第9話 宮廷の薔薇
デュ・バリー伯爵夫人は平民の私生児から国王の愛妾にまで駆け上った立志伝中の人物である。
しかしその性向は、同じ平民の出身である前妾のポンパドゥール侯爵夫人ほどに知性溢れるものではなかったようだ。
これは彼女がポンパドゥール侯爵夫人のように国際政治に対するビジョンがあったわけでもなく、マリー・アントワネットと正面から対立してしまったことを見てもあきらかであろう。
もしもこれがポンパドゥール侯爵夫人であれば、決して王太子妃と対立することはなかったはずである。
ルイ15世はすでに老境にさしかかっており、次代の国王夫妻を敵にまわすのは決して得策とは言えないからだ。
そうした計算が出来ず自らのプライドを優先させたデュ・バリー伯爵夫人がフランス史において低い評価しか得ることができないのは当然と言わねばならない。
シルバーブロンドのたおやかな髪。
そして男の欲情を滾らせずにはおかない妖艶な色気…………。
夫人を知るものは口々にその美しさとほがらかでたくみな話術を褒め称えたという。
また後年、革命の嵐のなかで夫人が断頭台に立ったそのとき、彼女は断頭台を正視することのできなかった初めての処刑者となる。
あられもなく泣き叫び知己でもあった処刑人のサムソンに慈悲を乞うその姿は市民の同情を掻き立てた。
画家であったルブラン夫人は後年こう述懐した。
革命初期、犠牲者たちがあれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、恐怖政治はもっとずっと早く終わっていたであろうと。
つまるところデュ・バリー夫人は、今フランス宮廷でもっとも高貴かつ偉大なる凡人であった。
そして今宮廷はデュ・バリー夫人と王太子妃マリー・シャルロットの二人の対面を固唾を呑んで見守っていた。
現在デュ・バリー夫人に対するルイ15世の寵愛が比類ないのは誰の目にも明らかであった。
並大抵の権力では対抗できない。
しかし前妾ポンパドゥール夫人ですら、平民出身者がフランス宮廷に入ることを嫌悪する勢力がいたのである。
まして美しいが見栄っ張りで享楽的なごく平凡な女でしかないデュ・バリー夫人を快く思わない貴族は想像以上に多く存在した。
ポンパドゥール侯爵夫人の負の遺産ともいうべき7年戦争における対プロイセン戦争の敗北は、ブルボン王朝にとって無視することのできない莫大な負債となって残されている。
公妾が王国にとっていかに危険な存在であるか、特に宰相であるショワズール公などは警戒心も露わに敵視しているというのが現状であった。
もちろん高貴なルイ15世の娘であるアデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女たちも、どうにか娼婦あがりの成り上がり者を排除できないかと虎視眈々と狙っていた。
そうした者たちの象徴として、マリーに期待が集まるのは理の当然と言うべきものであった。
「さて、どうしたものかしら?」
甘えるようにオーギュストの肩にブロンドの髪をフワリと委ねてマリーは微笑んだ。
その声の明るさとは裏腹に、オーギュストをからかうような試すような勝気な彼女らしい稚気を感じてオーギュストは苦笑を禁じえない。
さすがは実質ナポリ王国を夫に代わって牛耳ったハプスブルグ家が誇る女傑だけのことはある。
彼女の夫として手綱を握るにはなかなかに気苦労が多いことになりそうであった。
「…………もちろんここで彼らの煽動にのって夫人と対立するのは下策です」
オーギュストは事も無げに断言した。
リスクが高い割には得るものが少なすぎる。
史実におけるマリー・アントワネットの敗北を見るまでもなく、王国を主宰する国王ルイ15世の支持がデュ・バリー夫人にある以上これと正面から争うのは愚か者のすることだ。
能力は平凡であっても夫人の国王に対する影響力は決して平凡なものではありえない。
現在の政治的盟友でもある宰相ショワズール公は、夫人との対立がもとで1770年長きに渡った宰相位を剥奪されている。
マリーを旗頭にしたがっている連中のほとんどは、娼婦に大きな顔をさせたくないという利己的な思いで反感を募らせているのにすぎないのであり、しかも責任の全てをマリーに押し付ける気だけは満々であった。
所詮はオーストリア女が国王の不興を買おうと自分の知ったことではないらしい。
いわばマリーとデュ・バリー夫人の対立を煽ろうとするのはマリーに火中の栗を拾わせようとする行為にほかならなかったのである。
合格、とでも言いたげにマリーはクスリと花が咲くように笑うとオーギュストの頬にキスを送った。
