アジア一匹素浪人

南風はこぶ

   アジア一匹素浪人 (前篇)

    プロローグ


          1


 2003年五月四日、午前五時、ある施設の警備員として勤務中の私は、警備室に置かれたテレビのスイッチを入れた。その施設の警備員業務の一環として、三時間後には旗や幟を掲揚せねばならないのだが、雨の降る日は旗の類を揚げられないため、天気を確認しようと思ったのである。

 天気予報を探してチャンネルを変えていると、民間放送局のニュース番組に行き当たった。画面には、日本人男性の白黒写真が大きく映し出されている。

精悍そうな丸顔に眼鏡をかけ、頭を整髪料で固めた顔に見覚えがあった。若い頃の写真のためすぐには気がつかなかったが、写真の主は確かに石村南次郎氏である。石村氏は私がマニラで食料品の輸出をしていた頃に知り合った経営者仲間で、七年ほどの付き合いがあった。

「三日、現地時間の朝三時頃、マニラ在住の石村南次郎さんが、何者かに自宅で就寝中を襲われ、死亡しました。拳銃で撃たれたとのことです」

 女性アナウンサーの声が、私の耳に飛び込んでくる。強盗事件のような報道であった。

 殺されたのが五月三日の早朝といえば、既に丸一日が過ぎている。石村氏の元気な姿と陽気な声が、俄に私の記憶に蘇る。もはや石村氏がこの世に存在していないとは、とても信じられない。

 突然のニュースによって私が思い出したのは、石村氏から頂いた原稿のことであった。私の頭に浮かぶのは、その原稿で書かれていた「あのこと」なのである。


 六年前の八月下旬、フィリピンでの商売を諦め、私が日本へ帰国する三日前のことだった。別れの挨拶をするため、メトロ・マニラ(マニラ首都圏)南部のパラニャケ市にある石村氏の自宅を訪ねると、私は彼の書斎に通された。

「これをあんたにやるよ。多少の金にはなるはずだ」

 ワープロで印刷された数十枚の原稿を、石村氏が私に差し出した。これから日本へ引き揚げ、生活の苦しさが予想される中年男の私に、困った時はこの原稿を売って金にしろというわけである。

 本当に金になるのかと半信半疑で原稿を受け取りながら、「小説ですか」と私が訊ねると、石村氏は首を横に振り、「全部実話だよ」と言う。

 石村氏が勧めるので、その場で私は原稿に目を通すことにした。最初のページには目次があり、七つに分けられた各章には、フィリピンでの商売や生活の体験談が書かれており、その中には有名スーパーの女性店員や銀行受付嬢との性遍歴を暗示するタイトルもある。

 目にとまったのは、共産軍ゲリラ女性との一件であった。商売人の石村氏とゲリラ女性の組み合わせは、私には想像もつかない。

 興味を誘われて読んでみると、そこには一九八六年に起きた、大手商社マニラ支店長誘拐事件の記述があった。私の知る限り、支店長誘拐事件の真相は今も不明のままである。解放された若林支店長は、アキノ大統領に面談したのち直ちに帰国し、事件については何も語っていないのだ。勿論、今日に至るまで真犯人は名乗り出ておらず、逮捕されてもいない。

 ところが石村氏の原稿には、犯人とおぼしき二人の日本人のことが綴られている。

「この原稿は誰にも見せたことがないのですか」

 事件の内幕が書かれていることに驚き、私は質問した。

「実を言うと、一度だけあるんだ。去年、仕事の打ち合わせで日本へ行ったんだが、その時、B社へこの原稿を持ち込んだのさ。十万円なら買うと言われたよ。勿論、俺は原稿を引き揚げてきたがね」

 週刊誌で有名な出版社の名を挙げ、未だに憤懣やるかたない気持ちを石村氏は表情ににじませた。日本中を騒がせた大事件であり、今も謎が残っているのであれば、十万円の原稿料は安すぎると言いたいのだろうか。それとも、持ち込んだ原稿を、端からガセネタ扱いにされた悔しさがあるのだろうか。

「もしこれが世間に発表されていたら、ちょっと厄介なことになっていたかもしれませんね。どうして公表しようと思ったのですか」

 事件の犯人が特定されている原稿のため、もし公になれば当事者から訴訟を起こされる可能性があるのを私は懸念した。

「確かに、ちょっとした騒動にはなっていたかもしれん。しかし、このままフィリピン人だけが悪者と思われていたんでは、この国にお世話になっている人間として寝覚めが悪いんだ。事件から十年も過ぎたことだし、関係者が安全になった頃を見計らって、いつか真相を明らかにしようと俺は思っていたのさ。まぁ、それはそれとして、原稿が公になれば、あんたに迷惑がかかるかもしれんが、暮らしに困るようなことがあったら、遠慮なく売ったらいい」

 いくつか気になる点があったが、石村氏の厚意を無下に断るわけにもいかず、私は頭を下げて原稿を受け取ったのであった。


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 二十四時間の勤務を終え、午前十時半頃、千葉県船橋市にあるアパートへ私は戻った。

 私がフィリピンから帰国して、既に六年近くが過ぎている。帰宅の京成電車に乗りながら、久しぶりにマニラの熱い空気が胸の内に蘇ってくるのを私は感じていた。

 帰宅してしばらく経つと、親しかった石村氏が、なぜ、誰に殺されたのか、どうしても知りたくなった。私の頭からは「あのこと」が離れず、いてもたってもいられない気分である。

 私は勝手に犯人を推測していた。しかし、今になって突然、犯人から復讐されたと断定するのは、無理な気がする。なにしろ、あの誘拐事件から十六年も過ぎているのだ。

 時計を見ると午前十一時、マニラは一時間遅れの午前十時である。私と石村氏の共通の友人で、マニラ在住の江口氏に国際電話をかけた。

「今朝、パラニャケ警察へ行って聞いてきたよ。自分の部屋で寝ているところを、三十八口径の拳銃で六発も撃ち込まれていたそうだ。単なる物取りではないらしい。従業員の一人が姿を消していて、警察は彼の行方を追っているそうだが、それ以上のことは教えてもらえなかった」

 力の抜けた江口氏の声が聞こえた。友人の突然の死により、かなり気落ちしている様子が伝わってくる。

 ひと通り事件の話が終わり、その後は互いの現状を語り合って電話は切れた。

 部屋の畳に胡座をかき、江口氏の話を思い出しながら事件のことを考えていると、一つの疑問が湧いてきた。

 石村氏の自宅では数匹の犬を飼っており、いずれも体長二メートルにおよぶ大型のグレートデンばかりだった。私も一匹を譲り受けたことがあるのだが、あるとき散歩をさせていると、原っぱに繋がれていた山羊に突進してかみ殺してしまったことがある。グレートデンは元々は猟犬で、かなり獰猛なのだ。

 石村氏の飼っていた何匹もの犬は、不審者が侵入したときに吠えなかったのだろうか。大邸宅と呼べるほどのだだっ広い家ではなく、しかも、風通しの良い鉄格子で作られた犬小屋は、石村氏の自室に近かった。大型犬であるグレートデンの吠える声は、大きいばかりか凄味がある。外から賊が侵入すれば、数匹の犬が一斉に騒ぎ、石村氏は目を覚ましたはずだ。同居人の犯行でないのなら、特殊な教育を受けたプロの仕業でしかありえない。

 遅い朝食をとり終えると、私は押し入れの段ボール箱から石村氏の原稿を引っ張り出した。原稿をしまい込んでいたのは、公表するつもりが全くなかったからである。暮らしに困ったら遠慮なく売れと石村氏は言っていたが、受け取り後にきちんと読んでみれば、訴訟の問題だけではなく、石村氏の身に危険が及ぶのは明らかだった。

 しかし、石村氏はもうこの世にはおらず、関係者も無事な環境にいると本人から聞いている。何も躊躇する必要はない。ここはひとつ、石村氏の意志を継いで、残してくれた手記を公表すべきではないか、と私は思い始めた。

 原稿を読み返しているうちに、私は睡魔に襲われた。仕事先での仮眠時間は、僅か四時間である。勿論、勤務中のことであり熟睡などできはしない。

 布団を敷いて横たわり、私は目を瞑った。事実を公にするかどうか、迷いがある。なぜなら、石村氏を殺害した犯人が私の推測通りであれば、公表を知った犯人グループは、人権や名誉毀損を盾にして私を裁判に訴えるだろう。私には法廷で争う金銭的余裕はなく、有罪となれば罰金も払えない。懲役に服するしかないのだ。

 それでも、真相を明らかにして石村氏の敵を討つ勇気があるかどうか、私は迷い続けた。個人の勇気の問題ではなく、社会のためになるかどうかを見据え、真実を知った一人の人間の義務として行動出来れば良いのだろうが、小心者の私には荷が重すぎる。

 どうしたらよいのか、私の頭の中で自問自答が繰り返された。

 近所の幼稚園から、元気な子供の歌声が聞こえてくる。アパートから少しばかり離れた表通りからは、行きかう車の騒音が聞こえていた。やがて、幼児の歌声と騒音が私の頭の中で混じり合い、マニラの喧騒のように感じられてくる。



   第一章


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 石村南次郎の倉庫と事務所は、フィリピン共和国メトロ・マニラ(マニラ首都圏)のマカティ自治区にあった。往きと帰りで多少の違いはあるが、フィリピンは成田空港から飛行機で四時間の距離にある。太平洋戦争では五十万の兵士や在留邦人が亡くなっており、日本の誇った連合艦隊が壊滅した国、神風特攻が始まった地として、日本人にとっては因縁の地だ。

 マカティ地区は、フィリピン経済の中心ともいえるビジネス街である。証券取引所、銀行、百貨店、外資系ホテルなどの近代的なビルが林立しており、「住友商事」などの日本商社も支店を構えていた。

 ビジネス街を囲むように、「ウルダネタ」、「サン・ロレンソ」、「ベル・エアー」、「フォルベス・パーク」といった閑静な高級住宅地が点在していて、「マカティ」と言えば、一流会社のオフィスが集まり高額所得者の住む街を想像するのだが、石村の事務所と倉庫のある西北部付近には、同じマカティとは思えない下町風情が漂っていた。

 近くには「サンタ・アナ競馬場」がある。競馬の開催されていない日でもごった返している路上の光景を、石村は気に入っていた。背広姿などは一人もいない。ジーンズか半ズボンにTシャツ、色とりどりのワンピースやスカートの男女の姿が目立つ。倉庫周辺の路上には、トライシクルと呼ばれる、日本製のオートバイにサイドカーをつけた庶民の足が、排気ガスと騒音を振りまいて走っている。行き交う人の姿には、その日の生活費を稼ごうと、みんな必死になって生きている汗が感じられ、自分も懸命になろうと思わされるのだ。

 フィリピン全土から集めた椰子の繊維を洗浄、加工して日本へ輸出するのが石村の商売である。事務所は四十フィートのコンテナが数本入る倉庫の片隅にあった。椰子の繊維は水はけが良く、粉砕した古タイヤのチップと共に、ビルの屋上に敷く人工地面の土台として使われており、まだ日本では普及していないものの、これから成長の見込める商売だと石村は手応えを感じている。


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「会社は従業員がいるからやっていけるんだ。日本人だからといって、あんまり欲張るんじゃないぜ」

 事務所の椅子にそっくり返ったまま、したり顔でアーサーが言った。アーサーは八人いる従業員の一人で、平均寿命が短いフィリピンでは高齢の六十歳である。温和な人柄のようなので採用し、普段は人当りもよいのだが、待遇に不満があるらしい。人は外見では分からぬものだと、今更ながら石村は思う。

(これまで、どれほど俺が散財してきたか、この男は何も分かっちゃいない。生命保険も解約し、持ち金すべてをつぎ込んで始めた商売なんだ。しかも、日本の猛暑のおかげでビルの屋上緑化が増え、ようやく商売は軌道に乗ってきたものの、まだまだ自転車操業そのものなんだぞ)

 アーサーの態度を苦々しく思いながら、三十八歳の石村南次郎は話を聞いている。アーサーの要求は、基本給の倍増、残業代の十割増し、夜間作業時の危険手当、ボーナスや住宅手当の支給などであった。

「君の条件を全て受け入れていたら、この会社は生き残れないよ。そもそも、君の条件を満足させている会社がフィリピンにあるのかい。もしあるのなら、俺に教えて欲しいもんだ」

 一方的な言い分に腹は立つものの、石村は説得を試みた。蒸し暑い事務所の中で、話し合いは既に二時間も続いている。

「あんたが何と言おうと、もう遅いぜ。いいか、よく聞けよ。日本企業で働く従業員を敵に回すということは、フィリピン全土の労働者を敵に回すことになるんだぞ。ストライキをやれば、全国から仲間が応援に駆けつける。そうなればどうなるか、分かっているんだろうな」

 脅すような低い声を出して、アーサーが言った。表情一つ変えず、石村を睨みつけている。

「大袈裟なことを言うじゃないか。こんなちっぽけな会社のストライキに、全国から応援が来ると本気で思っているのか。もう少し、現実を考えたらどうなんだ」

 大袈裟なアーサーの言葉に刺激され、思わず怒鳴り飛ばしたい衝動に駆られたが、やんわりと石村は説得を続けた。

「ストライキが悪いとは言っていない。労働者の権利であり、要求を通すには効果的な戦術だろう。しかし、組織に頼るのは良くない。俺がこんなことを言うのは筋違いかもしれんが、大切なのは団結だ。それは、皆の合意があってこそ、成り立つものと俺は思う。君の間違いは、組織に頼み込んで、上からストライキをしようとしていることだ。団結とはほど遠いと思うんだがな……」

「お説教は充分だ。あんたが聞く耳を持たないなら、ストライキは必ずやる。どんな結末になるか、楽しみにしていろ」

 椅子から立ち上がり、石村に目をやることもなく、表通りに面した事務所の入り口からアーサーが出て行こうとしている。機械油で汚れたズボンの後ろ姿に、石村はかすかな同情を覚えた。

「待ってくれ。ストライキの話は良いとして、昼飯は食ったのか」

 石村は声をかけた。懐柔しようというのではない。充分な給料でないことは分かっているので、せめて昼飯でもおごろうという気持ちである。しかも、ストライキをやるとしても、その後をどうするつもりなのか、年齢ゆえに彼の再就職は難しく、大きな困難が待ち受けているに違いない。 

 一瞬、アーサーが戸惑う様子を見せる。しかし、石村の言葉を無視して、アーサーは出て行った。


          3


 静かになった事務所で、何か自分に落ち度がなかったかと石村は考え始めた。

 雇い入れた従業員に、過酷な労働を押しつけたことは一度もない。それどころか、手持ちの資金が底をついた時でも、船積みの作業時には食事や臨時の手当てを出し、和気藹々と仕事をしてきたつもりである。にもかかわらず、基本給の倍増、どの会社でも行っていない残業代の十割増しや住宅手当などをアーサーが要求するのは、石村が外国人だからであろう。外国人とみれば、ここぞとばかりに法外な要求を持ち出すのがフィリピン人の悪い癖なのだ。

「せっかくここまでやってきたのに、何でこんなことになるんだ」

 机の上に肘をつき、石村は大きなため息をついた。ストライキが行われれば、まず無事ではすむまい。共産党の軍事組織である新人民軍が介入してくることもあり、そうなれば会社がつぶされるどころか、殺されることも覚悟せねばならないのだ。

 現地で商売を営む友人たちの身に起きた事件の記憶が甦る。蘭の花を栽培していた長谷部は、従業員との金銭トラブルから自動小銃で顔面を乱射された。ナイトクラブの雇われマネージャーだった並川は、やはり従業員との金銭トラブルで、その従業員の愛人である警官が、深夜、店に乱入し、頭を抱えこまれて四発の弾丸を顔と首に打ち込まれている。いずれも即死だった。これがフィリピンなのである。

