第31話 ふざけるな

「酒が飲めないなんて、人生の半分を損してる」


 昔ほどではないにしても、飲酒こそが最大の楽しみだという文化は存在する。

 どんなに仕事がしんどくても、酒を飲めばリセットできるとされている。そんな魔法のような飲み物があることで、何とかメンタルを保っている人達もいる。

 もちろん、健康を考えれば飲まないことが1番なのだが、「酒は芍薬の長」とも言う。未成年の俺には分からないが、きっと、彼らからしたら生きるための必須アイテムなのだろう。


 しかし、世の中には下戸がいる。

 身体が酒を受け入れずに、気持ちよく酔っ払うというより、単純に具合が悪くなる体質の人達。


 姉さんは、その下戸だ。


 根が真面目なので、20歳になるまで酒を飲むことは無かった。周りの友達は各々のやり方でこっそり飲んでいたらしいが、姉さんは頑なに飲まなかった。


「だって、ルールだから」


 これ以上なくシンプルな理由。でも、そのルールを破るのが楽しいと感じるのが我々人間だ。縛られることに抵抗する本能がある生き物であることは、歴史を見ていれば嫌でも分かる。


 そんな真面目な姉さんが、殺人という、人類史上最も重い禁忌である殺人を試みた。


 夜中の3時過ぎ。あと4時間後には新学期を初日である登校日だ。

 でも、そんなことがどうでもいいと思える問題が起きた。ここで向き合わなくては、俺は一生後悔するだろう。


「なんで?」

「ん? 拓也が私だけのものじゃなくなったから」


 変わらず、姉さんの声音は穏やかだ。

 息遣いも正常だし、瞳孔も開いていない。

 至って冷静な状態で、俺を殺そうとしたのだ。


「私も色々考えたんだよ? でも、もう限界なんだ。外で若月さんとイチャついてる分には我慢できるけど、家に連れてこられちゃアウトだよ」

「‥‥‥」


 脳を整理するのに、少し時間がかかったが姉さんが何を言っているのかやっと理解できた。

 先日の勉強会だ。


「しかも、ギャルまで連れてきてさ。3人で仲良く勉強してるのを感じたくなくて、外に出た。そしたらさ、偶然末永くんに会ってさ。聞けば、最近ちょくちょく遊んでるらしいじゃん」


 そう言われて初めて、あの日の我が家に姉さんの姿がなかったことに気づいた。心の病によって外出が困難なはずの家族がいないことに気づかなかった。

 馬鹿みたいに、友人達との楽しい時間を過ごしていた。


「‥‥‥」


 ごめん。


 そんな無責任な言葉が喉元まで出かかったが、寸前で飲み込んだ。

 目の前に深く傷ついた人間がいるのに、自分だけが楽になる謝罪をすることができない。

 だったら、他に何を言えばいい?


「でも、もうやらない。朝がきたら警察に自首してくるね。こんな理由で弟を殺す姉なんと一緒に暮らせないでしょ?」


 そう言って立ち上がる姉さん。

 殺人未遂という、盛大なルール違反を犯したことへの罰を、自ら受けようとしている。その行動はきっと正しい。


 でも‥‥‥。

 俺は、姉さんの右腕を掴んだ。


「ふざけんな‥‥‥!」


 何もかもが分からないが、このまま行かせてはいけないことだけは理解していた。


「勝手に追い詰められて! 勝手に暴走して! 勝手に俺の前からいなくなるな!!」


 今まで出したことのない声量で、俺は言う。


「少しで良いから、姉さんの闇を俺にも分けてくるよ!」

 

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