近づいてきたマリーの大きく開いた胸元に昨晩の情事の跡も生々しいキスマークの痕跡を確認してオーギュストは思わず赤面した。
いささか若さに任せてハッスルしすぎたという自覚はあったのである。
そんなオーギュストの存外に初心なところも、ひとたび褥に入れば野獣のように激しいところもマリーはことのほかお気に入りであった。
あるいはそれは惚れた女の埒もないところであったのかもしれないが。
「そうなると王女たちには嫌われそうですね…………」
仮にも義叔母になる娘たちである。
出来うることなら仲良く付き合いたいところではある。
しかしハプスブルグ家の政治的血統を正しく受け継いだマリーにとって、それはそれほど重大な問題にはなりえないものでもあった。
母テレジアは家族にこそ優しかったが、こと政治問題となると夫を役立たず扱いにするほどに苛烈な部分を持ち合わせていたことをマリーは知っている。
オーギュストが夫として愛するに足る存在であったのは僥倖であった。
昨晩の夫婦の営みは、マリーに愛する人と結ばれる女の至福を十分以上に味合わせてくれた。
それでも、国家の命運は常にそうした夫婦の愛情に上位するというのも偉大なる母テレジアが教えてくれたうそ偽らざる真実なのも確かだった。
――――――このままこれからも聡明なオーギュスト様でいてくれればいい………でも夫が判断を誤るとき、それを正すのは妻の役目………。
どこまでも彼女はハプスブルグの生んだ政治的怪物マリア・テレジアの娘であった。
いざとなれば夫と対立することも辞さないマリーの苛烈な精神力と業の深さを、オーギュストはまだ知らない。
晩餐会の華として貴族たちに囲まれながらもデュ・バリー夫人はいささか緊張感を隠せずにいた。
このところの王太子の宮廷内における影響力の増大は恐るべきものがある。
つい数年前まで人見知りで貴族に声をかけることすらままならかった少年が、今やベリー公領を空前の活況に導き進歩派貴族と宰相ショワルーズ公の領袖として王国に君臨しているなど現実に目にしなければ笑い飛ばしたくなるような話であった。
ルイ15世が政治に無関心な現状では、王国の政策決定に少年が果たす役割は、おそらく本人の考える以上に大きい。
国王の愛妾になる前は数々の貴族と浮名を流してきだけに夫人はそうした噂の収集には特に熱心であった。
今からルイ16世としてオーギュストが即位する日を待ち望む貴族たちも決して少なくないのだ。
その少年が政敵であるショワルーズ公と組んで自分にどう相対するのか。
王太子妃であるマリーの対応次第ではデュ・バリー夫人は自らの地位を保全するために全力をあげて戦わなければならないことになるだろう。
彼女がそうした危機感を強く抱くのには理由がある。
まずベリー公領やリアンクール公領の活況のわりをくった中流貴族たちが抵抗の御輿に夫人に接近したこと。
そして宰相ショワズール公の政敵である陸軍卿ラ・ヴォーギュイヨンが宰相に対抗するために夫人の支援を必要としたこと。
いわば代理戦争の渦中に投げ出された格好の夫人は、彼らに王太子への中傷を散々に吹き込まれていたのである。
むしろ警戒しないほうがどうかしていた。
「………お疲れのようですわね。伯爵夫人。エルミタージュがよろしいかしら?それともシャトー・スミスでも?」
一人の貴婦人がグラスを差し出した。………いや、どこかの貴族の子弟であろうか、と夫人は記憶をたどった。
夫人の前ではグラスを差し出しているうら若い少女が無垢な微笑を浮かべていた。
ややきつめの顔立ちながら笑うとたれ目がちになる瞳がなんとも言えず愛らしい。
このまま成長すればあるいは自分のライバルになることも可能かもしれない。そんな埒もないことを考えながら夫人は少女のグラスを受け取った。
おそらくはそれほど地位の高い貴族ではないのだろう。
頭にあしらわれたのは宝石でも細工でもなく一輪の百合の花のみであり、衣装もどちらかといえば身体のラインが露わになるようなピッタリとしたもので、とうてい宮廷内で流行の流れにのっているものとも思われなかった。
「ありがとう…………ずいぶん珍しい衣装をおめしなのね」
若干の皮肉を混ぜたつもりであったが少女はそれをごく素直に賞賛と受けとめたらしかった。
頬を染めて大きく開いた胸のまえで手を握ると、少女は幸せそうに微笑んで見せた。
「今日、この晩餐会のために夫にもらったのです………この衣装を着て夫人に会うのを想像しただけで胸が躍るようでしたわ!」
貴族であれば10代も後半ともなれば夫がいるのは当然だ。
それにしてもこんな愛らしい少女を妻にした男が果たして自分の派閥の貴族にいただろうか?