 胸の内に渦巻く不安に耐えながら、石村は考え続けた。

 アーサーの脅しは本物なのだろうか。よくよく考えてみれば、アーサー以外の七人の従業員全員が石村に敵意を持っているとは想像できない。公の数字はいざ知らず、実質的な失業率が四十パーセントを超えているフィリピンである。街中を歩くと、「NO VACANCY (空き無し)」と書かれた札や看板が目に付く。初めは空き部屋がない表示かと思っていたが、後になって、頻繁に訪れる求職者を断るものと知った。民家の軒先にも同じ文言の札がかかっているのは、家政婦の応募を断るためのものなのだ。

 確かにストライキはあちこちで起きている。しかし、ストライキにより会社がなくなってしまうことが多い現実も彼らは知っているはずだ。次の職探しが大変なことを考えるに違いない。

 満点とは言えないだろうが、従業員に対する態度にも自信がある。フィリピンの社会状況に不満はあっても、フィリピン人を下に見る気持ちなどは毛頭ない。同じアジア人、人間として差別などありようがないと考えている。最低賃金を上回った給料を与えているのも、その表れだ。

(負けてたまるか)

 気分を落ち着かせて石村が自らに活を入れた時、机の上の電話が鳴った。

「しつこい奴だ」

 軽い苛立ちを覚えながら石村は受話器を取った。この二か月間、毎日のように所轄税務署の職員から電話があり、多額の納税を迫られているのだが、その本音が賄賂の要求であることは見え透いている。


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 意外なことに、電話はテスからであった。テスは石村の教え子だったマリアの妹である。テスとはマリアの実家で一度だけ会ったことはあるが、事務所の電話番号は知らないはずだった。

「驚いたでしょ。電話番号は姉から教えてもらったの」

 石村の疑問を、テスが明らかにした。教え子のマリアが消息を絶ったのは三年前のことで、まだ石村は今の商売を始めていない。倉庫を借りて新しく事務所を開いたのは、わずか二年前のことだ。にもかかわらず、マリアが事務所の電話番号を知っていたのは、彼女が新人民軍に入ったという噂が本当であり、新人民軍の調査能力を示すものだろう。

「どうしたの突然。まさか悪い知らせじゃないだろうね」

 喉の奥から、かろうじて石村は声を出した。新人民軍のゲリラになったマリアの妹からの突然の電話となれば、マリアの身に何かがあった、殺されたのではないかと思うのも当然だった。

「違う、違う、違うわ。詳しくは電話で言えないから、これからそっちへ行ってもいい」

 石村の早とちりに驚いたのか、テスの慌てる声が聞こえた。

 四年前、三十四歳の時まで、石村は大手電器会社のマニラ駐在員であった。思うところがあり会社を辞め、その直後の二年間、スポンジ束子や造花の輸出を細々と続けながら、石村はフィリピン国立大学で日本文学の講師をしていたことがある。駐在員時代に知り合った大学の日本人前任者が家族問題で帰国し、急遽、臨時の講師を頼まれたのだが、マリアはその時の教え子であり、明治時代、ルソン島中部のケノン道路建設に参加した日本人の子孫でもあった。

 マリアが夏休みで帰郷した時、戦跡巡りをしていた石村は彼女と肉体関係を持った。ところが、夏休みが終わってもマリアは大学に姿を見せず、フィリピン共産党の軍事組織である新人民軍に入ったという噂が教室で流れた。処女を奪われた精神的ショックが原因ではないかと、今でも石村は自責の念を持っている。カソリック教徒の多いこの国では、今だに処女信仰が強く残っているのだ。

 テスの電話があってから四時間が過ぎた。何度かジープニー(現地製造の乗り合いバス)を乗り継いでくるため、途中で雨宿りなどをして遅くなっているのだろう。しかも、この豪雨である。マニラの交通渋滞はひどく、所々に洪水が発生していれば、テスがやってくるのは夜になってしまうかもしれない。

 今来るか、今来るかと、仕事が手に付かぬまま石村は待った。今更ながらではあるが、道に迷っているのに違いない、きちんと道を教えておけば良かったと心配になる。マリアに会えるかもしれないと期待したことで、だいぶ気が舞い上がっていたようだ。


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 表通りに面した事務所のドアがノックされた。素早く椅子から立ち上がり、石村は扉に走り寄る。

 1986年七月二十五日午後五時頃、細い体をしたテスが石村の事務所に現れた。昼前から降り出した土砂降りの雨で、テスはずぶ濡れである。二か月前からマニラは雨期に入っていた。

「久しぶりだね。元気にやってるかい」

 汗でずり落ちた眼鏡を引き上げながら、機嫌良く石村はテスにタオルを手渡した。タオルといっても、街頭の立ち売りから買った安物である。市内の通りでは煙草やサンパギータの首輪などを売るため、信号待ちの車に押しかける子供たちの光景が見かけられ、彼らはストリート・ベンダーと呼ばれていた。ちなみに、白いサンパギータの花には強い香りがあり、首輪型をした天然の芳香剤とでも言うべきものである。

 トタン屋根一枚の倉庫の中は、三十五度を超える暑さと豪雨による猛烈な湿気であった。そのため、事務所では普段から石村はランニングシャツ一枚の格好なのだが、マリアの妹ということで他人行儀の必要はない。

「姉からのメッセージを持って来たわ」

 四つに折りたたまれた小さなメモ用紙を青いジーンズの後ろポケットから引っ張り出し、男の下着姿を見るまいと伏し目がちにテスが差し出した。まだ十七歳の初心な女子大生なのである。

 わざわざテスが来たということは、マリアから何らかの頼み事があるのに違いなく、もしかすると、三年ぶりにマリアと再会できるかもしれない。石村の気分は高揚していた。

「わかった。必ず行くと伝えておいて」

 メモを広げて素早く読むと、石村は机の引き出しから百ペソ紙幣を五枚つかみ取り、テスに差し出した。百ペソ紙幣はフィリピンの最高額紙幣であり、日本なら一万円札の感覚である。初めは遠慮して手を引っ込めていたが、「これで洋服でも買いなさい」と言うと、目を輝かせてテスは受け取った。

 事務所に置いてあったこうもり傘を渡し、夕闇の下、通りがかりのジープニーに乗るテスを見送ってから事務所に戻ると、石村はマリアの目的が何かを思案した。強引に彼女と関係を結んだ石村を恨んでおり、まさか仕返しを企んでいるのではあるまいかという懸念が頭に浮かぶ。しかし、もしそうだとすれば、それもまた本望だと石村は思う。過去の話とはいえ、本気になって惚れた女性なのだ。


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 倉庫のトタン屋根を叩く激しい雨音を聞きながら、再度、石村は注意深くメモを読んだ。

「突然の手紙でごめんなさい。七月三十日の午後八時、『マニラ・ガーデン・ホテル』のロビーで待っています。もしその日がだめなら、都合の良い日時をテスに伝えてください。愛をこめて。追伸 会えない場合、この手紙は燃やして下さい」とあった。小さく丸まった英文の筆記体は、確かにマリアのものである。

 メモにあるアルファベットを注意深く眺めていると、マリアの姿が浮かんできた。知的でありながら時折見せた温和な眼差し、今も心に残っている笑顔、そして石村の男を乱した女の魅力を、どうして忘れられようか。

 マリアは二十五歳になったはずである。フィリピン国立大学のゼミ室で初めて出会った時、彼女は二十五、六歳に見えたが、実際は二十一歳だった。フィリピンの学制により大学は十七歳で入学できるため、他の学生に比べマリアが大人びて見えたのは当然なのかもしれない。他の学生より年齢が上だったのは、経済的に貧しく、親からの仕送りがないために休学を繰り返していたからである。

 マリアの身長は百六十センチを超え、男好きのする顔立ちは男子学生の憧れの的だった。自分の年齢や教師の立場もわきまえず、マリアを教室で見るたびに密かに石村も胸をときめかせていたものだ。それに加え、日系であるマリアの顔は日本人と見間違えるほどで、石村に強い親近感を与えていた。

世の中は不公平だと石村は思う。マリアほどの頭脳明晰な美人が日本に生まれていれば、一流会社への就職はおろか、モデルや女優になっていてもおかしくはなく、貧しさに困ることもあるまい。ところが、気候は暑く、失業者が溢れて犯罪が横行し、おまけに縁故社会で就職もままならない国にマリアは生きている。まさに「掃き溜めに鶴」といったところであろう。一方、日本の女たちは好況な経済の恩恵で遊びに明け暮れ、贅沢に溺れている。結婚費用が六百万という銀行の試算もあった。

「愛をこめてか」

 石村は呟いた。どうやら、恨みつらみで会ってくれというのではないらしい。それどころか、こんな短いメモ書きではあるものの、今も自分を愛してくれているとすら感じる。

 自惚れかもしれないが、「会えない場合」と書いてあるのは、新人民軍の兵士となり、軍や警察から追われる身になっても再会する覚悟はあるのか、それほどの強い愛情があるのかと試しているようであり、「この手紙は燃やして」というのは、証拠を消すというより、もう自分のことは忘れてくれという意味なのだろうか。

 マリアと再会することには、確かに不安がある。新人民軍は政府軍と日常的に戦闘を繰り返している軍事組織であり、そんな反政府組織と関わりを持てば、商売ができなくなるどころか、外国人である石村は良くて国外追放、下手をすれば巻き添えを食って殺される可能性があった。

(それにしても、なぜマリアは俺に会いたいと言ってきたのだろう。個人的な相談があるのか、新人民軍に関係があるのか。もし新人民軍に関係があるとすれば、どんな理由があるのだろう)

 石村は事務机に向かって考えた。仕事どころではない。マリアの姿が、頭にちらついて仕方がないのだ。


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 結論は簡単だった。今の時点で彼女の目的を考えても何も分からない。それよりも、三年前に彼女が新人民軍に参加したことを聞いて以来、ずっと考えてきたことをはっきりさせ、自分の目的を果たしてやろうと石村は思った。石村が考えていたこととは、彼女を自由にしてやることである。いずれ彼女も革命の夢から覚める時が来る、と石村は確信しているのだ。

 マリアがフィリピン共産党の軍事組織である新人民軍に入ったのは、マルコス時代の末期であった。マルコス一族やクロニーと呼ばれる取り巻き連中の不正が横行し、フィリピンは世界の最貧国に転落している。失業率は実質四十パーセントを超え、疲弊した地方の農民は首都マニラに集まっていた。東洋一とも世界一とも言われるスラム街「トンド」地区の名は、日本でも有名になっている。

 ネグロス島では伝統の砂糖産業が壊滅し、島民の多くは三日に一度の食事にすらありつけない状況になっていた。都市も農村も、まさに革命前夜という雰囲気が漂っていたのである。

 日本の好景気のおかげで石村の商売は順調であったものの、ネグロス島のニュースに石村は胸を痛めていた。会社員のままであったら出来ない真似であるが、ある時、三日に一度の食事を試してみた。二週間もすると、朝起きて目を開けたら霞がかかっている。軽い栄養失調であった。失明すると思い、慌ててレバーを大食いしたものだが、そんな体験をしてみると贅沢三昧のマルコス一家に対して憎しみが湧き、革命を目指すのも当然という気持ちになる。マリアが新人民軍に加わった動機は、麻疹のような日本の学生運動とは切実さがまるで違うと思い至った。

 しかし、今は「二月の革命」を経てアキノ大統領が誕生し、社会の雰囲気も明るくなっている。政治的な混乱は続いているものの、革命を起こせる状況でないことは、マリアも感じているのではないだろうか。

 このままゲリラ活動を続けさせていたら、いつ不幸に見舞われるか分からない。かつての教え子、貧しい移民の血を引く日系人、そして恋人であった彼女を、どうして見捨てられようか。

 新人民軍に加わったマリアがどんな日常生活を送っているのか、この三年間いつも頭から離れなかった。都市へ侵入して組合のオルグ活動に従事しているのか、それとも兵士として密林でゲリラ戦を繰り返しているのか、あるいは女としての魅力を買われて幹部の秘書役として使われているのかなどと想像を巡らすこともある。

 気がかりなのは、閉鎖的な組織であれば、何人もの男に抱かれてはいないかだ。明日のことが分からぬ生死をかけた毎日であれば、刹那的な気分に捕らわれてもおかしくはない。ましてや彼女は、もう成熟した女なのだ。

 石村の男が火照ってくる。かつて一度だけ関係を結んだマリアの肉体を石村は想像した。会わずにいた三年間で、マリアはどれほど女らしくなっただろう。日本人の血を引く白い肌とフィリピン女性特有の均整がとれた肉体は、独身である石村の心をかき乱した。

 消えかかっていたマリアへの思いが、一気に燃え上がってくる。マリアを取り戻し、一緒に暮らしたい。規律の厳しい新人民軍とはいえ、脱落者は大勢いるはずだ。幹部にさえなっていなければ、マリアが脱走しても決して大事にはなるまい。こうなれば、全てを捨てても構わないとすら思えてくるのだった。


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 中古で買った三菱ギャランをホテルの地下駐車場に入れ、石村は「マニラ・ガーデン」のロビーでマリアを待った。ホテルはマニラ首都圏の大動脈「エドサ大通り」沿いにある。

 約束の時間より三十分も早かった。ホテルは石村の事務所と同じマカティ地区にあり、急ぐ必要はなかったのだが、マリアへの想いに火をつけられた今となっては、どうにも気がせいてならない。

「マニラ・ガーデン」は日系企業が経営していることもあり、ロビーには日本人の姿が目立った。おそらく台湾からであろう中国人客もいる。石村が思い出すのは、韓国人、中国人、日本人の見分け方だ。目と目が合った瞬間、睨みつけてくるのが韓国人、微笑んでくるのが中国人、目をそらすのが日本人という具合である。

 そんな他愛のないことを考えながら、新聞も雑誌も持っていなかったので、注文したアイス・コーヒーをテーブルの上に置き、石村はガラス張りの玄関に目を配った。警察に追われている身であれば、変装してやってくるだろうと推測し、入ってくる客は男女関係なく一人一人に目を凝らした。

 時間がたてばたつほど緊張感が増してくる。数ヶ月前、マルコス政権を倒した「二月の革命」騒ぎ前後から、共産軍の首都突入を軍は極度に警戒しているはずなのだ。十一年前、「民族解放戦線」が突入し、あっという間に陥落した旧南ベトナムの首都サイゴンの混乱した様子が、南シナ海を挟んだ隣国ゆえに、国軍幹部の記憶に強く残っているのである。

 フィリピンの国軍は陸、海、空、警察の四軍体制で、警察軍は国軍副参謀総長のラモス中将が長官であった。警察といえども軍隊に変わりはなく、重武装も可能である。いきなり銃撃戦が始まり、目の前でマリアが射殺される事態も起こりかねない。なにしろ、マカティはビジネスの中心地であり、日本で言えば東京の丸の内である。そんな首都マニラのど真ん中で、武装闘争を繰り広げる共産ゲリラが発見されれば、無事で済むわけがないのだ。

「随分と早いのね」

 約束が五分ほど過ぎた頃、突然、背後で女の英語が聞こえた。驚いて後ろを振り向くと、青いワンピースを着た女が立っている。一瞬、誰かと思い石村は戸惑ったが、まぎれもなくマリアであった。

「奇麗になったね」

 おもわず日本語が口をついて立ち上がった石村は、マリアの姿をまじまじと見つめた。濃いアイシャドーをし、真珠のイヤリングをつけた彼女の艶やかな格好には、かつての学生らしい面影は全く残っておらず、密林で自動小銃を担いでいる女ゲリラとは想像もつかない。どこをどう見ても、裕福な日本企業駐在員の若奥さんである。

「あなたを眺めていたのよ。もっと早く声をかけたかったけど、そうできない理由は分かるでしょ」

 赤いルージュを引いた唇から白い歯をのぞかせ、マリアがほほ笑んだ。尾行されていないかどうか、時間をかけて確かめていたのだろう。流暢な英語は、さすがにフィリピンのインテリである。巻き舌のRが耳につく、聞き慣れたフィリピン英語とはひと味違っていた。

