第5話 カルノー少年の主
ベリー公領を視察に訪れるための許可を得るのに、まさか一月以上の時間が必要となるのは計算外だった。
王太子が治安の悪い地方を直接巡幸することなど絶えてなかったことらしいので保安上から考えても無理からぬ反応であったらしいのだが。
確かにこの時代の旅行は不便であり決して快適なものではない。
パリでの贅沢に慣れた宮廷貴族たちが、外遊に出たがらぬのはむしろ当然のことなのである。
だからこそ王太子の突然の外遊は宮廷内にさまざまな憶測を呼ぶこととなった。
しかしそんなことが気にならないほどに私にとっては王宮を離れることで、精神衛生上このうえない開放感を感じずにはいられなかった。
―――――私が王になったら誓ってパリの衛生は借金してでも向上させてやるからな――――!!
財政の危機より優先すべきものがある。
現代人感覚の抜けぬ私にとって、現在のパリの汚物の多さは精神的に絶対に容認できないものであったのだった。
歴史的な知識としてはわかっていた。
ベルサイユ宮殿にはトイレがないわけではないが、需要に対して圧倒的に少ない数でしかなかった。
そのため貴族や使用人はしばしば廊下や花壇で用をたし、汚物はそのまま投げ捨てられるに任せていたと言う。
婦人がトイレに席をはずすことを花を摘みにいくという表現があるが、それはベルサイユ宮殿の貴婦人が花壇で用をたしていたことに由来するのである。
ベルサイユ宮殿の観光名所で有名な庭園の噴水広場などは、格好の糞尿捨て場と化していた。
実のところフランスの公衆衛生が整備されるのは現代になってからのことなのだ。
しかし親日家としてジャポネの清潔感を愛する私としては、このようなフランスの惨状は断じて受け入れられなかった。
同時期のジャポネの首都エドでは公衆トイレ、下水道、さらには糞尿のリサイクルシステムすら確立されていたのである。
河川交通を利用した汚穢船による糞尿の輸送システムすら完備されていたのだから驚きだ。
エドは当時の人口密集地として世界で最も清潔な都市であった。
それに比べて我らがパリのなんと不潔なことか。
美しかったはずのセーヌ川は14世紀以降の人口増加とともに排出されるゴミ・糞尿・牛や豚の臓物や血にいたるまでが全て投棄されていたために、何層ものヘドロが堆積する汚泥の川と化していた。
パリに地方からやってきた踊り子たちは、セーヌ川の水を飲んで必ず下痢に襲われたとも言う。
これらの不衛生さはペストやコレラの温床となり、数え切れぬ市民たちの命を奪ってきたにもかかわらず、改善されたのはごくつい最近のことである。
実際のところセーヌ川の美化は、シラク大統領がまだパリ市長であったころに始まる。
当時のパリ市民は市長の美化宣言を一笑にふし、清掃作業中にいったい何台の自動車や何人の死体があがるかについて賭けすら行われたと言う。
まだ青年であった当時、私自身セーヌ川でトライアスロンを行う日がこようとは夢にも思わずにいたものである。
フランスきっての知日家として知られたシラク氏は、見事に公約を果たしてのけたのだ。
あの日の感動を私は一日たりとも忘れたことがない。
今思えば政治家を志したのもあのシラク氏あればこそであった。
「まずは公衆トイレの設置………あとは公衆衛生の啓蒙か…………」
ペストはともかく、天然痘とコレラについてはこの先も流行が確実であるだけに早急な対策が必要であった。
当時の幼児の死亡率の高さも、不衛生と決して無関係とは言えないのだ。
それに生活環境の改善は国民の人気とりにも馬鹿にならぬ効果があるのは、現代でも各国が社会福祉政策を推し進めていることでも明らかだった。
背後から「水に気をつけろ!」という叫び声があがる。
パリの市民の間で糞尿を窓から投げ捨てるときの合言葉のようなものだ。
王宮ばかりかパリ市全体が汚物に塗れて生活している、という実感に私は暗澹となりながらパリを後にしたのであった。
ベリー公領はフランスの中部に位置する豊かな農産地である。
フランスがイギリスに産業革命で先を越されたのは、肥沃な大地に恵まれすぎていたことが大きい。
単位面積あたりの収穫量が土地の痩せたイギリスより格段に大きいため工業化を推進する動機に欠けるのである。
とはいえ農民たちの生活が楽かというと決してそうではないのも問題だった。
生産力の余剰は生産者ではなく、貴族と聖職者たちが吸い上げる仕組みが強固に出来上がっていた。
いくら働いてもろくな稼ぎにならない、となれば生産者の向上心が高まるはずもなかった。
彼らは学業によって弁護士となるかあるいは兵士となり、貧しい農民生活から解放されること強く望むようになっていたのである。
こうした貧しさからの脱却を動機として成りあがった知識階級が、現行の身分制度に不満を持つのはごく自然の成り行きだった。
フランス革命のメンバーで弁護士出身者が多いのは、そうする以外に豊かになる方法がなかったからだ。
しかし法という論理で理想を追う彼らは、理想と現実が相反するとき、しばしば理想を優先することで現実から乖離した対応を見せてしまった。
それこそが革命が共和政治を持続できなかった最も大きな問題であった。
「………といって連中を取り込まずに改革が成立するかというとそういうわけにもいかんしな………」
頭の痛い問題だが、法による統治体制と工業化による国力の増進には知識階級の力が欠かせないものであることも確かなのである。
彼らを全て排除することは、結果としてラボアジェのような化学者をギロチンにかけた革命政府となんら変わることがない。
私の最終目的は象徴的権威として王政を維持した立憲君主体制の確立なのであって、現行の専制政治の継続にはない以上彼らの力を失うわけにはいかなかったのだ。
「…………フリードリヒ大王ですらなしえなかったことだからな………」
これぞという妙案は出ない。
重いため息とともに私は頭をふるほかなかった。
カルノーにとって初めて仕える主人は不可解というほかはない。
今も目の前で頭を抱えながらプロイセンの君主の名を呟いているが、まるで年来の友人のように事跡を評価し、才能を称えているのが見て取れる。
だが少なくとも王太子がフリードリヒ王と面識がないことは確かであった。
であるとするならばいったいどこで王太子はフリードリヒ王の手腕を知ることが出来たのだろうか。
また先ほども公衆衛生がどうとか呟いていたが、そもそも公衆衛生とはなんのことか?