社交術と情報力を生命線として国王の寵愛を一身に集めるデュ・バリー夫人ともあろうものが少女の素性を思いつくことができないのが不審であった。
「この国に参る前から夫人のことは聞き及んでおりました。是非お目にかかりたいとこの日を心待ちにしておりましたのよ」
―――――この国に―――異国から訪れたことを意味するその言葉にテーブルの空気が凍る。
「………マ、マリー殿下!?」
「ええええっ!?」
穏やかな物腰を崩したことのない貴婦人の鑑であるはずの夫人が不覚にも言葉を詰まらせた。
夫人との会話に割って入られて少女をうとましそうに眺めていた青年貴族たちも驚きのあまり短い悲鳴をあげて声もでない。
まさか敵対するものとばかり思い込んでいた王太子妃が親愛の情もあらわに単身夫人を訪ねてくるなどといったい誰に想像できるだろう。
マリーは可愛らしく小首をかしげて照れたようにいたずらっぽく微笑して結いあげた綺麗な金髪を指にもてあそんでいた。
「もしかして…………お気づきになられませんでした?」
夫人は正しく直感した。
この少女は見た目の愛らしさとは真逆の存在であることを。
おそらくは幼くさえ見えるこの仕草さえ全てが計算づくなのに違いあるまい。
長年宮廷人と交わってきた夫人の本能的な嗅覚が、彼女に絶対に逆らってはならないことを告げていた。
もはやそのあとはマリーの独壇場である。
デュ・バリー夫人に褒められた衣装を自慢しその仲のよさを見せつけ、さらにはオーギュストが普及を急いでいるジャガイモ料理を振る舞い、舌の肥えたパリ宮廷人をうならせた。
そしてトスカーナ大公国の弟であるレオポルド二世から贈られた巨大なルビーを惜しげもなく夫人にプレゼントするという一幕もあり、両者の協調と和解を深く宮廷に印象づける結果となったのである。
これには王族一派、とりわけプライドの高いアデライード王女などは憤激のあまり途中で退席してしまうほどの不興を買うことになった。
夫人を快く思っていない宮廷人も眉を顰めるむきもあったのだが、肩すかしをくらったのは彼らだけではない。
マリーと夫人の対立を奇貨として王太子勢力の封じ込めを図った貴族たちにとってもこの二人の協調は大打撃であった。
陸軍卿ラ・ヴォーギュイヨンはあ然としたまま立ち上がることが出来ず、ルイ・フィリップもまた嘆息して天を仰いだ。
よくも悪くもデュ・バリー夫人は虚飾を好む平凡な女にすぎない。
王太子妃と親交を結び、さらには貴重な宝石までもらったとなれば今後正面からマリーに敵対することはないだろう。
「夫人とは10年先でもこうして親しくさせていただきたいものですわ」
10年先と言う言葉にアクセントを置いたマリーの真意を夫人は誤らなかった。
すなわちオーギュストが即位しても権勢を保ちたいのならラ・ヴォーギュイヨンたちに惑わされて敵対するなと言っているのだ。
愚かなことにこのときになって初めて、デュ・バリー夫人はルイ15世が崩御したあとの自分の立場というものに想像が及んだのであった。
今のままでは当然のように追放される。いや、無実の罪に陥れられることすらあるかもしれない。
「私たち、いい友人になれますわね?」
あくまでも純真そうなマリーの満面の笑みに、獰猛な獅子の咆哮を幻視した夫人は引き攣った笑みを浮かべてただコクコクと頷くことしか出来なかった。
いかに夫人が権勢を誇り我が世の春を謳歌しようとも、二人の上下関係は今このときに決定したと言ってよかった。
「…………………なんと頼もしきかな、我が妻」
苦笑とともにオーギュストはこちらに気づいてヒラヒラと手を振るマリーにウインクして感謝の意を伝えた。
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