「会って欲しい人がいるの」

 この三年間の積もる話でもしようかと石村が身を乗り出した時、マリアが用件を切り出した。

(なんだ、今日の目的は俺と会いたかったからではないのか)

 軽い失望感を覚えつつ、肩透かしを食らった石村はマリアに話の先を促した。

「泉田という日本人がいるのだけれど、彼の友達が日本から来ているので会ってくれと言うのよ。泉田はフィリピンに住んでいるのに英語がからっきしだめで、何を言っているのかさっぱりわからないし、友達も英語を話せないそうなの。私の日本語はすっかり錆び付いてしまったので、あなたにきちんと通訳してもらいたいのよ」

 石村に顔を近づけ、声を潜めながらマリアが話し始めた。香水に混じり、懐かしく心地よいマリアの体臭が漂ってくる。

「その日本人というのは共産主義者なのかい」

「そうらしいわ。レイテ島の同志が連絡してきた案件だから」

「怪しい話だね。なぜレイテ島の同志が連絡してきたのかな」

 共産主義者だ、同志だのと物騒な言葉を発したため、辺りを憚って石村は顔をマリアへ近づけた。二人の唇が触れそうになり、ロビーを行き交う公衆の面前でありながら、石村の理性は崩壊寸前である。

「泉田の奥さんがレイテ島に住むフィリピン人で、一年前から泉田はレイテ島の新人民軍にコンタクトしていたと聞いているわ」

「それで、彼らは何を話したいのだろう」

 下半身の興奮を覚えつつ、石村はマリアの目を見つめた。

「分からないわ。泉田の要求はシソンに会わせろというだけで、私が党から命じられたのは、彼らが何者で、何の目的なのかを確かめることなの」

 石村の邪念を感じたのか、それとも厄介な任務を背負い込んだためなのか、マリアが顔をしかめた。シソンというのは、フィリピン共産党中央委員会議長の名前である。長年、牢獄にいたが、五ヶ月前の政変により樹立されたアキノ政権の特赦で、釈放されたばかりの人物だ。


          9


 石村とマリアはロビーを離れてエレベーターに乗った。二人の日本人は、同じホテルの八階にいると言う。

 蒸し暑い八階の薄暗い廊下を抜け、指定された部屋のドアをマリアがノックすると、訪問者を確かめるように僅かに扉が開き、少し間を置いて大きく開かれた。

 頭の禿げあがった、五十歳前後の男が立っている。部屋の奥には、白い丸テーブルを前にして三十代半ばの男が椅子に腰かけており、神経質そうな視線をドアに向けているのが見えた。

「こちらへどうぞ」

 腕を横に広げて、中年男がマリアと石村を部屋の中へ招き入れた。エアコンがひんやりと効いている。顔見知りのようなマリアの様子から、この五十がらみの男が「泉田」らしい。

「紹介します。こちらは私の学生時代の先生で、ミスター石村です。通訳をしてもらうために同席を頼みました」

 丸テーブルの前まで近づくと、立ったまま、ゆっくりと聞き取りやすい英語でマリアが言った。

 テーブルを囲んで全員が座っても、なかなか話は始まらなかった。かなり石村のことを警戒しているらしく、二人の男はどちらが先に話を切り出すか譲り合っているように見える。

 自己紹介をするでもなく、五分ほど沈黙が続くと、石村は苛立ってきた。呼びつけたのはお前らではないか、此の期に及んで何を躊躇っているのか、しかも何らかの使命を帯びて国際都市マニラへ来たというのに、まったく英語が喋れないというのは、いったいどんな了見なのかと腹立たしくもなる。

「貴方は何年くらいマニラに住んでいるのですか」

 若い男が、石村に向かって不機嫌そうな声を出した。泉田よりひと回りほど若く見えるが、態度からすると組織での格は泉田より上らしい。まずは石村の素性を確かめねば、何の話もできないというのだろう。二人の煮え切らぬ態度に我慢がならず、用がないのなら帰りますよと捨て台詞を残して、石村が席を立とうとしていた矢先の言葉である。

(この連中は、一筋縄ではいかないらしい。せっかくマリアのためにやって来たのに、これではしびれを切らした俺が怒りだす羽目になるぞ)

  マリアを失望させまいと、石村は怒りを押さえた。

「『ショップ電器』の駐在員をしていた頃も含めて、かれこれ十年になります。駐在員を辞めてからは、造花やスポンジ束子の製造をして日本へ輸出していたのですが、どれもこれもからっきしだめで、長い間、飲まず食わずの生活でした。二年前から椰子繊維の輸出を始めて、ようやく今は人並みの生活ができるようになりました。もうじき四十歳になるというのに、お恥ずかしい話ですが」

 マニラで商売を成功させるのは簡単なことではないのだが、謙遜の意をこめて石村は返事をした。

「それは大変だったでしょう。私は二年前にフィリピンへ来たんですが、苦労しましたよ」

 石村に向かって、泉田が何度も頷いて見せた。隣の若い男に、これみよがしに聞かせる口振りである。

「ご家族は」

 泉田の言葉を無視するように、矢継ぎ早に若い男が次の質問を繰り出した。少しは前向きになってきた様子である。

「私は独身なのですが、家族といえば日本に兄がおりまして、両親の面倒を見ています。もっとも、この一、二年、電話ひとつしていません。私は親不孝者の典型ですね」

 石村は苦笑いをして見せた。笑い顔を見せているものの、個人的な話を言わされて、石村の胸中は愉快なものではないが、身元確認なのだろうと推測される。

「マリアとはどういう関係なんですか」

 少しばかり考える様子を見せた後、若い男が更に質問を放ち続けた。その口調からは組織人間特有の冷徹さが滲み出ている。

「駐在員を辞めて収入が乏しかった頃、たまたま駐在員時代に知り合った日本人から、フィリピン国立大学で日本文学の講師を頼まれたんです。その頃のマリアは教え子です」

「そうですか。しかし、『ショップ電器』は日本の一流企業じゃないですか。どうして辞めたんですか」

 更に疑うような眼差しを若い男が石村に向けた。納得のいく返事がなければ、何も話さないぞといった強い意志が感じられる。こんな時に面倒なのは、日本人には理屈が通じないことだ。ひとたび疑惑を招くと、いくら理を尽くして説明しても、感情的に納得させない限り不信感を残すのである。

「ここで私の人生の転機を話すことになるとは思いませんでしたが、まぁいいでしょう」

 尋問を受けるような雰囲気に辟易しつつ、どうしたら目の前の日本人が警戒心を解くのかと思いながら、当時の状況を石村は説明した。

「駐在員のころ、私には三人の女がいましてね。一人目はスーパーマーケット『シューマート』の店員で、全国十数店舗の美人コンテストで一位になった、スペイン系のメスティーサ(混血女性)でした。二人目はディスコクラブのダンサーで、アメリカ人の血を引いており、いかにも白人といった、顔もスタイルも抜群の女。三人目は中国系で、マカティの『フィリピナス銀行』で受付をしていた女でした。日本の一流女優より数段上の、みんないい女ばかりでしたから、帰国すれば社長にしてやるというのなら話は別ですが、日本へ帰るどころではなかったんですよ。何しろ、私のようなうだつの上がらない男が、三人もの美女に囲まれるなんて、日本では逆立ちしたってありえない話ですからね」

 大手電器会社を辞める決心をさせたのは別の理由なのだが、女の話なら二人も心を開きやすいだろうと石村は考えた。

「もっとも、金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったもので、会社を辞めて飲まず食わずの状態になると、三人とも逃げ出しましたがね」

 石村はおどけ顔をして見せた。初めに三人の美女がいると軽く嫉妬させておき、それから自分を揶揄して見せる作戦である。嫉妬が憐みに変化すると、人というのは急に親近感を覚えるものなのだ。

 自分の身の上話を終えて、石村は反応をうかがった。若い男は判断しかねるように、じっと腕を組んで座っている。

「念のために言っておきますが、私には何の目論見もありません。私が通訳を引き受けたのは、かつての教え子であるマリアのために何かしてあげたい、ただそれだけなんです」

 極度に警戒している二人の男に対して、語気を強めて石村は言った。我慢が限界に近づいている。それでも、石村の言葉が聞こえなかったかのように、若い男はだんまりの表情を崩さない。

「私は帰ることにします。ここで我慢したところで、後になって、なんだかんだといちゃもんをつけられてはかないませんから」

 石村は立ち上がると若い男を睨み付け、それからマリアに「申し訳ない」と謝った。堪忍袋の緒が切れたのだ。

「貴方が謝ることなどないわ。私も帰ります。私たちが悪いのではなく、相手に能力がなかった、それだけのことでしょ」

 若い男と泉田の顔を交互に見比べながら、石村と同じように椅子から腰を上げたマリアがきっぱりと言った。マリアを失望させてしまい、申し訳ないと思っていた石村はほっとする。


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 マリアが石村の腕を掴み、部屋の外へ出るよう石村を促した。

「分かりました。お願いですから、もう一度、席について下さい」

 慌てた泉田がマリアと石村の前に飛び出し、行く手を塞いだ。

「ふざけるのもいい加減にしろ。この国で私は商売をしているんだ。生きるか死ぬかの戦いを、一人でやってるんだよ。無為に過ごす時間なんぞ、これっぽっちもないんだ」

 思わず石村は大声を出した。堪忍袋の緒が切れた石村の言葉であるから、凄みもある。

「申し訳ありません。お詫びと言っちゃぁ何ですが、まぁ、一杯いきましょう」

 泉田がコップを飲み干す仕草を見せた。

「どうするの」とばかりにマリアから目を覗き込まれると、さすがに石村も踵を返さざるを得ない。与えられた任務を、マリアは遂行したいはずなのだ。

 再び、マリアと石村はテーブルに着いた。

 泉田が冷蔵庫から現地「サン・ミゲル」社のビールとピーナッツを取り出し、軽い身ごなしで全員にふるまった。「サン・ミゲル」はすべて小瓶である。

 ピーナッツをつまみながらビールを飲み、当たり障りのない天気の話などをしていると、次第に気まずい雰囲気が取り払われてきた。

「しかし、弱ったなぁ。こう言っては何ですが、貴方は当事者ではないんで、そういうところで、我々の計画は簡単に明かせないし、かといって、何もせずに戻ったら怒られてしまうしなぁ」

 若い男が石村に顔を向け、しどろもどろに言葉を繋いで腕を組みなおすと、さも万策尽きたかのように大袈裟に天井を仰いだ。まだ決心がつかないのかと呆れながらも、石村に三度目の我慢はない。唇を結んで、若い男を石村は睨み返した。

「では、こうしましょう。私たちのことは絶対に詮索も口外もしないことを条件に、貴方に通訳を頼みます。我々の計画は無論のこと、もし我々のことが外部に漏れるようなことがあれば、その時は、しかるべき処置を必ず取りますので、あらかじめ覚悟しておいてください」

 脅しめいた言葉に対して石村が頷くと、意を決したかのように、若い男はビールをラッパ飲みしながら本題を切り出した。

「私は柴山と申します。ここにいる泉田から聞いたのですが、この国はなんでもかんでもちゃらんぽらんのようですね」

 確認を求めるように、柴山と名乗った若い男が石村の顔を覗き込んだ。厄介な話を持ち出しそうな雰囲気からして、「柴山」も「泉田」も偽名だろうと石村は思っている。

「そうですね。警察をはじめとして公務員は賄賂をせびるし、すべてが金次第でどうにでもなりますから」

 石村は同意して見せた。

「そこで我々としては、日本企業の支店長クラスを誘拐して、身代金をせしめようと計画しているのです」

 わが意を得たと判断したのか、柴山の口調が急になめらかになった。

「ところが我々には計画を実行する人数も足らず、土地勘もない。ぜひとも、現地の組織的な協力が必要なわけです」

 ここで柴山は話を切って、マリアに目をやった。石村が通訳する。

「ちょっと待って。まずあなた達が何者なのか分からなければ、私は報告のしようがないわ」

 柴山の一方的な話しぶりに、これまで黙って聞いていたマリアが口を開いた。

 マリアの疑問はもっともである。しかし、たった今、自分たちのことは詮索するなと石村に言ったばかりで、どうするつもりなのかと、マリアの言葉を通訳した石村は柴山の表情をうかがった。

「これはうっかりしていました。こちらへ来てください」

 柴山が席を立ち、マリアの肩に手をかけて部屋のバスルームへ誘った。

 ものの一分もしないうちに、二人が戻ってきた。疑問の氷解した様子を、マリアが浮かべている。自分たちの所属している組織の名を、柴山がマリアに告げたのだろう。

 中断していた話が始まった。

「身代金はいくらなの」

 マリアが石村の顔を見て訊ねた。石村が柴山に通訳する。

「一千万ドルです。これを半分に分けましょう」

 話が進展し、柴山の目が輝いている。

「決して悪い話ではないと思います。ぜひシソン議長に伝達してください」

 念押しをするかのように、あわててマリアに向かって柴山が言葉を付け足した。シソンとはフィリピン共産党の議長である。長年牢獄にいたが、アキノ政権になると恩赦で釈放されていた。

 

 

   第二章


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 三日後に再訪することを二人の日本人に約束して、マリアと石村は部屋を後にした。時計はすでに夜の九時半を回っている。

「これからどうする」

 肩を並べて地下の駐車場に歩きながら、石村はマリアに話しかけた。思いもよらぬ物騒な話だったので、石村の下心はすっかり萎えている。しかも彼女は急いで報告をせねばならないはずで、マリアを車で送ってから今夜は別れようと思っていた。

 しかし、このまま別れるのは余りにも心残りである。誘拐の話とは言え、頭のおかしい日本人の法螺話に振り回されて、せっかくの機会を無にすることはない。

「お腹が空いているだろう。久しぶりに、一緒に晩飯でも食べようじゃないか」

 空腹を口実に食事をし、僅か一時間でも自分の目の前でマリアを眺めていたかった。密林でゲリラ戦を展開している彼女であれば、せめて自分と一緒の時だけは、彼女の好きなものを、好きなだけ食べさせてやりたいとも思う。

「モーテルへ行きましょう。あそこならゆっくり話せるわ」

 マリアの申し出は意外だった。モーテルと聞いて、石村の欲望が再び頭をもたげてくる。

 マカティ地区に隣接するパサイ市へと石村は車を走らせた。そこには「アニタ・ロッジ」だの「カマゴン・ロッジ」だのと名のついたモーテル、つまりラブホテルが林立している。道が空いていれば、「エドサ大通り」沿いの「マニラ・ガーデン」から、車で十五分ほどの距離であった。

 モーテルの敷地に車を乗り入れると、白シャツに黒ズボンの従業員が空き室へと案内する。彼らの服装は、ちょうど日本の中高生の夏服を連想させた。

 従業員がシャッターを開ける。石村がガレージに車を滑り込ませると、シャッターが閉められた。

 車ごと中へ入るとガレージの脇に階段がある。車を降りた二人は、マリアを先に二階へ上った。

 部屋に入ると、小さな赤い電球が、天井にたった一つ薄暗く灯っていた。部屋に染みついた淫靡な匂いが、石村の鼻先を掠める。

 マリアがイヤリングを外し、小さな丸テーブルの上に置いた。白いマリアのうなじが、石村の目を捉える。石村は欲望を抑えきれなくなり、背後から彼女を抱きしめた。三年ぶりの彼女の肉体である。自分のほうに顔を向かせ、石村は強く唇を吸った。負けじとばかりにマリアも舌を差し込んでくる。

 長い抱擁が終わると、マリアは自ら服を脱ぎ、青いワンピースを大事そうにたたみ終えるとシャワールームに入った。盛りのついた犬のように、大慌てで石村も裸になってマリアの後を追う。

 石鹸で体を洗っている彼女にしがみつき、股間に指を這わせると、彼女も泡だらけの手のひらを使って石村のペニスを握りしめた。

 バギオ市にある「パイン・ホテル」の一室で彼女と肉体関係を持ってから三年もの歳月が流れているのに、しかも彼女とは一度しか関係を持っていないのに、男と女の仲というのは言葉もいらず、瞬時にして蘇るものらしいと石村は思う。理性を失った石村は、その場で彼女を押し倒して射精を終えた。

