第8話 ぬいぐるみ

 人間相手に「壊れた」という表現を使うのは良くないとは分かっている。物ではないのだぞとお叱りを受けるのも覚悟の上だ。

 それでも、この表現を使ったのは直ることができるという可能性を示唆したかったのだ。


 ガキの頃の俺は、スヌーピーのぬいぐるみを可愛がっていた。丁度、抱き心地の良いサイズ感だのそいつの名前はフー。スヌーピーのスの字も無い謎の名前だが、当時の俺の親友だ。


 その親友を、俺の不注意で傷つけてしまったことがあった。

 公園で木に登って遊んでいたら、枝に引っかかりハラワタが飛び出してしまった。実際はただの綿なのだが、本当の臓器に見えるくらいに、親友の一大事に俺はパニックになった。


 号泣しながら家に帰り、何事かと出迎えた母さんに事象を説明すると「これくらいなら直るわよ」と言われた時は、冗談抜きで神様なのかと思った。


「完全に元通りってわけにはいかないけどね」


 母さんは裁縫道具を取り出して、パックリ割れた腹をチクチクと手際よく縫っていく。今まで普通の主婦だと思っていたけれど、もしかしたらスゴイ人なのかもしれないと思うほど、その時の母さんは心強かった。


 20分ほどで生き返ったフーを、幼い俺は壊れないように、優しく抱きしめる。お腹に縫った痕が分かりやすくある。


「母さん、ありがとう!」


 本来だったら不格好に見える傷跡があるフーのことが、以前にも増して愛おしく見えた。

\



 ジョギングから戻り、軽くシャワーを浴びてから自室で制服に着替えていると、窓際でクタクタになっているフーに目がいった。


 男子高校生が未だにぬいぐるみを部屋に飾っているのは、我ながらどうかと思うのだが、こいつだけは捨てられない。

 大掃除の度に捨てる候補に入るのだが、毎回ギリギリのところで回避している。一度、こいつをゴミ袋に入れるまでいったことがあるが、その姿を見ていたら罪悪感で死にそうになり結局部屋に戻ってもらった。

 その後、その選択をして良かったと俺は思い知ることになる。


 壊れかけていた姉さんの癒しになってくれたから。


「ここまできたら、お前とは一生の付き合いかもな」


 返事が返ってこないと分かっていても話しかけてしまう。

\



 就職してからは、姉さんは一人暮らしをするようになった。

 声が聞きたくなり、俺の方から電話をかけることがあり、その際にいつもの元気を感じなかったので、こんなことを言ってしまったことがある。


「大丈夫?」


 大丈夫じゃない人がそう聞かれてどう答えるかくらいは知っていたくせに、そんなことしか言えなかった。


「大丈夫」


 俺に気を遣わせないように、意図的に明るい声を出していることが分かったが、それを指摘することができなった。

 その段階で、無理にでも休ませるべきだったのだ。

 俺がモタモタしているうちに、根の部分が真面目な姉さんは悲鳴をあげる身体と心に鞭を打って働き続けた。


 その結果。

 姉さんは倒れた。


 職場で意識を失ったと連絡を取ったのは母さんだった。大学に進学した方が良いと最後まで言っていた彼女は、搬送された病院で本人と話した。


 父さんと俺が、遅れて病院に着いた頃には、姉さんは寝ていた。ここ数日、しっかり寝れていなったらしい。


 母さんは病室から出て、一階のロビーで涙ながらに父さんと俺に次のような説明をしてくれた。


 姉さんの職場には若者がいなかったため、大歓迎されたそうだ。


「体力のある若い人がきてくれて嬉しい」「頑張ってね」「期待しているよ」


 人の役に立ちたいという動機で就職を決めた姉さんからしたら、そんな歓迎は嬉しくてたまらなかったらしい。

 頼りにされていると伝えられて、姉さんはやりすぎた。


 本来、姉さんのではない仕事を積極的に引き受けた。最初は感謝していた先輩達も、次第にそれが当たり前と感じるようになる。

 その結果、姉さんの負担は増えていった。


 そんな生活を、1年半していたら身体が限界を迎えた。

 それと同時に、心も疲弊していて心療内科に通院してはどうかと、その病院の先生に伝えられたらしい。


「‥‥‥」


 その時、俺は何も言うことができなった。

 現実的な案を出している父さんとは比べ物にならない役立つだった。

\



 それから1週間後、姉さんは実家に帰ってきた。


 仕事を辞めて、落ち着く場所で静養することにしたと母さんから聞いていたので、俺も笑顔で迎え入れた。


 しかし、あれだけ仲の良かった姉と何を喋ったら良いのか分からなかった。表情も影があり、頻繁に「ごめんね」と謝ってくるのに、何と返したら良いのかも分からなった。

 謝るべきは俺の方なのだが、俺が謝ることで、さらに追い詰めることになりそうで怖かった。


 しかし、俺は馬鹿で欲張りなので、もう一度仲良くなりたいという欲を捨てることができなかった。


 とにかく、今の姉さんには癒しが必要だ。それには何が必要だ。

 そう考えていたら、ふと、部屋で静かに佇んでいるぬいぐるみの存在に思い至った。

 小さい頃の俺の心の隙間を埋めてくれていたアイツなら、もしかしたら。


 リビングでボーっとテレビを観ていた姉に、フーを渡してみた。


「えっと‥‥‥こいつ抱いてたら癒されるから‥‥‥あの、良かったら‥‥‥」

「‥‥‥」


 しどろもどろの俺を見てから、フーをギュッとする。


「‥‥‥あったかい」

「うん」


 顔をフーに押し付けて、もう一度言う。


「あったかい」

「うん」


 気の利いたことの言えない木偶の坊の俺は、ただ肯定することしかできなかった。


 

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