第34話 名作

 1度だけ姉さんが本を読んでいるところを見たことがある。


 小さい頃は、少女漫画や魔法少女のアニメを楽しそうに観ていた彼女だが、成長するにつれ、娯楽作品には触れなくなっていった。

 それについては、特に悪いことだとは思わない。ただ単に他に関心の向くものができたというだけだ。しかし、当時の俺は勝手に大人になられたような気がしてつまらない気分だったのを覚えている。


 そんな中、仕事を辞めて1ヶ月くらいの頃にリンビングで本を読んでいる姉さんの姿を見かけた俺は、珍しい気持ちになったと同時に、作品を楽しむ余裕ができたのかと嬉しくもなった。


「何読んでんの?」


 台所で麦茶を出しながら聞いた。


「え? えっと‥‥‥カフカの『変身』」

「ふーん」


 当時の俺は、漫画は読むが小説はさっぱりだったが、世界レベルで有名な小説というくらいしか知らなかった。「さすが頭のいい姉さんは難しそうなの読んでるなぁ」と、テキトーな感想を持ったくらいだった。


「これ貸して下さい」

「はーい。あれ? 若林少年?」


 9月3日の放課後シフトは入っていないのに図書館に来ている俺に、若月さんは軽い笑顔を見せてくれる。可愛い。好き。


 目的は、純粋に本を借りるためだ。いつも働いているだけあって、カフカの『変身』はすぐに見つけることができた。


「今日はご利用者様だね」


 好きな人に様つけで呼ばれることに、何とも歯が浮く気分になる。

 そんな変態とは対照的に、テキパキと貸し出しの手続きをしてくれる若月さん。


「貸し出し期間は1ヶ月になります。ありがとうございました」


 『変身』は普通よりも薄いから、それだけ時間があれば読み切れるだろうと思い、自信満々で家路についた。

\



 10月1日。


「‥‥‥うーむ」


 フランツ・カフカの『変身』。

 メチャクチャ乱暴に内容を説明すると、主人公が朝起きたら虫になっていて困るという話だ。


 この物語を、約1ヶ月経っても読みきれない。

 面白くないわけではないのだが、読んでいて辛いのだ。

 主人公のグレゴール・ザムザが絶望する描写が多く、「何もそこまで自分を下に見なくても‥‥‥」と思う箇所がバンバン出てくる。

 さらに、巨大な虫になったという設定も脳内で思い浮かべるのが難しく、読むのに時間がかかる。


 何回か読破を諦めようと思ったのだが、あの日、真剣な眼差しでこの作品を読んでいた姉さんの姿を思いだして、読み続けた。


 そして、返却日の10月3日。

 俺は読み切った。

\


 

「お。『変身』読み終わったんだね。どうだった?」


 その日はバイトが入っていたので、カウンターで己の手で返却手続きをしていた時、若月さんが話しかけてきた。

 クソゥ。これを聞かれたくないから自分でしていたのに。


「えっと‥‥‥よく分からなかったです」


 世紀の名作を理解できない自分が恥ずかしい。しかし、知った風な感想を言うのはさらに恥ずかしい。俺は仕方なくそう言った。


「そっか」


 若月さんに馬鹿だと思われてないか不安になりながら、この頼りになる女性に聞いてみる。


「あの‥‥‥これって、どんな話なんですか? グレゴール・ザムザはなんで虫になっちゃったんですか?」


 情けないが、分からないことは先輩に聞くに限る。


「若林少年。そんな不安な顔しなくても馬鹿にしたりしないよぉ〜」


 肩をバンバン叩いてくる若月さん。そんなに酷い顔をしていたのだろうか。


「まあ、私も偉そうに講釈できるほど理解できてるわけじゃないんだけどね。あれ、マジものの虫になったんじゃないってのが有力っぽいよ」

「え? そうなんですか?」

「うん。なんというか、朝にベットから起き上がれない自分を極端に揶揄した表現なんだって」


 そう説明されて、やっと腑に落ちる。

 そう。俺はグレゴール・ザムザの気持ちを嫌というほど知っている。

 朝という、暴力的な現実に逆らう気力もなく、布団から動けないあの状況だ。確かに、あの時は自分はクズ。言い方を変えれば虫のようなものだと自嘲してしまう。


「だから、生前のカフカは表紙とか挿絵に<絶対に虫のイラストをいれないでくれ>って言ってたらしいよ。亡くなった後に、その約束は破られるんだけどね」


 それは、無念なことだろう。

 あれほど絶望の描写が巧いカフカさんのことだ。あの世で、そのことをあの手この手で絶望しているのかな。


 閑話休題。


 そうか。そういうことだったのか。

 鮮明な姉さんのことだ。カフカさんの意図は気づいていたことだろう。


 そして、あの物語の最後は‥‥‥。

 あの真剣な眼で、姉さんは何を思っていたのだろう。


 

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