 興奮が覚めて思い起こしたのは、もはや革命の時ではない、そろそろ活動をやめたらどうかとマリアを説得することである。しかし、理想を追いかけている真っ最中の人間に、急に組織から抜け出ろと言ったところで、聞く耳は持たれないであろう。どんな手順で説得すべきか、心を落ち着かせて石村は考えを巡らせた。

 女は子宮で考えるという。理屈が無理とあれば、体に訴えるのが良いかもしれない。セックスを手段として、革命より自分への気持ちを徐々に強くさせるのだ。短絡的思考かもしれないが、ありうることだと石村は思った。

 ベッドに移動し、二度、三度とマリアの体を求める。これで少しは彼女の考えも変わるのではないかと、石村は淡い期待を抱いていた。マリアも石村とのセックスを待ち焦がれていたように、クライマックスに近付くと絶叫し、両足を強く石村の腰に絡める。


          2


「ずっと気になっているんだが、あの二人の日本人は何者なんだ」

 明け方になり、六度目の思いを達し終えると、天井を仰ぎながら石村は問い質した。モーテル周辺から、場違いのように鶏の鳴き声が聞こえる。

「それは訊かないで。通訳を頼んでおきながら御免なさい。でも、彼らの素性を知ったら、貴方を危険な目にあわせることになるの。それよりも、テスに小遣いをくれたんだって」

 石村の質問をはぐらかすように、マリアが耳元で囁いた。

 誘拐の話は確かに物騒である。しかも彼らは何らかの組織に属しており、柴山の脅し文句のように、いつか厄介なことになる可能性があった。マリアの心配はもっともなのだ。

「たまにはテスも新しい服が欲しいだろうと思ってね」

 自分への思いやりを見せるマリアが愛おしくてたまらず、石村は彼女の黒髪に唇を押し付けた。

「ところで、君のご両親は君が新人民軍に入ったのを知っているのかい」

 少し間をおいて、石村は質問した。今度は情に訴える石村の魂胆である。フィリピン人は家族思いであり、とりわけ親には弱い。貧しい家族のために長女がマニラへ出て売春婦になることも、今のフィリピンではよく聞く話であった。農村の子女が身を売った戦前の日本が、今のフィリピンなのである。

「二年前のクリスマスに、妹が教えたわ。父は怒って家を飛び出し、母は泣きだして、その晩は一睡もしなかったようね」

 ベッドのシーツで胸を覆いながら、マリアが力なく答えた。

「そりゃそうだろう。可愛い我が子が自動小銃を持って、毎日のようにジャングルで戦闘に明け暮れているなんて、想像しただけで親は生きた心地がしないよ」

 家族を思うマリアの心情を察し、ここぞとばかりに石村はマリアの心を揺さぶろうとした。しかし、返事はない。

「それで、君はいつまで活動を続けるつもりなんだ。アキノ政権になった今、革命をしようといっても、もう無理なんじゃないのか」

 無言のままのマリアに、石村は追い打ちをかけた。

 身内びいき、賄賂の横行、イメルダ大統領夫人の贅沢など腐敗しきったマルコス政権への国民の反発は大きく、一時は新人民軍の勢力が二万五千人に膨れ上がったと言われている。国軍十万人に対し、その三分の一の勢力比になれば一斉に武装蜂起する計画もあり、マイタ・ゴメスという元ミス・フィリピンすらもがゲリラに参加する時代があった。五ヶ月前、そのマルコス政権は「二月のエドサ革命」で倒れてアキノ政権になり、政治的、社会的な閉塞感はなくなっている。

「何も変わらないと、私は思っているの。小作農を減らそうとアキノ政権は日本の円借款に頼ろうとしているらしいけど、フィリピンには荘園制度が残っているから、封建的な農村部には反対勢力が強いのよ。とても成功するとは思えないわ。そもそも、アキノ大統領の一族が荘園領主だから」

 石村の作戦を見抜いたかのように、冷静な口調でマリアが応えた。

「私は革命に命を捧げたの。これからも考えは変わらないわ」

 石村の隣に横たわった彼女が、急に真顔になって天井を見つめた。石村の意図を察して、警戒し始めたのだろう。

「どうして突然、姿を消したんだ」

 マリアの横顔を見ながら、なぜか石村は腹立たしい衝動にかられた。体と情に訴える作戦が失敗したからではない。マリアが新人民軍に加わったのは、自分に処女を奪われた精神的ショックからではないのかと、常日頃の自責の念が石村の頭から離れないのである。

 マリアの瞳に、うっすらと涙が浮かんだように見えたが、返事はなかった。若気の至りで共産主義にかぶれたとは、恥ずかしくて言えないのだろうか。それとも、やはり強引に処女を奪われた精神的ショックが彼女の人生を狂わせたのだが、石村の心情を思いやって本心を言えないのだろうか。

「君と結婚したいと、俺が言ったらどうする」

 結婚を餌に説得するのは本意ではないが、あえて石村は心の内を披露した。

「今の私には、革命のことしか頭にないわ」

 迷う素振りを微塵も見せず、マリアが冷たい視線を石村に向けた。共産主義を理解しない、古い頭の人間だと思っているのだ。

「革命への君の情熱が変わらないというのであれば、今の俺にできることは君に協力してあげることだけさ。でも、覚えていて欲しい。俺の君への気持ちは、今も変わっていないことをね」

 石村の言葉を聞いて気が高ぶったのか、マリアが石村に抱きついてきた。石村の体に覆いかぶさり、夢中になって唇を求めてくる。その興奮ぶりは異常であった。

 彼女の心は不安でいっぱいなのだと石村は思う。無理もない。いつ殺されるかもしれない恐怖がある。仲間とのいざこざもあろう。長い密林生活による、体調不良もあるはずだ。そして何よりも、家族への心配や自分の将来への絶望感があるはずだ。なんとか自由にしてやるぞと、石村は決心を固めていた。


            3

 

 マリアと再会を果たした翌日の七月三十一日昼過ぎ、マリアとの情事を思い出して気分の浮ついていた石村の事務所へ、税務署員のアルマンドが現れた。腕には薄っぺらい、一冊の見開き式ファイルを抱えている。この二か月間、電話や事務所で話し合うたびに、さももっともらしく税金を納めるよう催促してくるが、アルマンドの狙いが賄賂であることは、上村には百も承知であった。

「どうせ輸出書類はアンダーバリュー(過小評価)しているんだろ。去年の売り上げが三百万ペソ (約四千五百万円)あることは、日本の市場価格を調べて分かっているんだぞ。仕入れ値も調査済みだ。利益は売り上げの半分、つまり百五十万ペソはあるはずだよな」

 アルマンドの目つきが座っている。アジア各国からの輸入が増えているため日本市場の椰子繊維は値段が下がっており、この先いつまで商売が続けられるかわからない状況だと石村は訴えているのだが、もはや言い訳無用というのだろう。

 石村の机の上にファイルを放り投げ、机の前の椅子に腰をかけると、胸ポケットからくしゃくしゃになったフィリップをアルマンドが掴み出した。フィリピンで売っているフィリップのタバコは、ほとんどがメンソール味である。

「今日こそは決着をつけようじゃないか」

 ゆっくりとタバコ一本を引き出し、アルマンドがマッチで火をつけた。余裕綽々といった表情を見せている。

「そう願いたいね。こちらも忙しいんだ。あまり頻繁に来られても迷惑なんだよ」

 机の向こうにいるアルマンドの顔を、石村は見つめ返した。

「七十五万ペソでどうだ」

 躊躇う様子もなく、利益の半分をよこせとアルマンドが切り出してきた。金額が大きすぎると自覚しているのか、呆れた顔を石村が見せると、アルマンドの顔に照れくさい様子が次第に浮かんでくる。

「君に七十五万ペソも支払ったら、こちらは商売がたちいかないよ。利益がどれほどあるか、今回は良く調べてくれ」

 アルマンドの本音と数字を聞き出したところで、彼の要求がどれほどの夢物語か、そのことにいつ気が付くか、石村はアルマンドの顔を注意深く観察しながら説明を始めた。

「まず経費からだ。この倉庫の家賃が五万ペソ、従業員の給与が八人で五万ペソ、電気代と洗浄に使う薬品や水道代で三万ペソ、それに通信費などの雑費を入れると、私の給料を抜きにしても、毎月十五万ペソかかっている。年間では百八十万ペソ(約二千七百万円)にもなるんだ。それに今の家賃は格安だから何とかやっていけるんだが、今年で賃貸契約の期限が切れる。ご存知のように物価が爆発的に上がっており、来年は二倍にすると大家から言われているので、その準備金もいる。それから椰子繊維の仕入れ代金、船積み毎に乙仲費、海上運賃や保険の費用がかかってくるわけだ」

 数字がすべて本当であることを示すために、倉庫の賃貸契約書、従業員の給与明細、仕入れの支払い、電気代、薬品代、乙仲費、海上運賃などの領収書を書棚のファイルから引っ張り出し、石村はアルマンドに見せた。商売を始めた一年目には何の調査もなかったのだが、二年目には必ずあると思い準備していたのである。

これまで何度か調査に来たアルマンドに一部の書類しか見せなかったのは、駆け引きのためだった。なぜなら、利益を隠していると思わせれば、必ず相手は付け込んでくる。税務署員の狙いは賄賂をせしめることにあるのだから、その駆け引きを誘おうというわけだ。全てを初めからオープンにしていたのでは税務署員に敬遠されてしまい、ついには正規の税金を払うことになってしまうのである。

「支払いは他にもある。日本側への賄賂として、一コンテナあたり十万円かかるんだ。まだ日本では、ビルの屋上緑化は条例化されていない。つまり、一部の遊園地や個人の庭を除いては一般に普及していないんだよ。だから、どうしても無理やりに買ってもらわなければならなくなる。そこで賄賂が必要なのさ。ここのところは、君も分かるよな」

 この賄賂の話はでたらめであったが、アルマンドは頷いた。この類いの話は、フィリピン人なら容易に理解できるのである。

「そんな内訳だが、結局、昨年の利益は十万ペソもないんだ。もっと商売を大きくするためにも、ここは協力してくれないか」

 来年はもっと支払うと期待を持たせて、石村はアルマンドの反応をうかがった。利益が十万ペソというのは嘘で、船会社からのキックバック(払い戻し)などもあり、実際は二十万ペソ(三百万円)以上の純利益を出しているのだが、大儲けといえるほどの金額ではない。ただし、物価の安いフィリピンでは、日本の三百万円は三千万円くらいの価値がある。例外はガソリン代で、それでも日本の三分の一くらいの価格だ。

「俺を甘く見るなよ。その気になれば、いつだってこんな会社はつぶせるんだからな」

 多額の賄賂への夢を絶たれて逆上したアルマンドが、大声を出して椅子から立ち上がった。芝居がかったアルマンドの態度は予想しており、会社をつぶすと言われても石村は平静である。

「正規に収める税金とあんたのコミッション、つまりオールインオールで二万ペソというのはどうかね」

 法人税をまともに支払うとなれば純益の半分である十万ペソを納めねばならないのだが、アルマンドの取り分も含めて二万ペソを払うと石村は提示した。

「話し合いは終わりだ。これからオフィスに戻って、俺の報告書をボスに提出するからな。後悔するなよ」

 机の上のファイルをつかんで立ち上がったアルマンドが、怒りをあらわにして人差し指を石村に突き付けた。

「こちらは構わないよ。好きなようにしてくれ」

 あえて力強く石村は言った。ここが度胸の見せ所である。本音をさらけ出したといっても、最初の交渉で金の話がまとまるとは、アルマンドも思っていないだろう。公務員であるアルマンドの給料は月に八千ペソもなく、二万ペソを受け取れば、国には一ペソも納めずに全てを自分の懐に入れるに違いない。なにしろ、石村の会社を赤字として処理するだけの話なのだから。

 足早に立ち去るアルマンドの後姿を見つめながら、さてどうなるかと他人事のように思いながらも、まさか本当に交渉を打ち切るのではないだろうなと、漠然とした不安が頭をかすめる。


          4


 二人の日本人に再訪を約束した三日後の八月二日、マリアと会うために石村は「マニラ・ガーデン・ホテル」を訪れた。夜の七時少し前である。

 どういう訳か、今回はマリアが先にロビーで待っていた。石村が到着すると、白く塗られた籐の椅子に座ったまま手を振って合図を寄越す。若奥さん風の着飾った格好は前回と同じだが、隣には五十がらみの年配の男女が座っていた。男は白髪頭にあご髭を生やしており、女はけばけばしい化粧に撫肩の、見るからに貧弱な体格である。

 テーブルを挟んで石村がマリアの前に立つと、椅子から立ち上がったマリアは石村を二人に紹介し、それから横に座っている二人を、「私の叔父さん夫婦」と意味ありげにウィンクをしながら石村に紹介した。

 先日と同じように八階に上がる。石村が部屋のベルを押すと、泉田がドアを開けた。部屋の奥には柴山が腰かけている。三日前と全く同じ光景であった。

 客人を迎えて、柴山が立ち上がった。緊張した様子が見えるのは、「叔父さん夫婦」が特別な人物だと気付いたからであろう。

 全員がテーブルについた。まず「叔父さん」が白髪の鬘と顎髭を取り、次に「叔母さん」が鬘を脱ぐ。その日は特別に暑く、夜になっても外気は三十度を超えている。変装を取った二人の額からは汗がほとばしり出ていた。

「紹介します。こちらはシソン議長、こちらがサロサ司令官です」

 日本人二人の表情を交互に見やりながら、マリアが言った。アキノ政権になり釈放されたとはいえ、シソンは軍や警察にマークされており、いつサルベージュ (抹殺) されてもおかしくない。一方、サロサは新人民軍メトロ・マニラ(首都圏)地区司令官であり、依然としてお尋ね者の身分である。

 共産党最高幹部の二人の現れたことが、石村には信じ難かった。暗殺や逮捕される危険を冒してまでマニラのど真ん中へ潜入し、二人の日本人に会う必要などあるのだろうか。新人民軍の隠れ家に呼びつければ良いだけのことではないのか。日本人が提起した誘拐計画に、彼らはよほどの関心があるのだと石村は推測した。

 フィリピン共産党の最高幹部が現れた驚きとともに、石村の頭を掠めたのは、マリアが共産党の幹部になっているのではないかという疑念である。つい先ほどまで、今回の誘拐話については、マリアは使い走り程度の任務についているだけだと軽く考えていた。しかし、もし幹部クラスになっていたら、マリアを革命運動から引き離すのは難しくなる。

 マリアが幹部クラスになっているのではないか、と恐れるのには理由があった。それは現在のフィリピン共産党の歴史に関係がある。

 二十年前から党は親ソ連派と毛沢東思想の中国派の間で主導権争いが活発化しており、結果として、1968年、親中派のシソンを議長として党が再建され、翌年、新人民軍が創設された。人民軍に「新」と付いているのは、以前の人民軍との違いを明らかにするためである。

 何が違うのかと言えば、かつての人民軍ではインテリ層は銃を握らず、現場の不満が大きかったのだが、シソン議長は積極的に学生などのインテリ層を兵士として戦場へ送り込んだ。そのため、現在の党ではインテリ層の発言力が強くなり、インテリ層、とりわけ学生出身の幹部が多く誕生している。 

 石村は疑念を打ち消した。なんと言ってもマリアは学生あがりの共産主義者であり、僅か二、三年の活動で幹部になっているはずはない。幹部でさえなければ組織を抜け出しても新人民軍からのお咎めはないだろうから、なんとか機会を窺って、マリアが組織から抜けるよう説得する余地はあるはずだ。

 事の善し悪しは別として、こんな人生経験はめったにない。石村はシソンとサロサの素顔を観察することにした。

 シソン議長は額が広く、インテリの匂いがする。ふさふさした黒髪に鼻の下のちょび髭が印象的な、痩せた体形をした四十代後半の人物である。サロサ司令官はと言えば、まだ三十代半ばの、色白で、顎の張った顔に大きな瞳が印象的だ。シソン議長に比べると身長は低く、撫肩の体格であったが、席を外し厚化粧を落として洗面所から出てきた彼は、軍事組織の長にふさわしい面構えの闘士に変身していた。