仕える身としてはこれほど仕えにくい人物もおるまい。
主の思考は遥か先を見通しており、こちらが主から知識を与えられるばかりでいまだ主の思考を先読みできたためしがないのだ。
名門とはいえ平民の自分をわざわざ王宮に召しだすこと自体が不可解である。
しかもその平民の自分が、王太子の家庭教師に教えられる席に同席させるというのだから呆れる。
もっとも知的好奇心の強い自分にとってはいくら感謝してもしきれないことであるのもまた事実であった。
先日来訪されたアントワーヌ・ラヴォアジェ殿の化学実験には心躍らされたものである。
その日についても確か王太子は
「ベルトレーとも協力してすみやかにアンモニアの合成を目指してくれ」
…………と言っていた。
果たしてアンモニアとはいかなるものなのだろうか。
化学組成式なるものを太子が話されていたときにラヴォアジェ殿が目を剥いていたのが印象的であったが。
………それにしてもわずか11歳の少年が若き天才化学者と対等に化学談義をできるということがありうるのだろうか。
主の不可解さはそればかりではない。
先日などはパリ医科大学の秀才ニコラ・ルブラン殿を招いて木材を使わずにソーダを組成する方法について研究するよう指示をしていた。
ソーダが木材の灰を利用して作られていることぐらい私でも知っている。
もしもそれがいらないとなればどれほどの影響が出るものか、若輩の自分には見当もつかない。
知れば知るほど途方もない主であった。
だが、だからこそ毎日が楽しい。
自分の全く知らない世界の扉を開くことにはいつも変わらぬ悦びがある
この先どれほどの新たな発見があるかと思うと胸の高鳴りを抑えることが出来ない。
ブルゴーニュの敬虔なクリスチャンである父のもとにいては適わなかったであろう夢である。
父の意向で神学校に入れられ、その後は父の後をついで弁護士になるか士官となって軍で身を立てるかという平凡な人生を送っていたであろうことを考えれば、王太子にはいくら感謝しても感謝しきれないところであった。
―――――いつかきっと主と同じ場所に立ってみせる。
今の自分には見えないどれほどのものを主が見ているのか、それが知りたい。
それを知りえたときにこそ、自分は太子の側近として存分にこの恩を返せるのに違いなかった。
幸いにして主は自分が主と同じだけの知識を持つことを望んでいるように思われる。
もっともっと主に近づきたい。
果たしてベリーではどんな新しいものを目にすることができるものか。
カルノーは笑み崩れながら期待に胸を膨らませていた。
後に「勝利の組織者」として名を残すラザール・カルノーは組織者であるゆえに合理主義者であった。
だからこそ理想主義者のサン=ジュストなどとは相容れなかったし、王党派という同じフランスの勢力を使うことに何のためらいもなかった。
フランスからの亡命を余儀なくされてからも彼の好奇心は留まることを知らず、哲学、数学、軍事学において傑作を呼ばれるに相応しい著作を発表し続ける。
彼こそは時代を遅れて現れた万能の人なのかもしれなかった。
そして彼が革命政府内において、常に穏健派として知られたことを私は知っている。
……………あまりに頭がよすぎるから冷徹な合理主義者に思われがちだが、その根本には慈愛がある。
才能の豊かさゆえに早めに王宮に招聘したカルノーであったが、私の予想を超えて彼は尊敬に値する男であった。
それは同時に、おそらくはこれから相手をすることになる歴史上の人物たちが私の想定する以上の力を備えているということでもあるのかもしれない。
ニコニコと頬を緩ませているご機嫌なカルノーを見ていると、そんな困難な戦いもそう捨てたものではないという気がして知らずいつしか私も笑みを浮かべていた。
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