第11話 出産
フランス王宮は蜂の巣をつついたような喧騒に包まれている。
国王であるルイ15世が天然痘のために病臥に伏したことが判明してからはその治療と王太子の即位に向けた動きが本格化していた。
天然痘の致死率は40パーセント前後であるから、国王が回復する見込みもないわけではない。
しかし懸命の治療にもかかわらず国王の容態が悪化しているという情報を、宮廷内に隠しきることは不可能であった。
ついにルイ・オーギュストの治世が始まる。
ある者は狂喜し、ある者は怖れ、またある者は黙して口をつぐんだ。
いずれにしろこれまで国王の放蕩の陰で王国に少なからぬ影響を及ぼしつつあった王太子が即位することで、フランスが劇的に変化することは疑いないことに思われたのである。
彼らは国王の回復を天秤にかけるように急速に王太子へと接近を図るようになった。
しかし王太子としてもそうした宮廷工作にかまけてはいられない深刻な事情が存在した。
すなわち、マリー・シャルロット・ド・フランスの出産が迫っていたのである。
「………今少し頑張ってくれよ、父上」
史実通りに進むならばルイ15世の崩御は5月10日である。
しかしこれまで少なからず歴史を改変してしまった以上その保障はない。
ここで死なずに生き延びられると非常に困った事態になるが、あまりに早く死んでしまわれるのも問題であった。
なぜならフランス国王の王妃は出産の公開を義務づけられていたからである。
こうした習慣を持つ王家を他の国に探すことは難しい。
フランス王家はその中央集権の過程において、貴族ではなく民衆に依拠した事実があるだけにその名残ではないかと思われる。
しかしそれは他国の王家から嫁いできた人間には、いささか精神的な負担が大きすぎるものだ。
せめて初産だけでもシャローットをそうした負担から解放してあげたいというのがオーギュストの偽らざる本音であった。
愛する妻の秘所を医師ならともかく広く庶民にまで公開しなければならないというのが、そもそもオーギュストの倫理的にいって認めがたいものである。
もし国王に即位して権力を握ったならばこの慣習自体を無くしてしまおうとオーギュストは本気で思っていた。
しかし現実にはフランス王家は国民とともにあるという一種のプレゼンテーションでもあるこの一大イベントは広く国民の関心事となっていたし、あのマリー・アントワネットの出産時には、入りきれないほどの大群衆がベルサイユ宮殿へ押しかけ、その列がベルサイユ宮殿の広大な庭をはみ出したというほどである。
フランス国民にとって王家は明らかに他国の王族とは違う、近くて遠い存在なのだ。
だからこそ多くの歴史家は、ルイ16世夫妻がヴァレンヌ逃亡で国民を見捨てなければギロチンにかけられることはなかったと主張する――――――。
「度し難いな、それでも妻をさらしものにすることは耐えられん」
「――――お気づかいはありがたいですが私はフランスのためならば構いませんのよ?」
羞恥心と出産の激痛で失神してしまったアントワネットと真逆の性質の妻シャルロットは、夫の心配ほどに深刻にはとらえていないらしかった。
もちろんハプスブルグ家にこんな恥ずかしい慣習はないし、彼女も人並みの女性としての恥じらいを確かに持ち合わせているのだが、いかんせん政治的に有用であるならばそれを行えというのがハプスブルグ家の血であるらしい。
いや、他の娘に受け継がれた形跡がないところを見るとやはりシャルロット本人の気質というべきか。
妻がすんなりと公開羞恥刑を受け入れていることにげんなりしつつ、オーギュストは大きく膨らんだ柔らかなお腹を優しく撫でた。
毅然としたシャルロットの王族としての矜持に対してまだまだ自分は現代人の見栄を捨て切れていないことがわずかながら恥かしかった。
だからといって妻の身体を見世物にすることへの抵抗が消えるわけではなかったが。
「私のつまらぬ見栄だ――――お前の素肌をほかの男に見せたくない」
クスリと花が咲くようにシャルロットは微笑む。
この夫ときたら、まるで預言者のように未来を言い当て、政治経済土木数学とさまざまな分野に傑出した才能を持ちながらもどこかで世の中とズレた感性を持ち合わせている。
結婚してなお蜜月の恋人のように自分を独占しようとしてくれることが、なんとも微笑ましくもうれしかった。
そんな子供のような稚気の陰で、夫が即位後のためにどれだけ暗闘を繰り広げているかをシャルロットは知っていた。
彼女の愛する夫は妻に甘いだけの家庭的な男ではありえなかった。
オーギュストが国王に即位すれば、これまで自領にしか適用しなかった新税法を国内に適用しようとする可能性が高い。
それは守旧派の貴族の利権と真っ向から対立するものである。
この動きに対し、デギュイヨン公をはじめとして守旧派貴族が大同団結して活動を活発化しつつあった。
彼らは貴族同士の団結によって国王の支配が自らの領地に浸透することを拒むことで一致していた。
逆にオーギュストを支持するのはリアンクール公やショワズール公をはじめとする進歩派と呼ばれる貴族たちで、彼らは少なくとも市場経済のイロハ程度は心得ていた。
