宮廷を泳いできた一代の女傑でもあるデュ・バリー夫人はシャルロットの言葉を聞いて妖艶に笑った。
それが悪いことだとも恐ろしいことだとも彼女は思わなかった。
彼女が利用価値のある人間でいるかぎり、彼女がもっとも彼女らしくいることのできる宮廷での生活は保障されているのだから。
「それではせいぜい妃殿下の悪口を集めておきますわ」
宮廷内に少なからぬ知人を持つ夫人は非常に有能な諜報官になるはずであった。
あとは彼女が欲しいものを見誤らず与えておけばよい。
凡人であるがゆえに彼女は自分に与えられた役割を演じるということに関してはひどく律儀なところがある。
敵対しなければ、という条件がつくがそんなデュ・バリーがシャルロツトは嫌いではなかった。
「まあ、悪口もよろしいけれどたまには褒め言葉もお聞かせくださいな」
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