第6話 ハプスブルグの薔薇

 ハプスブルグ家ならではの豪奢な金髪を揺らしながら、カロリーナは頬を紅潮させて紙面に視線を走らせていた。

 普段から無表情にも思われがちなほど感情の起伏のない彼女が、珍しく興奮を露わにしているのをショワルーズは驚きとともに見つめている。

 いったい王太子はどんな魔法を使ったものか――――。

 カロリーナにとって彼の国の太子からの手紙は実に率直なものだった。

 もちろんカロリーナの美しさを讃える芸術的な修辞が施されたお題目も添えられてはいたが、カロリーナにとって本当に大事なのはそんな言葉ではなかった。

 ―――――貴女と新たなフランスの礎を築きたい。私には貴女が必要なのです!

 カロリーナにとって太子に投げかけられたその言葉の意味は重い。

 母の政治的才能をおそらくは娘たちのなかで最も色濃い形で受け継いだ彼女にとって王太子ルイ・オーギュストの提案は非常に魅力的なものに感じられた。

 もちろん短い文面からは彼の太子の意思が明確に伝わるものではないが、女であるという理由だけで後宮に押し込めるような意思のないことだけがわかれば、カロリーナとしては十分すぎるように思われた。

 籠の中の鳥に甘んじるほどカロリーナの器量は安くはないはずであったからだ。

「ショワルーズ公………どうかオーギュスト殿下によろしくとお伝えください」

 そういってショワルーズに返書を手渡すカロリーナはひそかに固く決意していた。

 ………彼女にとって理想の夫婦とは両親たるフランツ1世とオーストリア公マリア・テレジアにほかならない。

 先年他界した父は母テレジアの操り人形であったというまことしやかな噂が流れているが、それはまったく事実と異なることをカロリーナは知っていた。

 父フランツ1世と母マリア・テレジアは当時の王室の人間としては非常に稀有なことに恋愛結婚を果たした。

 もともとフランツ1世はロレーヌ(ドイツ名ロートリンゲン)という吹けば飛びそうな小国の出身にすぎないため、その結婚に至るには数多くの困難が存在した。

 中でも大きなものがフランツの故郷ロレーヌのフランス王国への割譲である。

 厳密には元ポーランド国王スタニスワフへの譲渡であり、代わりにトスカーナ大公国が与えられることになっていたが、当時のトスカーナは戦争で破壊されつくしており決して旨みのある土地とはいえなかった。

 故郷か結婚か、内心でどんな葛藤があったにせよフランツは決然としてテレジアとの愛を選択したのである。

 だが残念なことにフランツは外交家としても軍人としても三流以下の技量しか持つことはかなわなかった。

 そのためテレジアにいいように操られるフランツは、同じ国内の貴族たちにまで侮りを受け、その誇りはいたく傷つけられていたはずであった。

 しかしそれでもフランツのテレジアへの愛情は小揺るぎもせず、テレジアもまた夫への信頼を失うことはなかったのである。

 カロリーナは慈愛に満ちた父の優しい笑顔を今でもありありと思い出すことができる。

 外交と軍事にはまるで才のなかったフランツだが、財政家としては逆に超一流の才能に恵まれていた。

 荒廃しきったトスカーナ大公国を建て直し、軍事費の圧迫を受け逼迫したオーストリアが国債を発行する際にはその保証人になれるほどの莫大な財産を築き上げたその手腕はテレジアでさえ遠く及ばない。