すなわち資本の循環が、より大きな資本を生むという事実を正しく理解していた。
対外関税は別として、国内に横行する特権貴族による国内関税はフランスの国力をいたずらに低下させるものだというのは彼ら共通の認識であった。
そればかりではない。
オーギュストは破綻寸前の国家財政を立て直すために第一身分(僧侶)と第二身分(貴族)への課税を目論んでいるというのが貴族たちの間でもっぱらの噂である。
これはもともとオーギュストの政敵が故意に流したものだが、事実としては全く正しい。
オーギュストは即位と同時に、身分のしがらみを超えた大規模な財政改革を実施するつもりであった。
フランスの国家財政の大部分は第三身分の税収によって成り立っているが、貴族はなんら国家財政に寄与することなく、むしろさらに第三身分から税を取り立てることで悠々とした生活を送っていた。
貴族の特権として有名なところで直接税と間接税の免税特権がある。
国土の40パーセントを占める土地を保有する貴族が不動産税、人頭税、二十分の一税、酒税、ワイン税などを免除されさらに第三身分に対し領主権に基づく課税を課すことが出来たのだからたまらない。
さらには労役を課し、地方司法権まで牛耳っていたのだから国家財政にとっては不健全であることこのうえなかった。
大半の貴族にとってその特権は国王から与えられたものではなく、先祖代々にわたって受け継がれてきた自分たち固有の特権であると思われていた。
だからこそ彼らは特権を奪われることを決して許容できなかったし、そのためには王権を弱めることこそがもっとも有効で古くから行われてきた常套手段であったのである。
彼らにとって王家とは所詮その程度のものにすぎなかった。
もともとブルボン王家に対する貴族の忠誠というものはそれほど高いものではない。
ゆえにこそ太陽王とも呼ばれるルイ14世ですら即位の当初はフロンドの乱の屈辱を舐めなければならなかった。
カトリックとプロテスタントの宗教戦争の過程で断絶したヴァロア朝の後を継いだブルボン王朝初代のアンリ4世は、なんといっても敵対していたプロテスタント側の首魁であり、一時はフランスの敵でもあった。
後にカトリックに改宗して新教と旧教の融和に努めたが、アンリ4世もまたアンリ3世同様狂信的な旧教徒に暗殺されてしまう。
この宗教対立はフランス王国内になお深く潜在しており王国内に色濃い陰を落としていた。
さらにブルボン王朝始祖アンリ4世がナヴァール国王であったこともあり、フランス国王は代々ナヴァール国王をも兼任した。
だがこのナヴァール王国は歴史的にイベリア半島情勢に深く関与しており、フランス国民にとってはどうしてもよそ者の感が拭えなかった。
だからこそブルボン家は、代々国民の人気をより切実に必要としてきたとも言える。
実に初代アンリ4世もまた良王アンリと呼ばれ国民の生活向上に努力してきた王であった。
ルイ14世による独裁的な親政も翻ってみれば忠誠心に薄い貴族に対する対抗手段のひとつであったのだ。
「…………まずは力が必要だな。経済だけではなく」
史実のルイ16世は軍事力の掌握というものに無頓着でありすぎた。
現代でも政権というものはその軍組織が忠誠を誓っているかぎりなかなか崩壊するものではない。
それはミャンマーやタイ・北朝鮮の状況を見れば明らかだ。
民衆と職業軍人との間にはそれほどの純粋な暴力としての差が存在する。
フランス革命においても軍が王室を強力に擁護していたならば民衆の勝ち目はなかった。
軍の末端兵士が生活に困窮し、所属する国家から離反したからこそ庶民の無統制な暴動が政権を倒すことができたのである。
よく訓練され装備の充実した一個中隊の歩兵は、無統制な一万の民衆に勝る。
そこにはいかなる理想も名誉も超えることのできない、強固な鉄と鉛の壁が存在するのだった。
オーギュストの目指すものは決して軍事覇権国家ではないが、政治家として彼は軍事力の安全保障なき国家が国民の負託に耐えうるものとは認められなかった。
非常に残念なことではあるが、オーギュストの愛するジャポネは、この点に関する限り三流国家の汚名を免れない。
しかもオーギュストはこの後国内政治ばかりかイングランドやアメリカ、プロイセンといった一癖も二癖もある国家群と渡り合っていかなければならないのだ。
軍事力の充実と掌握は急務である。
逆説的ではあるが、そのためにはやはり貴族の改革が絶対に必要であった。
軍の要職は貴族によって占められており、いざ戦争となった場合指揮官のほとんどは貴族なのである。
最悪の場合フランス国軍の大半が国王に離反するという事態すらありえた。
事実フランス革命期において国王が自由に動かせた兵力のもっとも大きなものは傭兵にほかならなかったのだから。
「………妃殿下とご歓談中のところを恐れ入ります」
丸顔で温厚そうな痩身の男が恭しくオーギュストに敬礼を捧げた。
人好きのする温厚な瞳の中に秘められた眼光は決して男が凡庸な軍人でないことを告げていた。