          5


 会談が始まった。柴山が誘拐の計画を説明する。

「ターゲットは『七井物産』の若林支店長、あるいは『丸黒商事』の南条支店長に決めました。休日になると彼らはゴルフに出かけます。『カンルバン』か『ワクワク』のゴルフ場です。特に若林支店長は『カンルバン』でプレイすることが多く、ゴルフ場へ行くまでには高速道路を出てサトウキビ畑を八キロほど走らねばなりません。作戦を実行するには好都合です。逃走するときも南には料金所がなく、バタンガスやラグナのサトウキビ畑地帯に隣接しているので目撃されることはないでしょう」

 石村が柴山の言葉を通訳した。何気ない表情を浮かべながら、シソンとサロサはおとなしく石村の通訳を聞いている。

「実行に必要な情報は我々が提供します。誘拐後の交渉は、表向きはあなた方にやってもらいますが、具体的な指示は我々が与えます。あなた方は、誘拐の実行と生きたまま人質を監禁しておくこと、それに身代金を受け取るだけで良いのです」

 いかにも簡単な仕事であるかのように、あっさりと柴山が言った。誘拐を実行するのも大変だが、身代金の受け取りは命がけの大仕事だろうと思いながら、石村は通訳した。

「身代金は一千万ドルと聞いていますが、本当でしょうか」

 シソン議長が確認を求めると、

「確かに、一千万ドルです」

 ここぞとばかりに、胸を張って柴山が答えた。

「そんな大金を、日本企業は払えるのですか」

 金額の大きさに驚いたサロサ司令官が発言し、目をむき出しにした。単純に円換算すれば十八億円だが、物価の安いフィリピンでは、その十倍の百八十億円近い価値がある。サロサの驚きはもっともなのであった。

「もちろん彼らは払います。これまでだって、人質を殺すと脅かせば、五百万ドルくらいは簡単に支払われていたんです。ましてや『七井』や『丸黒』くらいの大商社となれば、一千万ドルくらいは毎日の銀行利子で稼いでいるんですよ。それに、もし社員が殺されるとなれば、日本のマスコミはうるさいですからね、自己保身にたけた経営者は間違いなく要求に応じます」

 確信に満ちた口調で柴山が答えると、シソン議長は喉元を動かして低いうなり声を出し、隣にいるサロサ司令官の顔を覗き込んだ。誘拐の指揮を執るのはサロサになることから、ここはサロサの考えを確かめたいのだろう。考え込むような表情を浮かべ、サロサ司令官は天井を見つめている。

 こんな緊張した瞬間でも、石村はマリアが気になって仕方がない。何か悪いことが彼女の身に起きなければ良いがと、内心祈るばかりである。

 数秒の間を置いてシソンとサロサの目が合うと、サロサがかすかに頷いた。

「オッケー、やりましょう」

 サロサの同意を見てとったシソンが、泉田と柴山の顔を交互に見据えて勢いよく言った。二人の日本人が満面の笑みを浮かべる。

「ところで、お願いがあります。身代金が支払われたら、我々から武器を購入して頂きたいのですが……」

 フィリピン側が誘拐計画に同意したところで、これまでの肩意地を張った態度をがらりと変え、相手の意向をうかがうようにやんわりと柴山が申し出た。

「我々には深刻な事情がありましてね。『共和国』のために外貨を稼がねばならんのですわ」

 柴山は石村に顔を向けて話しかけた。武器の購入条件を後から持ち出したことに対するやましさから、シソンやサロサの顔を正面切って見られないのである。

(なるほど。彼らの狙いは、身代金を全ていただこうということだったのか)

 石村は憤慨していた。誘拐の身代金を半分に分けると言いつつ、武器を買わせることで、当初から全額を我が物にしようと算段していたのだ。柴山の後ろめたい態度は、無理のないことなのである。

 石村の前で「共和国」と言ったのは、柴山の大きなミスであった。事前に武器購入の話をしなかったことに、よほどの引け目を感じていたのだろう。

「共和国」という名前が出た瞬間、石村は彼らの素性に思い至った。それとともに、かすかに同情もした。いかに革命のためとはいえ、よその国で只飯を食っていられるほど現実は甘くないのに違いない。石村は何も気付かぬふりを決め込んだ。

 表情一つ崩さず、柴山の提案をシソンは受け入れた。よくよく考えてみれば、彼らにしても身代金は革命のために使うのであり、武装闘争を続けるには武器が必要なのである。話は具体的な商談に変わった。


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 武器の種類と値段が柴山から持ちかけられる。AK-47カラシニコフ自動小銃から交渉は始まった。カラシニコフは四十年ほど前にソ連軍が採用しており、設計図が公表されていることもあって安価で市場に出回っている。本体は一丁あたり十五ドル、弾丸は百発で一ドルという話を石村は知っていたので、柴山が信用できる相手か判断しやすい。用心しているのか、妥当な値段を柴山は提示した。

 それから手榴弾の単価、支払い条件や受け渡し時期、「共和国」での軍事訓練の期間や人数、貨物船や潜水艦での輸送方法などが次々に話し合われる。

 彼らの話を聞きながら、潜水艦を使うのはさもありなんと石村は思っていた。フィリピンには七千余りの島があるのに、沿岸警備艇は数隻しか所有していないからだ。なにしろ、日本の海上保安庁の十分の一しか予算がないのである。

 問題は代金の支払い条件と値段の仕切りであった。柴山は、支払いは全額前払い、値段の仕切りに関しては、潜水艦ないしは貨物船に武器を積み込んだ時点を主張する。

 全額前払いとし、値段の仕切りを「共和国」側にするのは、万が一にも船が沈没したり拿捕された場合、代金の取りっぱぐれを避けるためであろう。つまり、武器を船に積み込んで「共和国」の岸壁を離れたら、もう契約は終わっています、どんな責任も負いませんよというわけだ。

「柴山さん、あまりフィリピン側を馬鹿にしないで下さいよ。全額前払いなんて商売は、今時あり得ませんよ。仮に船積みが行われたとしても、武器がフィリピンに到着し、員数の不足や欠陥品があったらどうするんですか」

 通訳としての立場を承知の上で、思わず石村は口を挟んだ。柴山の持ち出した条件に、シソンが頷く素振りを見せたからである。貿易の素人であるため、貿易の怖さを知らないのだと石村は判断したのだ。

「余計な口出しをしないで頂きたい。あんたはただの通訳だろ」

 まなじりを吊り上げた柴山が、威嚇するように大きな声を上げた。

 確かに、石村は通訳としてこの場にいる。通訳は影に徹すべきであり、柴山の言うことは正論であろう。しかし、石村は正論や常識に大人しく従うような男ではない。自分はマリアのために通訳をしているのであり、後になって問題が発生し、同席していた自分の存在価値が疑われるようでは、マリアの責任にもなりかねないと思っている。

「我々は同じ共産主義者なんだ。前金をもらっておきながら、商品を送らないなんてことはあり得ない。妙な疑いをかけるのは、あんたがブルジョア思想に染まっているからだよ」

 顔を赤く染め、無気になって柴山が石村に噛みついた。

「そうですか。それなら全額後払いでも良いわけだ。なにしろ同じ思想を持った同志であれば、信じるのは当然でしょうからね」

 軽く石村はあしらった。

「いや、それは困る。後払いを承知して、荷物が届いたら資金不足で支払いがないなんてことにでもなったら、大変な問題になる」

 自分の言葉尻を捉えられ、柴山は慌てている。

「代金の半分は前払いするとして、残り半分は武器がフィリピンに到着してからの検査後としてはいかがですか。値段の仕切りは、燃料代の高騰もあり得るので、フィリピン渡しの値段にするべきと思いますが」

 柴山の狼狽ぶりを無視して、石村はシソンに耳打ちをした。シソンが大きく頷き、石村の提案を柴山に告げると、余計な入れ知恵をしやがってとばかりに、柴山が石村を睨みつける。

 支払い条件の話はまとまらず、結局、誘拐が成功した時点までのお預けになった。

 通訳をしながら石村が疑問に思ったのは、いかに同じ共産主義者とはいえ、詐欺同然に騙されることはないのかということである。詐欺とまでは言わないにしても、納期遅れを理由に値段をつり上げられたり、不良品を押しつけられたりするのは目に見えている気がするのだ。

 かなりの時間が過ぎていた。長居は無用である。最終的にまとまったわけではないが、それなりの結果を得たと両者が確認しあったところで、人質の監禁場所を見たいと柴山が言い出した。

「絶対に安全な場所となれば、我々の本部しかありませんが、今は雨期なので川が増水しており、山道はぬかるんでいます。ジープ、馬、ブルドーザーなどを乗りついで丸一日かかりますが、それでも大丈夫ですか」

 サロサ司令官が確認を求めた。

「それくらいの訓練なら受けていますよ。まったく問題ありません」

 心配そうなサロサ司令官の言葉を打ち消すように、大げさに手のひらを振って柴山が答えた。

「では明日中に準備しますので、明後日、マリアと石村氏をあなた方の迎えに出します」

 サロサ司令官が言い、石村が通訳すると二人の日本人が頷き、会談は終了した。

 明後日の出迎えといえば八月の四日で、その二日後に船積みがあるのだか、ぎりぎり何とかなると石村は考えている。サロサの決めたことに変更を求めれば、マリアの顔を潰すことになると石村は遠慮したのだ。

 石村はマリアと一夜を過ごしたかった。ところが、部屋を出る直前、「これから我々は打ち合わせがある」とシソンが言い出し、マリアには話しかけられない。二人の深い関係がばれるのを恐れ、あっさりと石村は部屋を後にした。

 一人、駐車場へ向かっていると、石村に無念の思いがこみ上げてくる。今夜を逃したら、マリアを説得する機会がなくなるかもしれないからだ。

 しかし、たとえ機会が与えられても、もはや説得する意味があるのかと考えると、絶望的な気分になる。三日前、出来るだけの説得はしたのだ。セックスで誘い、親の情で訴え、結婚を申し出たではないか。それでも彼女は革命への意思を変えなかった。これ以上、いったい自分に何が出来るというのだろう。

 それでも、勝手にしろとは言いたくなかった。よほどマリアに惚れているのかと思うものの、それだけではなく、使命感のようなものが自分にあるのも事実なのだ。

 僅かな時間だが、新人民軍本部へ向かう二日後に、車の中で説得するチャンスがある。その時に、どう説得するか石村は思案を続けた。

 なぜ自分は組織が嫌いなのかと、石村は考える。そもそも、一つの考えで民衆をまとめようというのが石村には理解できない。人間らしく生きる、自由に生きる素晴らしさが奪われた社会など、考えただけで吐き気がする。

 実際、一つの考えに取り付かれた人間は、そこから抜けだせない。凝り固まった原理主義者ともなれば、人間らしさや自由より教義が優先する。民衆を巻き込んでのテロなど、朝飯前ということになるではないか。

 そんなレベルにマリアがいるとなると、人間らしさだ自由だなどといっても、説得は不可能かもしれない。ではどうするか、更に石村は考え続けた。


         7


 会談から二日後の午前四時、石村はマリアを迎えに行くために、自宅のあるマニラ市のパコ地区から車で出発した。パコ地区にはフィリピン国有鉄道の「パコ駅」、戦国時代のキリシタン大名高山右近の銅像が立つ小さな公園がある。

 先日のようにテスから連絡をもらい、マニラ市の南に位置するパサイ市の郵便局前でマリアを拾った。山奥の新人民軍本部へ向かうとあって、さすがに今回は白いTシャツにジーンズといった身軽な格好で、アイシャドーも口紅もつけていない。

 助手席に乗り込んでくると、マリアがキスをせがんできた。二日前に何事もなく別れたことが、マリアも心残りだったのだろうか、それとも日常の挨拶代わりなのか、何年もマニラで暮らしているのに、未だに石村には判断が出来ない。

 モーテル街に近かったので、石村はモーテルへ車を滑り込ませた。まずは尾行を注意し、人目も避けねばならない。「どうするつもりなの」と驚いたマリアが一声を発したが、抗議もせず大人しく助手席に座っている。マリアの質問には答えず、石村は車から降りると部屋へ入るよう促した。時間がないのだ。

「話したいことがある。これが最後になると思って聞いて欲しい」

 ガレージ横の階段を上がって部屋に入り、ベッドの上に二人が並んで座ると、すぐに石村は話し始めた。

「もし革命が成功すると、人々の暮らしはどうなるんだろう」

「今より格段に豊かになるわ。当たり前のことでしょ。一部の資本家に集中している富が、人民へ平等に行き渡るんですもの」

 額に皺を寄せ、怪訝そうにマリアが答えた。石村の真意を摑みかねているのだ。

「本当にそうだろうか。その先が問題だと俺は思うんだ。皆が平等になれば、能力のある者や一所懸命働く者には不満が出る。努力しようがしまいが、みんな同じなんだからね。一方では、皆が公務員だから、働かなくても首にすらならない。怠け者が増え、無責任な仕事ばかりになる。レストランのウェイターやウェイトレスも公務員だから、客が注文しても仲間どうしでおしゃべりばかり。流通の世界では、地方から運ばれてくる生鮮品も、終業時間が来れば荷物を下ろし、引き継ぐこともなく野ざらしのまま腐らせてしまう。更には、歯ブラシはないのに、レーニン全集は本屋に山ほど積まれている計画経済だ」

 社会主義国であるソ連の実情を頭に置いて、遠回しに石村は説得を始めた。

「それがどうしたの。どんな関係が私たちにあるの」

 半ば憤慨した様子で、マリアが言った。自分が行っている革命運動への批判を察知したようだ。

「問題なのは、人間の業だと言いたいのさ。こればかりは、どう政治が変わっても変わらない。具体的に言えば、欲望という奴さ。怠け心や自己保身も欲望の一つだ。社会に奉仕したいと思う人間よりも、働かず、社会にぶら下がって楽をしたいと思う人間のほうが、圧倒的に多いと俺は思う。それが社会主義という制度で保障されたら、つまり皆が公務員になってしまったら、世の中はぶら下がり人間ばかりになる。それで良い社会になるのかね」

 昨夜から眠らずに考えていたことを、石村はマリアに吐露した。これといった政治信条、ましてや反共思想を石村は持っているわけではない。文学が好きだったために、どうしても人間の側面から物事を考えてしまうのである。

「人が欲望にとらわれるのは、ソ連が本物の共産主義ではないからよ。私たちが目指す共産主義とは違うわ」

 石村の考えにマリアが反論した。

「それなら、こう考えられないか。一つの考えで何万、何千万の人を支配しては駄目なんだ。一人一人が興味のあることや得意なことから得る知識や技術こそが、人類の進歩を創っていくんだよ。だから自由が大事なんだ。会社だって同じ事さ。つまり、会社に長くいれば一つの考えに染められてしまい、持っている興味や知識も失われていく。若いときに持っていた興味や夢を、一生持ち続けられる人がどれだけいると思う。組織というのは、一人一人の個性を殺してしまうんだよ」

 マリアは黙っていた。はたして聞こえているのか、石村には分からない。二人の間に白けた空気が漂った。五分、十分と時間が過ぎる。

「もう出ましょう。五時頃にピックアップすると日本人に伝えてあるのよ」

 マリアが言うので、石村は説得を中止した。五時まで確かに時間は二十分も残されていない。どこまで石村の意図が通じたかは分からないが、いつかきっと自分自身の問題に気が付くだろう。もはやマリアを信じるほかにない。


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「マニラ・ガーデン」に着くと地下駐車場に車を停め、マリアを残して石村がロビーから日本人二人のいる部屋へ電話をかけると、遅いぞと言わんばかりの勢いで、すぐに二人が現れた。二人とも半袖のワイシャツと黒いズボン姿で荷物などはなく、周囲の目には、二人は出張先で観光に出かける日本人会社員、石村は迎えに来たガイドとして映っていることだろう。