 二人は確かな愛情で結ばれながら、かつお互いになくてはならない政治的パートナーであったのである。

 ―――――願わくば自分もそんな夫と愛し合いたい。

 ハプスブルグ家の娘として産まれた以上、政略のために他国へ嫁ぐ覚悟はとうにできている。

 その理想の夫の片鱗がルイ・オーギュストに窺えたからには、この機会を逃すつもりはカロリーナにはなかった。

 男に守られるか弱い女であるより、夫を守るたくましき妻でありたい。

 カロリーナがテレジアから受け継いだのは、むしろその政治的才能よりも女としては過剰なまでのその母性であるのかもしれなかった。

「お姉さま………なんだかとってもうれしそう………」

 アントーニアが不思議そうな顔で姉を覗き込む。

 面倒見はよいものの、今ひとつ子供らしい感情の発露が足りない姉が珍しく頬を染めて薄く笑う姿は好奇心旺盛なアントーニアの注意を引くには十分すぎた。

 もしもここで、姉の心を捕らえたものがフランスの王太子であると知れたならば、独占欲の強いアントーニアがどのような反応を示すのかカロリーナは誰よりもよく知っていた。

「アントーニアはわからなくていいのよ……………ええ、そう何も」

 愛すべき可愛い妹である。

 まるで神に愛されたかのような整いつくされた造形は、数多いテレジアの娘たちの中にも並ぶものがない。

 カロリーナも水準以上に十分美しかったが、それでもこの妹には一歩及ばぬものであることをカロリーナも認めないわけにはいかなかった。

 だからこそ、愛すべき妹は女としてはもっとも身近で手強いライバルにほかならない。

 これに手加減する必要をカロリーナは認めなかった。

「アントーニア、お姉さまを怒らせるようなこと、した?」

 愛されることにあまりに慣れすぎたアントーニアは、そんな姉の敵意を正確に感じ取ることはできなかった。

 それでも姉が愛情以外のなんらかの感情を自分に向けていることだけは感じられた。

「………そうね…………あと4年もすればアントーニアもわかるようになるかしら」

 男女の機微をアントーニアが理解するまでにあと4年はかかるだろう。

 その前に早く既成事実を作り上げてしまわなければ。

 獲物を狙う女豹のようなその獰猛なカロリーナの本性をルイ・オーギュストが知るのには、まだしばらくの時が必要であった。





「………なんだか肌寒くないか?カルノー」

「いえ、むしろ暑いくらいかと思いますが…………」

 ゾクゾクと背筋に寒気を感じた私は所在無げにあたりを見回した。

 空の青さが目に痛くなりそうな晴れ空である。

 すごしやすい暖かな風からは先ほどの得体の知れない寒気の欠片も感じ取ることはできなかった。

「お待ちしておりました」

 鼻が高く、知的な風貌の青年がうやうやしく頭を垂れる。

 丁重で嫌味のないその洗練された物腰は彼の受けてきた教育水準の高さを如実に物語っていた。

 彼の名をアンヌ・ロベール=ジャック・テュルゴー。

 5年ほど前からリモージュ州知事として数々の進歩的な施策で脚光を浴び始めている男であった。

 私はその彼をベリー公領の全権代官として招聘していたのである。


 アンヌ・ロベール=ジャック・テュルゴー

 彼は18世紀フランス最大の経済学者と言っても過言ではない。

 1766年に発表された彼の「富の形成と分配に関する考察」は後に「国富論」を表すアダム=スミスに絶大な影響を与えたことで知られている。

 資本主義経済を解き明かす需要と供給、富の剰余と投資と成長のメカニズムをテュルゴーはその著作の中ですでに明快に解き明かしているのである。

 彼が届かなかったのは後世に名を残すだけの経済学者としての名声と、理論では完全には解明できない「神の見えざる手」を指摘することができなかったことぐらいなものなのだ。

 また彼は19世紀半ばに成立する限界革命理論の礎を築いた人間としても知られる。

 彼を重農主義者という括りに入れるのは厳密な意味では正しくない。

 流通上の市場価格と自然価格を初めて理論づけたほどの秀才である彼だが、残念なことに運だけが足りなかった。

 フランスの国家財政再建の切り札として登場した彼は、その優秀な施策にもかかわらず1770年代に重なった飢饉によって挫折を余儀なくされてしまう。

 また自説の正しさを確信していたゆえか、庶民感情に厳しかった彼はフランス国民からは蛇蝎のごとく忌み嫌われた。

 1776年に彼が発表した6つの勅令――――すなわち取引価格の自由化、賦役の廃止、ギルドの解体、土地税率の均一化などは後の経済学者からも絶賛を浴びるものであった。

 だが折悪しく飢饉によって不足した小麦をブルジョワジーが買い占めたことで小麦価格は急騰、長期的に見ればその価格はどの時点かで暴落して帳尻があったことは確実なのだが、日々の糧に困った庶民は価格の高騰をテュルゴーの価格自由化のためであると信じた。

 ギルドに代表されるブルジョワジー、大地主でもある貴族、パンを求める市民の全てを敵に回していたテュルゴーはマリー・アントワネットの寵臣に対する目こぼしを拒否したことで最終的に王の後ろ盾も失った。

 多大な努力を報われることなく財務総監を解任されたテュルゴーは、ただ王室の無事を祈り何一つ文句を言わず職を辞したと言う。

 経済学者であり、合理主義者である彼は、同時に頑固なまでの王室の擁護者でもあった。

 もし彼にネッケルなみの人気があれば間違いなくフランス史は変わったと言われる。

 リモージュ州の民には悪いが彼は私の計画上、なくてはならない人材なのだった。

「新農法は進んでいるか?」

「区割りにまだいささかの時間が必要かと」

 すでにイングランドで推し進められている農業革命は、要するに休耕地をなくし家畜の継続的な使用を可能にした土地の有効活用にほかならない。

 だがそのためには集約された労働力と、何より広い耕地面積が必須であった。

 土地の区画整理と労働者の集約なくして農業革命はない。

 そして農業革命による人口の増加と余剰労働人口なくして産業革命もない。

 いずれにしろ効果が目に見えるようになるまでにはまだしばらくの時間が必要であった。

「…………それにしても殿下の奨励されたジャガイモは寒さに強く保存にも向き手間もいらないのでかなりの収穫が期待できそうです。これで人民も飢えの苦しみから救われることでしょう」

 ジャガイモなくしてドイツの人口増加はなかった。

 サツマイモほどではないが救荒作物としてのジャガイモの力は恐ろしく巨大なものだ。

 冷害による小麦の不足はどうすることもできないが、ジャガイモの量産が間に合えば少なくとも飢え死にの心配だけは取り除くことが出来る。

 将来的にテュルゴーの経済政策を推し進めるうえで障害は出来るかぎり取り除いておくべきだった。

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