フランソワ・クリストフ・ケレルマン近衛軍中佐。
オーギュストが王室の藩屏として期待する近衛の立て直しに招へいした人物であった。
後のヴァルミー公爵として名を馳せるケレルマンは、息子である二代目エティエンヌ・ケレルマンの影に隠れて知名度は低いが、騎兵指揮官としての才能が突出していたプライドが高く嫉妬深かった息子とは違い、組織者としての総合的な指揮能力を持つ数少ない将帥の一人である。
あるいは戦場でも現場指揮官としての能力はセリュリエやディムーリエのほうが高いかもしれない。
しかし戦略目標を冷静に分析して組織を構築する能力においてセリュリエやディムーリエはケレルマンに及ばないだろう。
それが近衛の組織者としてケレルマンを採用した理由でもあった。
さらにカルノーもまた王立工兵士官学校を首席で卒業し、近衛士官として今ではケレルマンの副官を勤めていた。
強力な組織者二人を頂いて現在近衛では実験的な連隊を立ち上げているのである。
まずこの連隊に所属する兵士はすべて農民からの徴募によって集められていた。
いつの世でも都市部の人間よりも農村の人間は兵士として優秀とされている。21世紀のフランスでも軍の募兵は農村部を中心に置かれているほどだ。
天候という人知の及ばないものを相手にしている農民は、自然精神的に忍耐強く肉体的にも鍛えられていくからである。
それ以上に、革命という内戦を戦うことになれば、都市部の市民出身者はむしろ足手まといになる可能性が高かった。
同じパリ市民である顔見知りを平気で殺せる兵士は少ないのだ。
逆にフランスでもっとも過酷な税を搾り取られ、三十代で女性を老婆にすると言われた農民には、都市民に対する抜き差し難い嫉妬の感情がある。
絶対服従を誓わせる軍隊の過酷な訓練と十分な給与が彼らに保障されたとき、この連隊は新しい近衛の中核として国王のもっとも忠実な盾となるはずだった。
「進展はどうだ?」
「順調です」
ケレルマンは落ち着いた声でたのもしく頷いた。
場合によっては即位からまもない時期に軍事力が必要となる可能性がある。
そのさいに前線に立つのが自分たちの連隊であることをケレルマンは十二分に承知していた。
「兵隊というものがどんなものか身体に叩き込みました。殿下のおかげで給金と装備にも不自由はありません。奴らは王国の敵ならばためらいなく引き金を引くでしょう」
兵隊は指揮官の命令を自分で考えてはならない。
兵に要求されるのは指揮官の命令を反射的に実行する実行力が何よりも優先される。
考えるのは参謀に任せておけばいい。
指揮官が白を黒といえば黒、馬を鹿といえば鹿、それが兵の本質でなければならなかった。
「それにしても殿下にお付けいただいた従兵には驚かされますな」
「使えそうか?」
「私見ながら言わせていただけば…………あれは天才です。戦場で彼に会って勝てる気が全くしませんからな」
たった12歳でそこまでケレルマンに言わせるとは驚きだ。
ケレルマンに付けた従兵はアレクサンドル侯爵の私生児である。
浅黒い肌に年齢より4歳は大きく見える見事な体躯が印象的な少年だった。
オーギュストの即位を見越してすりよってきた侯爵から手土産がわりに借り受けたのだが、望外の買い物になったのかもしれない。
少年の名をデュマ。
ダルタニヤン物語の作者として有名な大デュマの父親にあたるトマ=アレクサンドル・デュマその人であった。
「…………口を挟んでよろしいかしら?あなた…………」
相変わらず口ものに穏やかな微笑みを浮べた妻の言葉にオーギュストは優しい笑みを返しながら振り向いた。
「君の言葉ならなんなりと」
「医師と産婆を呼んできてくださらない?どうやら生まれそうですわ」
ガタン
ドサッ
「な、なんだってええええええ!!」
思わず腰砕けになって床に尻をついたオーギュストは脂汗を顔にはりつけてはいつくばったまま廊下へと飛び出した。
「医師を………医師を呼べ!産婆もだ!急げ………!早くしないかああああああ!!」
まさかそこまで過敏に反応するとは思わなかったシャルロットとケレルマンの間で気まずい沈黙が下りる。
だがこらえきれないように先にクスクスと笑いだしたのはシャルロットのほうであった。
「……………可愛いひとでしょう?」
いじわるそうに微笑むシャルロットにケレルマンは臣下として完璧な礼とともに上品に片目を閉じてみせた。
「殿下は主君としてこのうえない物をお持ちですが、父としても夫としても、えがたいものをお持ちでございますな」
シャルロットは満足そうに微笑むとケレルマンに退出を命じた。
さすがの彼女でも陣痛の痛みを微笑でごまかすのはそろそろ限界であった。
ギリギリと産道が開いていく激痛に白い肌に汗を浮き立たせながら、シャルロットは慌てふためく夫に呆れたような声をかけた。
「医師たちが恐縮してしまいますから、しばらく外でお待ちになされませ」
「……………………はい」
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