 マリアを助手席に、二人の日本人を後部座席に乗せ、五時きっかりにホテルを出発した。車は二千ccクラスの三菱ギャランだが、二十万キロの走行距離をとっくに過ぎた中古車で、エンジンのかかりが悪く、もう二度もイグニションコイルやスターターを取り換えている。

 向かう先はラグナ湖の北側にあるタナイ町であった。直線でマニラから五十キロほどの距離ではあるが、共産軍の支配する町と巷では噂されている。つい一週間前も、ミンダナオ島では国軍と新人民軍が衝突し、十数名を殺害したと軍の発表があったが、日常的に戦闘を繰り返している状況の中で、はたして両軍の緩衝地帯と言われるタナイ町がどんな様子なのか、石村は興味津々である。

 マリアに言われるまま、「エドサ大通り」を走り、マガリアネスの立体交差路から南方高速道路へ入った。尾行されることを警戒して、いったん南へ向かい、ラグナ湖周辺をぐるりと遠回りする計画である。ラグナ湖は琵琶湖ほどの大きさだ。

 南方高速道路を抜け、滝と急流下りで有名な観光地パグサンハンを通り過ぎた。マニラから九十キロ離れた町で、既にマニラを出発してから二時間半が過ぎている。車内の日本人二人は無口であった。迂闊な会話をして自らの素性が石村に知られるのを、必要以上に警戒しているのだろう。

 運転をしながら、マリアとの気まずい雰囲気を払おうと石村は試みた。「商談」は成立しており、新人民軍本部の訪問が終われば、もはや石村の出番はない。このまま喧嘩別れになるのはまずい。新人民軍本部でマリアと二人きりになる場面は考えられず、この車の中が最後の修復の時になるはずだ。

二人の日本人は後部座席にいるが、彼らは英語が分からない。何を話しても気づかれないとは思うものの、念のためルームミラーで二人が居眠りし始めたのを確認し、マリアと石村が共有する大学時代の思い出話を始めた。

日本文学の講義を石村がしていたので、夏目漱石や椎名麟三の話をする。椎名麟三を持ち出したのは、彼が共産主義からキリスト教に転向した作家だからだ。

 助手席のマリアは黙りこくり、車の走る音だけの時間が過ぎていく。マリアの機嫌は直らないようである。

 パグサンハンから一時間余り車を走らせて、ようやくタナイ町に辿り着いた。街に入ると、マリアの指示に従って「タナイ教会」へ向かう。


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 十八世紀に建てられたという、見るからに古めかしい教会の前には、シソン議長とサロサ司令官、それにM16自動小銃を肩から担いだ若者が三人立っていた。アメリカ製のM16は政府軍から奪い取ったものであろう。若者たちはTシャツにサンダル履きの身軽な格好で、シソンもサロサも変装はしていない。

「こんなに大っぴらに自動小銃を持ち歩いても大丈夫なのですか」

 いつ軍に襲われ戦闘が始まるかと心配した石村は、車を降りると直ぐにサロサへ問い質した。交通渋滞がなければ、マニラから車で三時間もかからぬ距離であり、当然ながら、街には警察署もある。

「タナイの町は、完全に我々の支配下にあるんです。事を荒立てては警察も生きていけないから、絶対に安全なんですよ」

 心配は無用とばかりに、サロサ司令官が笑った。しかし、よく見れば三人の兵士は自動小銃の引き金に指をかけており、完全に支配しているかどうかは眉唾物である。そうはいっても、街中でありながら武装して歩き回れるとは、これが政府軍と新人民軍の緩衝地帯なのかと、石村には拍子抜けであった。

 石村の三菱ギャランを、言われるままに民家の庭先に置き、新人民軍の用意した一台のジープニーに乗り換えた。ジープニーとは、中古のいすゞエルフや三菱キャンターなどの中型トラックから、エンジンや車軸、リーフスプリングなどの中古部品を利用して現地で組み立てた乗り物で、後部には向かい合わせ二列の座席が設けられており、庶民の乗り合いバスとしてフィリピン名物にもなっている。

 新しく加わった運転手を含め総勢十人が街を抜けて、ルソン島中部に聳えるシエラマドレ山脈の山道に入った。最悪ともいえるぬかるみである。草や木の生い茂った沿道のあちこちから水が流れ込み、所々が大きな水たまりになっていた。人の頭くらいの岩も転がっている。

 時速二十キロに満たぬスピードで、深そうな水たまりや岩を避けながらジープニーは進んだ。時々、石村は二人の日本人に目をやったが、さほど驚いている様子はない。まだ序の口と構えているようだ。

 やがて、道の両側に小さな掘立小屋が見えた。山岳民族の住居である。小屋の前に人が立っていたが、身長百二十センチくらいの大人だった。Tシャツに褌姿なのは、家庭でくつろいでいるからだろうか。


          10


 二時間も走り続けると人の気配は全くなくなり、道路もなくなっていた。ここで降りるのかと石村が考えていると、予想に反して車は雑木林の中に分け入っていく。垂れ下がった小枝や葉が音を立ててフロントガラスにあたり視界を遮るが、それでも車は突き進んだ。

「こんなところで故障でもしたら大変でしょうね」

 向かい側の席に座っているサロサ司令官に、石村は声を上げて質問した。中古エンジンの音が凄まじく響いている。

「その時は山麓から迎えが来ますよ」

 腰のベルトに差したトランシーバーを引き抜いてサロサが笑った。そんな会話を交わしながらも、反対側の末席に座るマリアの姿が石村には眩しくて仕方がない。時折、目が合うと石村に微笑むので、二人の関係がばれはしないかと石村は冷や汗をかいている。

 更に二時間ほど走ると視界が開け、幅が十メートルほどの浅い川に行き着いた。自動小銃を肩から吊るした十人ほどの青年が手を振っている。

 車が止まり、全員がジープニーから降りた。密林に入り、泥沼を五分ほど歩くと小さな空間が広がっている。樹木に囲まれて四、五軒の小屋が建っていた。どれも椰子の葉で屋根が葺かれており、十数頭の馬があちこちに繋がれている。

 小屋の中で小休止となった。その小屋の入り口には、黒い煤まみれのかまどがあり、鍋が置かれている。かまどは建築用のブロックを積み上げたものだ。

 ネスカフェのインスタントコーヒーと味気ない食パンが差し出される。コーヒーカップなどはなく、ネスカフェの空き瓶を代用したもので、その日の遅い朝食兼昼食であった。石村が腕時計を見ると、午後一時をとうに過ぎている。

「大丈夫ですか」

 サロサ司令官が三人の日本人に言葉をかけた。コーヒーを口に運んでいた泉田が手を止め、「オーケー、オーケー」と言って親指を突き出す。石村はほとほと疲れていたが、今更引き返したいとも言えず苦笑いをして見せた。

 半時間ほど休み、今度は馬に乗って川を上ることになった。石村は馬に乗ったことがなかったが良く調教されており、なんとか操ることができた。

 三時間ほど進むと、川が大きく右に蛇行しており、マンゴの実が生い茂っていた。奥には小道が見える。サロサ司令官がトランシーバーで一行の到着を告げると、マンゴの木陰から数人の兵士が現れた。いずれも自動小銃を抱えている。

 彼らを先頭に小道に入り五十メートルほど進むと、昼食をとった場所と同じように四、五軒の掘立小屋があり、数頭の馬が繋がれていた。小屋は兵士達の寝床になっているのであろう。

「ここまで来れば、あれに乗るだけなので疲れませんよ」

 サロサ司令官が指さす方向を見ると、大型のブルドーザーとトヨタのランドクルーザーが木陰に隠されていた。

「日没前に司令部に着きたいので、すぐに出発しましょう」

 十分ほどのトイレ休憩の後、サロサ司令官が声をかけた。新人民軍兵士たちとサロサの乗ったブルドーザーが先導し、シソン、マリアと三人の日本人はランドクルーザーでついていく。時折、シソンがマリアの肩に手を回す様子が、石村には気にかかる。

 山あり谷あり小川があるといった険しい山道を、何度もランドクルーザーは横転しそうになりながら進んでいった。



   第三章


          1


 緑の葉が生い茂り、湿気に満ちたジャングルのど真ん中で、前を走っていたブルドーザーが止まった。夜の七時を過ぎており、とっくに陽の沈んだ周囲は闇に包まれている。

 ランドクルーザーを降りた途端、石村は足を取られた。車に乗り疲れて腰がおかしくなっていたのか、それとも泥水の中で腐った堆積物のせいか、足元が沈み込むのだ。雨期のジャングルは恐ろしい。(しまった)と思った瞬間、もんどり打って倒れ、石村はずぶ濡れ泥まみれになった。後から車を下りてきた二人の日本人も、足元をふらつかせている。

「ここからは徒歩です。もう一息ですよ」

 ランドクルーザーを降りてきた日本人に向かい、ブルドーザーを降りて待っていたサロサ司令官が声をかけ、後に続けと右手を挙げて合図をした。石村の転倒には気もとめない様子である。着替えを持っていないので、石村は濡れ鼠を我慢し通すしかない。

 三人の兵士を先頭に二十分ほど歩くと、木々の隙間から、映画スクリーンのように巨大な絶壁が石村に見えた。さらに五分ほど歩くと視界が開け、大きな洞穴の前へ到着する。

「着きましたよ。ここが我々の本部です」

 サロサ司令官に言われて石村が周囲を見回すと、密林の隙間から見える絶壁の上半分は岩肌だが、中ほどから下は鬱蒼としたジャングルである。

「これなら上空から気づかれることもないなぁ」

 泉田に話しかける柴山の大声が、石村に聞こえた。

 二つの大きな岩がねじれて折り重なった足元の洞穴は、数人が並んで入れる大きさで、高さは三メートル近くある。入り口前には灌木が茂っていた。

 懐中電灯を頼りに暗い入り口から中へ入ると、そこは鍾乳洞だった。水の流れる音がどこからともなく聞こえてくる。洞窟の奥には、蛍光灯らしい明かりがかすかに見えた。

 中へ進み、蛍光灯の下を曲がると様子が一変した。大きな空間の下に、いくつもの小屋が見える。中には一軒長屋くらいの大きな建物もあった。兵舎なのであろうが、目の前を進むマリアがこの部屋で寝ているのかと思うと、石村には複雑な気分がしてくる。

 執務室らしい自室に無言のままシソンが消えると、サロサが内部の案内を始めた。石村はわざとマリアの後ろに続き、残り香を独り占めにする。

 新人民軍の凄さを石村が感じたのは無線室だった。窓ガラス越しに何台もの大型機器が見え、通信の真っ最中である。地方の司令部と連絡を取り合っているのだ。

 洞窟には場違いな広い調理室がある。旧式ではあるものの、大きな冷蔵庫が何台も置かれていた。

「それにしても静かですね」

 石村は驚きを口にした。これだけの設備を動かすには、かなり大型の発電機が必要である。おびただしい騒音も出るはずで、排気ガスも問題であろう。

「うまくカモフラージュして、洞窟の外に発電機を置いているんですよ。そこからケーブルを引いています。かなりの難工事でした」

 落ち着いた声でサロサが答えた。二万を超える新人民軍兵士の中には、電気工事や土木の専門家も大勢いるのである。

「司令部の警備はどうなっているんですか」

 柴山がサロサに訊ねた。

「周囲に五十人ほど、司令部内には二十人ほどが常時おります」

 こんな具合だよと、周囲にいる兵士を紹介するかのようにサロサが腕を広げた。女性の姿も、マリアを含めて五人ほど見かけられる。

「食事はどうですか」

「兵士の中には日本レストランに勤めていた者が二人いますので、人質の食事は問題ありません」

 柴山の質問を石村が通訳し、サロサが答えると、

「これなら大丈夫だな」

 柴山と泉田が囁きあい、満足そうな表情を見せた。

「トイレは水洗だし、シャワー室もある。エアコンがあるから温度も湿度も快適。通信機もこれだけの設備ならいいだろう」

 辺りをひと通り見渡し、さらにもう一度ひとつひとつの部屋を指さしながら柴山が言った。いつの間にか自室から戻っていたシソンが、自慢げな様子を見せてにこりと笑う。

「難点があるとすれば窓がないことですが、まあ仕方ないでしょう。では、具体的な手はずを打ち合わせましょうか」

 柴山の提案を石村が通訳すると、シソン議長が会議室らしい建物へと案内した。

「ああ、その前に、話し合いは議長と司令官だけにしていただきたい。マリアさんには遠慮してもらいましょう」

 会議室へ入る直前、突然に柴山が言い出した。これまでのいきさつや計画の内容を知っているマリアも会議には必要になるはずだと、石村は不審に思う。しかし、あっさりとシソンが同意したので、マリアは目でシソンに合図を送って去っていった。


          2


 部屋の中へ入ると、一面に敷かれた赤茶色の絨毯が目に付く。竹で組まれた大きなテーブルを囲んで、打ち合わせが始まった。椅子も竹で作られている。

 席に着くと、周りに気付かれぬように石村は靴を脱いだ。靴下の濡れ具合が気持ち悪くて仕方がない。新聞紙でもあれば、靴に突っ込んで水気を取りたいところだ。

 運ばれてきたコーラを飲みながら、ひそひそ声で柴山が泉田に何かを話しかけた。

「ここは、一発かましておかないとな」

かすかに柴山の声が石村に聞こえたかと思うと、

「『七井物産』との交渉は我々が指示します。それから、実行の日時、身代金の受け渡しについては、ここにいる泉田が後ほど連絡することとして、ここで一つ申し上げたいことがあります」

 椅子から立ち上がり、一同を見渡す仕草を柴山が見せた。突然に何を言い出すのかと、シソンとサロサは柴山を凝視している。

「今回、私たちに何の承諾もなく通訳を頼んだのはどういうことですか。しかも、石村さんは全くの部外者だ。なぜマリアさんに勝手な真似をさせたんですか。そんな無責任なやり方では、これからの作戦が円滑に進むのか、我々は本当に危惧しています」

 石村が通訳すると、

「おっしゃることは分かりました。今後のことについては、あなたがたと話し合いながらやっていきましょう」

 頷きながらシソンが言った。石村が通訳する。

「話し合いでは困る。我々の指示通りに動いてもらいたい。さもなければ、計画の成功を我々は保証できません」

 柴山が言い放った。真剣な表情を見せているが、下手な芝居をしていると石村は思った。はったりというやつである。お互い日本人だから、その口調で分かるのだ。

「通訳の件は、私が許可を与えました。あなた方の英語が分からないとマリアから相談を受け、通訳の選択もマリアに一任したのです」

 机の上に置いた両掌を組み替えながら、シソンが釈明した。

「そこが困るというのです。我々を取り巻く厳しい現実を、あなた方は簡単に考えすぎている。理想だけでは革命はできない。我々は国家権力と常に対峙しており、彼らを出し抜くくらいでなければ勝利はないのです」

 語気を強め、説教じみた口調で柴山が言った。あまりの芝居臭さに、今日一日の疲れを石村は感じる。外国暮らしが長いと日本人もこうなるのかと、ウンザリした思いだ。

「簡単に考えていると柴山さんは言いますが、石村さんを通訳にしたことの、いったいどこが間違っているのか、具体的に教えてもらおうじゃありませんか。そもそも国際共産主義を標榜しているあなた方が、英語の一つもしゃべれないのは、どういうことなのですか」

 シソンの発言は当然の理屈だった。

「英語は手段にすぎません。英語は二の次の問題なのです。通訳が必要と考える前に、通訳を雇う危険性を考える革命的な警戒心があなた方にあるのかと、私は問うているのです。問題をすり替えないでいただきたい」

 英語が出来ない弱点を突かれて自尊心が傷ついたのか、内心は格下と思っているフィリピン共産党の議長に反論されて面目を失ったのか、柴山の顔面が紅潮している。

柴山とシソンの発言を通訳しながら、どうしようもない思いに石村は駆られた。異を唱えられると逆上する日本人はよく見かけるものだが、そんな人物のレベルはしれている。柴山のような人間のために通訳するなど金輪際ごめんだと、石村の気分は落ち込むばかりであった。

 石村がうんざりするのは、それだけではない。理想論と現実論が交錯している。まるで子供と大人の言い合いである。これでは、いつまでたっても話はすれ違いに終わるだろう。

「どこが問題のすり替えですか。ミスター柴山は私を詐欺師のように言うが、通訳なしでは話が進展しないでしょう。細かな点どころか、大事なことを誤解してしまう恐れもあるはずです。勿論、第三者を交えず、通訳なしで話を進められたら、そんな理想的なことはありません。しかし、困難な現実がある。我々の立場だったら、あなた方はどうするのか、ぜひ訊きたいものです」

 柴山の顔を見つめながら、一語一語ゆっくりとシソンが問い質した。

「再度言います。私が言いたいのは、革命的な警戒心があなた方には欠けていることです」

 いかにもわざとらしく、柴山がシソンに向かって指を突き付けた。まるで、いっぱしの主演俳優のようである。こんな場所で、何を粋がっているのかと石村は思う。

「それほどおっしゃるのなら、今回の作戦は中止にしましょう」

 石村の通訳が終わらないうちに、柴山の意を読みとったシソンが血相を変えた。いつも冷静な表情を見せていたシソンが怒り出したのには石村も驚かざるを得ないが、フィリピン側をまったく信用していないかのような発言となれば、その怒りはもっともである。


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 シソンの口調から状況を察したのか、柴山は絶句して立ちすくんでしまった。身動き一つしない。

 柴山の様子を見て、馬鹿な奴だと石村は思った。フィリピン人に対して人差し指を突き付けるのは、相手を侮辱するしぐさなのだ。しかも、シソンがフィリピン共産党の最高指導者となれば、柴山というのは、まともな神経の持ち主ではないと石村には思える。フィリピン人を見下しているとしか考えられない。

 困った柴山は、その場を取り繕うためか、隣に座っている泉田に視線を下げて何かを話しかけた。

「謝ったらいいだろ」

 机の上に置いた右手の拳をきつく握り直しながら泉田が言う。

「申し訳ありません。作戦の実行をするのはあなた方です。先ほどの発言は取り消します」

 初めはシソンに向かって、次にサロサに向かって柴山が頭を下げた。ところが、真剣さが感じられない。子供のようにふてくされた態度なのだ。案の定、怒りの静まらないシソンは、作戦中止の言葉を繰り返した。

 哀れなものだと石村は思う。組織人間ともいえる柴山は、日頃から人間と接するのに、個人を尊敬する念を持ち合わせていないのだ。組織の人間としていかにあるべきかが、いつも柴山の頭を支配しているのに違いない。

 言い合いは一時間も続いた。作戦中止をシソンから言われ、初めは狼狽えて謝罪した柴山だが、面子が立たないらしく、言い回しを何度も変えて同じ主張を繰り返した。

 やがて、蒸し返しの連続に双方の疲労がピークに達したのか、無言の状態が頻繁になり、何のために会議をしているのかという雰囲気が漂ってきた。こうなれば、どちらが先に折れるかだと石村は感じる。

 結局、話の落としどころとして、今後の連絡は通訳なしで泉田が一人で行うこと、フィリピン側の自主性も尊重することを柴山が伝え、フィリピン側は日本側と協調して作戦を進めることでシソンが同意した。

 夜十時を回るとようやく打ち合わせが終わり、晩飯となった。十数本のサンミゲル・ビールとともに、とんかつや焼き鳥が会議室に運ばれてくる。この辺にいる野性の豚と鳩が材料とのことだった。

「これだけの兵士がいれば、中には脱走する者もいるでしょうね」

 空きっ腹に酔いが回り、かなり打ち解けてきたところで、机の向こうに座っているサロサ司令官に石村は訊ねた。

「思想的にしっかりした者を選んでいますから、問題ありません。それに、わが軍の処罰が厳しいこと、とりわけこの本部へ出入りする者には厳罰しかないことをみんな知っていますから」

 こともなげにサロサが答えた。

「石村さん、ちょっといいかな」

 隣に座っていた柴山が、耳打ちするかのように石村に顔を近づけてきた。


         4


 柴山もかなり酔っぱらっている。何を話し出すのかと不審に思いながら、石村は耳を傾けた。

「あんた、あの女とできているんだろ」

 酒臭い息のかかる小声に、軽く手を振って石村は否定した。大人げなく二人の関係を打ち消し、声を荒立てたりすれば、事が大きくなりかねない。シソンやサロサに、マリアが気まずい思いもするだろう。

「彼女は俺たちのことを、あんたに喋っているんじゃないのか」

 取り合わない石村の態度に、執拗に柴山が食い下がってくる。石村は穏やかに笑って、首を横に振った。

 薄笑いを柴山が浮かべた。からかっているのか脅しているのか、マリアとの関係をこんなところで詮索する柴山の意図は何かと石村は考える。

「御心配にはおよびませんよ。彼女からは何も聞いていませんし、なによりも、私はあなた方が何者なのか興味がありませんから」

 自分たちの正体がばれていないかを確かめたいだけなのだと判断して石村が言うと、その後、柴山は口をつぐんだ。

 食事を終えると、すぐに就寝となった。泥水と汗で濡れたYシャツは僅かながら乾いていたが、ズボンの裾や下着はまだ濡れている。

 会議室の椅子が寝床だったので、竹の丸みが背骨にあたり、石村は寝付かれない。昼間の疲労にもかかわらず柴山と泉田も眠れないらしく、柴山が泉田に囁く声が聞こえてきた。

「このあいだ俺が日本に潜入した時、景気が良いらしく日本中が浮かれていたよ。テレビで見たが、ディスコじゃ女が短いスカートで、センスを振って踊りまくっていたぜ。これから奪う身代金が、核やミサイルになって日本に向けられることも知らないで、本当にいい気なもんだ」

聞き捨てならない言葉であるが、ここで口を挟むわけにはいかない。石村は眠っている振りをして聞いていた。

「そういえば、我々はいつ日本へ合法的に戻れるんだ」

 泉田の声が聞こえる。

「森山同志が動いているよ。人道主義を前面に押し出して、日本で大衆的な集会を開かせるそうだ。人道主義に反対する人民はいないだろうから、良い線を行くんじゃないかな。もっとも、何年かかるか分からんけど……」

 柴山のひそひそ声が、少しばかり活気づいている。民間人をテロに巻き込み、誘拐事件まで引き起こしながら何が人道主義だと、石村は向かっ腹が立つのを押さえた。

翌朝は六時に起き、食パンとハムだけの朝食をとると、シソン議長、サロサ司令官、数人の兵士に見送られて、三人の日本人は出発した。見送りの兵士の中にマリアはおらず、マリアに別れの挨拶をしたいとサロサ司令官に石村が申し出ると、山中で当番の歩哨に立っており、戻るのは翌朝だと言う。

マニラへ戻るのを一日延ばそうかと石村の頭に浮かんだが、明日は倉庫で船積みの予定がある。従業員に任せていたのでは、品質や重量などに間違いがあるかもしれず、些細なことであっても、疑いや不満を持たれたら客先の信用を失ってしまう。客が日本人であれば、「立ち合っていませんでした。すいません」では、かたづくまい。

 急に石村は寂しくなった。もはや通訳としての石村の出番は終わっており、もう二度とマリアに会う機会はないかもしれない。しかも、マリアはゲリラである。いつか戦闘に巻き込まれて死ぬこともあるだろう。ジープニーに乗っているときも、馬に乗っているときも、折につけ盗み見ていた彼女の昨日までの姿が思い出された。


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 夕方五時半頃、タナイの町へ戻ってきた。帰りは遠回りの必要がないことをサロサ司令官に確認していたので、マニラ市内の夜の交通渋滞にかかっても、アンティポロ経由で三、四時間もすればマニラへ戻れると石村は思っている。

 ところが、民家に置いてあった石村の三菱ギャランに乗り込むと、耳を疑うようなことを柴山が言い出した。「ロスバニョスにある、山下将軍が処刑されたマンゴーの木を見たいなぁ」と、甘ったるい声で柴山が言い出したのである。組織から与えられた任務を果たしたことで、すっかり解放感に浸っているのだろうか。

 ロスバニョスへ行くには、来た時と同じ道を使わねばならない。マニラへ戻るまで、アンティポロ経由より二時間以上は余計にかかる。しかも、ロスバニョスへ着く頃には、真っ暗闇になっているはずだ。

 どう考えても妙である。用済みになった自分を殺すつもりだなと、石村は推測した。その疑いを石村に思い起こさせたのは、通訳として石村を雇ったことに対する昨夜の執拗な柴山の発言である。同志ですら反革命となれば殺してしまう連中であれば、赤の他人である石村を殺すことなど朝飯前に違いない。気の抜けた声を出したのも、石村を油断させるためなのだ。

 しかも、彼らの素性からすれば、拉致されることも警戒せねばならない。拉致事件と言えば日本国内のことと考えられがちだが、フィリピンで行方不明になる日本人は大勢おり、その中には家族からの捜索依頼が出ていないケースが多くあることから拉致には好都合であった。拉致の目的は来たるべき日本の革命戦士を育成するためとか、「南」へ工作員を送り込むために「なりすまし」用の日本人を確保するためと言われている。

「申し訳ないが、私は疲れているんです。それに、昨晩はよく眠れませんでしたから、勘弁してもらえませんか」

 やんわりと、しかし即座に石村は断った。

「心配はご無用ですよ。この期に及んで貴方を殺そうなんて、これっぽっちも思っていませんから」

 石村の考えを見抜いたのか、たしなめるような口調で柴山が言葉を返してきた。石村の小心ぶりをからかっているように聞こえ、むかっ腹のたった石村が黙っていると、

「最後のお願いです。良い思い出を残しましょうよ」

今度は頼み込むような口調で言い寄って来る。

「思い出も何もないだろ。私はあんた方の友達ではないし、思想も違えば、義理もないんだ。それに私には船積み作業が明日あるんだよ」

 何と言われようと柴山の頼みを聞くわけにはいかない。今度はぶっきらぼうに石村は断った。

「一度も観光をしていないんですよ。なんとかお願いできないかなぁ」

 しつこく柴山が食い下がってくる。いい歳をした男が甘え声を出すとはお笑い草だが、それが殺意を隠す大根役者の芝居だと石村は見抜いていた。

「観光なんぞしている場合じゃないだろ。もう日が暮れているんだ。しかも、昨晩は革命的警戒心だ何のと説教を垂れていたじゃないか。それなのに、いざ格好をつける相手がいなくなればこの様だ。いったいあんたは何様のつもりなんだ」

 自分に殺意を抱いている相手であれば、遠慮もへったくれもない。二人は黙っている。

「少しでも妙なまねをしたら、思い切りハンドルを切って、この車を横転させるからな。そうなれば、三人揃ってあの世行きだ。死体の身元が調べられ、君らの誘拐計画はオジャンになるぞ」

 脅し文句を吐いて、ルームミラーで後部座席の二人の動きを警戒しながら石村は車を発進させた。マニラへの近道に向かってハンドルを切る。

 タナイの町を出て一時間もすると、ボンネットの隙間から音を立てて白い煙が噴き出てきた。ラジエーターに穴があいたのである。でこぼこ道だらけのフィリピンではよくあることだが、このままではエンジンが焼き付いてしまう。

 途中、サリサリ・ストア(フィリピンの小売り雑貨屋)でペットボトル入りのミネラルウォーターを何本も買い、数度にわたり車を止めてラジエーターへ水を補給しながら修理屋を探して直すまで、五時間もかかってしまった。


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 日付が変わり、午前零時をかなり回ったころ、ようやく三人は「マニラ・ガーデン」の地下駐車場に戻って来た。電力事情の悪いフィリピンということもあり、街灯の少ないホテル周辺は暗闇に包まれている。

「腹がすいたな。ちょっと付き合ってくれないか」

 車のエンジンを切った石村の後部座席から、柴山の声が聞こえる。長時間の運転、ラジエーターの故障、何よりも、いつ背後から首を絞められるか、ナイフで刺されるか、緊張の連続だった。すっかり石村は疲れ切っている。しかも朝早くから船積みがあり、一刻も早く、パコ地区のアパートへ戻って休みたかった。

「大事な話があるんだ。手間は取らせないから」

 高圧的な柴山の口調には相変わらず辟易するが、ここまで来れば殺される心配はない。石村も空腹であったため承諾した。

 三人は駐車場から地上に上がり、ホテルの前にあるファーストフード店「シンディー」に向かった。二十四時間営業の店には、闇の中に眩しく蛍光灯の光が輝いている。

 注文したコーラとハンバーグを手に入れ、座席について食べ始めたとき、柴山が口を開いた。

「これでもうあんたと会うことはないだろう。お疲れさまと言いたいところだが、その前にもう一度、念を押しておきたい。もしこの作戦が外部に漏れるようなことがあれば、我々はあんたを疑うしかない。その時には何が起こるか分かっているだろうな」

 ハンバーグからはみ出たケチャップのついた指先をティッシュで拭きながら、柴山が言った。その顔には、凄味が増している。

 組織をバックにした柴山の脅し文句に石村は腹が立った。

「壊れたテープレコーダーじゃあるまいし、何度同じことを繰り返し言っているんだ。会社勤めを辞めてから、僅か四年とはいえ、俺は徒手空拳で生きてきた男だぞ。誰であれ、他人の指図を受けて動くような真似はしない主義なんだよ。この場に及んで、そんな俺に通訳させたことを悔やんでも始まらないだろ」

 石村は柴山を睨みつけた。忍耐にも限度がある。

「あんたがマリアとできているのは分かっているんだ。車の中で、日本文学の話をしていただろ。妙にイチャイチャしやがって、聞いていられなかったぜ。いいか、変な真似をしたら、あんただけではなく、彼女の始末も新人民軍に頼むことになるからな」

 石村の言葉を皮肉るように、柴山が洞窟での話を蒸し返した。痛い所だが、マリアの始末などと言われては、もはや石村には我慢がならない。

「勝手にしろ。部外者の俺を巻きこんだことがあんたの組織にばれたら困るから、そんな脅しをかけているんだろうが、いちいち上のご機嫌をうかがって、大の男がみっともないと思わないのか。そもそも、俺が通訳をする羽目になったのは、あんたらの語学力不足からじゃないか。もしマリアに何かが起これば、俺はマスコミに全てをばらしてやるからな。言いがかりをつけるのもいい加減にしろ」

 これまで溜まっていた鬱憤を吐き出して怒鳴りつけると、石村は柴山の顔をまじまじと見据えた。ここで殴り合いになっても、構うことはない。柴山も怒り狂った顔を石村に向けた。

「落ち着けよ。石村さんの言うことももっともだ。これまで上手くやって来たんだから、ここで喧嘩別れなんぞするこたぁないぜ」

 我関せずとばかりに黙々と食べていた泉田が、隣の柴山に向かって言った。

「そうは言っても、この計画はすべて俺たちだけでやるように命じられているんだ。見知らぬ他人に通訳させたことがばれたら、後で総括の対象になるんだぞ」

 苛立ちの矛先を、今度は泉田に柴山が向け始めた。

「何を言っているんだ。俺もあんたも、英語がからっきしだめなことは幹部も知っていることじゃないか。それに通訳はフィリピン側が頼んだことだ。俺たちの責任じゃないぜ」

「あんたには警戒心がかけているんだ。革命精神がないんだよ」

「革命精神がないだと。この野郎。俺のどこが悪い。ふざけるな」

 大声で二人が言い争いを始めたところで、石村は周囲に目をやった。店に入ったときは誰もいなかったはずだが、いつの間にか日本人風体の六十歳ほどの男が入り口近くに一人座っており、テーブルの上のサラダをかき混ぜてフォークを動かしている。

「もう少し声を小さくしたらどうなんだ。周りに人がいるだろ」

 石村は二人に向かって注意を促した。

「ああ、あれか。あれは俺たちを監視しているだけだよ」

 冷静さを取り戻した柴山が、そっけない返事をした。日本の公安かもしれず、もう少し警戒する様子があっても良いはずなのだが、どうやら公安ではなく、まるで顔見知りのような口ぶりである。彼らの素性に気付いている石村にとって、日本の公安でなければ何者なのかは容易に想像がつく。「共和国」の外に出る人間は、自国民であれ何であれ監視が付いているのだ。

 薄気味悪い気持ちにとらわれるとともに、二人の日本人に石村は同情を覚えた。「カゴの中の鳥」という言葉が頭に浮かんだ。


          7


 昼頃、朝食も取らず眠気をこらえて早朝からの船積み作業を終えた石村が事務所にいると、椰子繊維の納入業者ウィリーが入ってきた。薄汚れた黄色のTシャツに口ひげを生やした、四十歳過ぎのフィリピン人である。

「今日こそは払ってもらうからな」

 ズボンの後ろポケットからウィリーが拳銃を引き出し、二十二口径らしい筒先を石村の顔に向けた。出勤早々、しかもまだ入り口のドア近くに石村は立ったままである。

 拳銃には安全装置がついていない。現地製なのだ。暴発により手が吹き飛んだというニュースを頻繁に聞く代物である。

「撃てるものなら撃ってみたらどうだ。君の懐には、一ペソも入らなくなるぞ」

 恐怖を乗り越えて石村はウィリーを睨みつけた。石村の悪い癖である。脅されれば脅されるほど、追い詰められれば追いつめられるほど、相手の要求には屈したくなくなってしまうのだ。

 ウィリーの素性は本人から聞いていた。ミンダナオ島南部のコタバト市生まれで、彼の周りに殺伐とした雰囲気が漂うのは、市街に出れば共産軍と政府軍が入り乱れて戦闘を繰り返している区域で育ったからだろう。

 地元の高校を出てマニラのスラムに住み着き、来る日も来る日も仕事を探したものの、餓死寸前のところを同じスラムにいた女に出会い救われたという。現在の奥さんである。

「もう一度、君に言わせてもらう。私が頼んだのは新鮮で清潔な椰子繊維だ。いつも君が持ってくるのはゴミじゃないか」

 これまでの説明を石村が繰り返した。ウィリーの納めた繊維には、バナナやマンゴの皮どころか、プラスチックの破片や汚物が混じっており、明らかにゴミ捨て場から集めたものである。仕事を頼む際、ゴミ捨て場から集めたものは認めない、ココナッツオイルやミルクの製造工場などから仕入れた清潔な繊維でなければ買わないと、何度も強く念を押したのに、ウィリーは全く自分の非を認めない。日本人にも同類はいるが、フィリピン人には特に多いように思える。

「冗談を言うんじゃねぇ。ゴミだ何のと言いがかりをつけやがって、これで頭を撃ち抜いてやろうか」

 冷たい銃口を、ウィリーが石村の額に押し当てた。

(しまった、この人間に道理は通らなかったか)

 胸の中で叫び、小便を漏らしそうになったその時、タガログ語で「クーヤ (お兄ちゃん)」という悲鳴が聞こえた。テスが事務所に入ってきたのである。

「お前はラッキーな奴だ。邪魔が入ったので今日は引き揚げるが、今度来るときは、きっちり二千ドル払ってもらうからな」

 テスの出現と叫び声に慌てたのだろう、彼女の横を足早にすり抜け、拳銃をズボンの後ろポケットに隠しながらウィリーは出ていった。ほっとして石村は息を吐き、深呼吸をする。

「どうしたの急に」

 冷や汗をぬぐいながらも、平静を装って石村は訊ねた。

「私よりも、お兄ちゃんは大丈夫なの」

 テスの顔が青ざめている。

「平気だよ。ただの脅しさ」

 まだ十七歳の少女に心配はかけられない。石村は笑って見せた。

「姉から伝言があるの」

 前回と同じように、小さな紙きれをテスが差し出した。すぐに受け取ったメモを読むと、

「協力してくれてありがとう。もう会えないと思いますが、いつまでもお元気で。愛をこめて」 と書かれている。

 文面を読んだ瞬間に生じた、体が沈み込むような気持ちを隠して、少しばかりの小遣いを渡し、先ほど見たことはマリアには言わないようにと頼んでテスを送り出した。


         8


 一人になったところで事務所の机に向かい、再度、四つ折りにたたまれたメモを開き、石村は声を出して読んだ。「もう会えない」という文言に、胸が締め付けられた。彼女の笑顔が、自然と脳裏に浮かんでくる。新人民軍の本部を去る時、マリアの姿を見られなかった口惜しさがこみ上げてきた。つい昨日のことなのに、遠い昔の出来事のように思えてくる。

 ぼんやりとしていたマリアとの別れが、次第に石村の胸の中で現実味を帯びてきた。いつかまた会えるかもしれないと、淡い期待を抱いていた自分が恥ずかしく思える。

(船積みさえなかったら、仮病を使ってでも、もう一日、出発を伸ばすことが出来たんだ。そうすれば、話は出来ないにしても、マリアの顔をもう一度見ることが出来たのに)

 石村は唇をかんだ。

 しかし、いつまでも未練がましくマリアのことを考えてはいられない。彼女は革命を目指す新人民軍の兵士なのだ。最高幹部からの信頼も得ているのであれば、もはや彼女が石村の元に戻ることはないであろう。マリアと再会できたのは、たまたま誘拐計画があったからだけなのだ。

 マリアのことは忘れ、商売に専念しようと石村は気持ちを切り替えた。

(何があっても、ここで商売をやめることはできない。一匹狼だ、素浪人だのと粋がっても、ここで食い詰めたら俺の人生はおしまいだ。異国で一文無しになれば、乞食になるか、野垂れ死にするだけではないか)

 石村が決意を新たにしていると、ふと父親のことが頭に浮かんだ。かつて地方公務員だった石村の父親は、五年前、肺気腫で死んでいる。七十六歳だった。

 役所から帰宅し、酒を飲むと愚痴をこぼす父親の姿しか石村の記憶にはない。愚痴の内容は、役所勤めの退屈さである。そんな時、決まって表情を生き生きとさせて父親が語るのは、アジア素浪人を自称し、希望に燃えて満州に渡った若かりし頃の話である。

 大陸の原野に沈む夕日の美しさ、匪賊に加わり戦闘に明け暮れた日々など、今ひとつ幼かった石村には理解できなかったが、時速百三十キロで大連と新京の間を走っていた「特急あじあ号」の話だけは覚えている。現在の新幹線が実現したのは、当時、欧州では百五、六十キロの機関車が走っており、その屈辱を戦後に果たしのだと、得意げに語る父親の顔を思い出す。

やがて、甘粕元憲兵大尉、里見甫(はじめ)らのアヘン売買に頼る満州国の財政、岸信介や東条英機らの「五族協和」の嘘八百に父親は失望する。甘粕元大尉は無政府主義者大杉栄と家族らを憲兵隊本部へ拉致し殺害したことで知られ、岸信介は戦後日本の首相になった人物だ。

 その後、満州国の現実に失望したまま軍に現地徴集されたが、駐屯先の親しかった中国人から日本の敗戦をいち早く知らされ、軍を脱走して台湾、沖縄諸島を経て父親は帰国した。

 満州から帰国した岸信介などの官僚や政治家であればこそ、その理想を頭に描いて戦後の日本を復興させたのだ、お前も世界を見て日本を考えろと語る父親に、いつの間にか影響されていた自分を石村は感じる。一流会社に就職していながら、退屈で仕方がなかったのは父親のせいかもしれない。

(俺は人生を有意義なものにするために会社を辞めた。組織にいては、冒険ができないからだ。決して人間嫌いとか、勝手気ままに生きたいからではない。様々な出来事があってこそ人生は面白いのだ。日々、己の才覚を試しながら生きるから、生きがいを感じるのだ。そのためには、強くなければならない。俺にとって一匹狼とは、素浪人とは、仲間からはぐれた者ではなく、自分の人生を追及する生き方なのだ)

 今更のように、駐在員を辞めた頃の初心を石村は思い起こしていた。


           9

 

 ストライキをすると脅されてから二週間が過ぎたころ、体格の良い、四十がらみの男を伴ってアーサーが事務所に現れた。中年のフィリピン男には珍しく、腹は出ていない。半袖Tシャツの袖からは、これ見よがしに筋肉の付いた二の腕が生えていた。

「労働組合の幹部を連れてきたぞ」

 助っ人を連れて心強いのか、小馬鹿にした様子を体中にみなぎらせてアーサーが言った。

「随分とあくどい商売をしているそうだな」

 敵意のあるまなざしを石村に向けてから、事務所の隅に置いてあるソファーに、組合幹部と紹介された男がどっかりと座り込んだ。

「本当に組合を呼ぶとは思わなかったよ」

 幹部の横に立っているアーサーに、事務所机の椅子に座ったまま石村は優しく声をかけた。前回と違い、今は心に余裕がある。なにしろ共産党議長、新人民軍首都圏司令官と知り合いになっており、いざとなれば彼らに助けを求めることも可能なのだ。

「哀れな従業員に代わって、今後は俺があんたと交渉する。言っておくが、俺が乗り込んできたからには覚悟してもらうぞ。商売ができなくなるだけで済めばいいけどな」

 幹部の男が凄んでみせた。芝居じみた声色で、死んでもらうこともあると言っているのだ。

 脅し文句に触発されて、石村はからかいたくなってきた。そもそも、本当に組合の幹部かどうかも分からない。他の従業員の手前もある。ここでびくついていたのでは、小なりといえども、いっぱしの経営者とは言えまい。素浪人の名も廃るというものだ。

「ストライキになれば、この店を閉めるだけだ。殺したければ、殺せばいいじゃないか。それでどんな利益が君たちにあるんだね」

 説得するような口調で、石村は言葉を返した。

「ようし、そこまで言うなら人民裁判にかけることにする。全くふてぶてしい奴だ。我々労働者を敵に回して、恐ろしくないのか。どこまで逃げても我々はお前を追いかけ、処刑してやるからな」

 落ち着いた石村の態度が気に障ったのか、憎々しげな表情を浮かべて幹部が鋭い目つきを石村に向けた。

「何が人民裁判だ。寄ってたかって一人の男をつるし上げようなどと、一人前の男がすることではなかろう。君らは自分の思想信条に則っているつもりだろうが、ただの集団リンチじゃないか。しかし、それでも俺は逃げないよ。安心してくれ」

 無理に笑いながら石村は言った。

「気取るんじゃないよ。我々の組織に勝てると思ってるのか。一人の力など限られているんだ。お前のような個人主義は、我々の餌食になるだけなんだよ」

 よほど石村の言葉が気に食わなかったらしく、組合幹部の浅黒い顔が赤みを帯びると体が震え始めていた。まるで漫画である。どうやら彼の思想信条に触れたらしい。幹部がアーサーの腕をつかみ、立ち上がった。

「名前を聞いていないが」と石村が問いかける。

「俺の名前はカバンバンだ。どうやらあんたと俺は、水と油の関係らしいな。次に会うのを楽しみにしているぜ」

 事務所の扉に向かって歩き始めると、振り返りもせずに二人は立ち去った。

厭な日々が続いている。ウィリーの件もそうだが、つい先月は入国管理局の役人がやってきて、不法滞在により収監すると脅された。ビザに関しては何の問題もない。百%の輸出企業として会社は登録されており、正規のビジネスビザを取っているからだ。一笑に付して追い返したのだが、「来月また来るからな」と、物欲しげなセリフを残していった。

 従業員のアーサー、税務署職員のアルマンド、椰子繊維業者のウィリー、入国管理局の役人。どいつもこいつも悪いフィリピン人ばかりである。こんな思いをしてまで、なぜ素浪人の信念を貫かねばならないのかと、これまで何度も自問してきた。もう日本に帰ってしまおうと思う時もある。

 しかし、犯罪に加担する危険を冒してまでマリアの依頼を引き受けたのも、愛した彼女と別れたのも、すべて自分の人生なのだ。泥まみれ血まみれになっても、この地で、自分の力で生き抜いてみせる。

 心が落ち着いたところで、今後の船積みスケジュールを石村は計算した。万が一にもストライキとなれば、日本の顧客に迷惑がかかる。倉庫にある在庫は、できるだけ早く輸出しておかねばならない。常に最悪の事態に備えるのが、石村の癖になっていた。

「とことんやるまでだ」

 両手のこぶしを握りしめて、石村は事務所から倉庫へ出た。頭上のトタン屋根が、焼け付くように熱い。ゆっくりと石村は在庫の確認を始めた。


          10


雨期が終わりに近づいた1986年十一月十五日、旧財閥系商社「七井物産」マニラ支店長の若林氏が誘拐された。支店の部下三人とともに、マニラ郊外にあるカンルバン・ゴルフ場でプレイした帰り道を襲われたのである。サトウキビ畑に囲まれた舗装道路を走っていると、待ち伏せしていた五人組の武装グループに停車を命じられ、支店長だけが連れ去られたのだ。

支店長誘拐事件の発生を石村は現地の新聞で知ったが、半ば驚きであった。というのは、誘拐事件の起こる二、三日前には、結成されたばかりの合法左翼政党である人民党議長オレリア氏がマニラ郊外で暗殺されており、その結果、労組による全国ゼネストが呼びかけられていた。更には、マルコス政権を倒した「二月のエドサ革命」以来、アキノ政権下で実質的な権力を握るアロヨ官房長官の容共姿勢を批判している国軍により、クーデターさえ噂されている政治状況である。「エドサ革命」の主役とも言えるエンリレ国防大臣とアキノ大統領の腹心であるアロヨ官房長官の対立が表面化し、大統領は官房長官か国防大臣どちらかの首を切らねばならぬ政治的局面になっていたのだ。

 このような政治混乱を背景に、当然にも世間では社会不安が蔓延していた。富裕層の中国系フィリピン人実業家すなわち華僑をターゲットにした誘拐事件が毎日のように発生しており、アキノ大統領による死刑廃止に伴い、中級住宅地での一家惨殺といった凶悪事件すら頻発していたのである。

 そんな時節に、まさか一流企業の、しかも金持ちと思われている日本人ビジネスマンが、護衛もつけず、数人の部下とマニラ郊外へ遊びに出かけるなど平和ぼけもいいところである。マリアから通訳を頼まれた数ヶ月前ですら、二人の日本人による誘拐計画を通訳しながらも、どの日本商社も誘拐事件を警戒しているはずであり、本当に実行など出来はしないだろうと、石村は心の内で思っていたくらいなのだ。

 事件の起きた頃、アキノ大統領は日本を訪問していた。マルコス政権下で荒廃したフィリピン経済を立て直すため、経済援助の要請をする目的である。その目的を妨害するために、ハワイへ亡命したマルコス大統領に忠誠を誓う「ロイヤリスト」が誘拐を仕組んだという推測が、フィリピンでは生まれた。

 日本政府はフィリピンへの渡航自粛通達を出し、フィリピン政府は反発した。日本政府の渡航自粛通達のために、投資環境が悪化したと諸外国に受け取られ、経済再建が一層困難になるからだ。

 誘拐事件はフィリピンに限ったことではないにもかかわらず、日本国内では「フィリピンは危ない国」という雰囲気に包まれた。石村は苦笑いするしかない。犯人は日本人なのだ。フィリピンを「危ない国」にしているのは、まさに日本人なのである。

 フィリピン国家警察は、事件発生後一週間もしないうちに一人のフィリピン人男性を逮捕した。誘拐事件の現場に近い村に住む人物で、強盗の前科があった。杜撰な見込み捜査である。容疑者はケソン市にある警察軍本部へ連行され、高圧電流などの拷問による取り調べを受けたが確たる証拠も自供もなく、一か月後に釈放された。


      ー後編に続くー


 (この話はフィクションです。現存するいかなる国、組織、個人にも関係ありません。また犯罪防止のため、一部は故意に誤った表記をしています)

 

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