第8話 破談書の破られたその後に
「ママママックス様っ、えっ何を!? そそそれ破談書ですよ!? いいんですか!?」
「フェリシアはこれを望んでいたんだろう?」
「それはそうですけど、まさかあなたが破るなんて想定外です。私からも訊きますけど、後悔はしないんですか?」
「するわけがない」
きっぱりハッキリ宣言したマックスは清々しいような表情だ。
それはつまり、私と婚約していても構わないって事よね。そこは素直に光栄よ。でも婚約者でいる意味を本当に理解しているの? もしかしたら真面目で堅物過ぎて彼はそこまで考えが及んでいないんじゃないの?
「マックス様、お忘れかもしれませんが、婚約を続けたら私と結婚もしないといけないんですよ?」
「フェリシアは心配性だな。そんな重要な点を忘れるわけがないだろうに。名実共に君を愛せるんだから」
私は暫し異国の古僧がとんちをするように悩んだ。ポクポクポクチーン。
「え、あの、まさか……マックス様は私を女として好きなんですか?」
彼のお前マジ信じられない的なその衝撃顔を私はきっと生涯忘れないと思う。
この話の流れで悟れなかった私は相当鈍ちんみたいね。
「俺は好きでもない相手と結婚など望まない」
ご機嫌斜めのマックスがベッドの端に腰かける。私も隣に座った。あらやだわ、口元がどうしようもなく弛んじゃう~。
「へへっ、それは私もです」
思わず淑女としては些か品のない笑い方で笑っても彼の目は窘めたり引いたりはしなかった。
「マックス様、次の舞踏会からはまた一緒にダンスしましょうね?」
微笑んで横を見上げると、向こうは先にこっちを見下ろしていたようでバッチリ目が合った。
不意討ちと、近い距離にドキリとする。
そう言えばそうだった。
私達が最後に会った時って――……。
「……イチゴ味」
無意識に声に出してしまって細部を思い出したら猛烈に恥ずかしくなってきた。だってあの時の彼は普段とは違っていた。
あんな風に衝動的に甘やかで危険な熱をぶつけてくるなんて思いもしなかった。
私の呟きと表情の変化に相手も察したようで、少し照れたようにする。
「マックス様、今日の馬車での事なんですけど。中和薬を飲ませてくれた後のあれは……」
「あ、あー、それか、まあそうだよな、やはり覚えているか、そうか。……なるほど、あの薬は元から好意を寄せている者が飲んでも記憶は消えないのか」
彼は気まずそうに言い訳染みて言いつつ、やや落ち着きなく額に当てていた手で髪を掻き上げたりした。
「あれはだな、君ともうおしまいなんだと思ったら辛くて、惚れ薬が中和されたら、それまでの暗示ごと記憶が消えると聞いていたから、最後だからと、つい出来心で……済まなかった。最低だった。怒りのままに殴ってくれていい……!」
「え、いえ」
彼はさあ叩けと言わんばかりに頬を突き出すようにしたけど、むしろ最高だったと言ったらどんな顔をするかしら。
「けれどなるほど、記憶が消えるなんて作用もあったんですか。知りませんでした。なら張り切って飲ませても無駄じゃないですか。仮に中和薬を飲まなくても自然と薄まっていくんでしょうし、いつかは偽りの恋から目が覚めますよね」
「そうだな。あれは子供騙しなんだろう。大体、人の感情を魔法薬一つでずっと縛り付けるなど、およそ不可能だ」
「褒められた事でもないですしね」
「……そうだな」
この時何故か彼は目を逸らしたんだけど、彼も実は惚れ薬を買ってたなんて、そんなわけはないよね……?
「とりあえず、わかりました。キスの事で私は怒っていませんし、その真逆です……実はと~ってもドキドキしました」
「えっ、そっ、そうか」
「あの、マックス様」
こほっと空咳をする彼のナイトガウンの袖をちょっと引っ張った。さっきから案外ちょいちょいチラ見せの鍛えられた胸元が誘惑してくるんだものー。
「これからはもう遠慮しなくていいですからね、キス。私もまたしたいです。私はあなたが大好きなんですもの、自棄になって惚れ薬を飲んでしまうくらいに」
「フェリシア…………ところで、あの惚れ薬は本当はどう使うつもりだったんだ?」
「ああ。ええと、自分で飲んで、マックス様を忘れて他の方を好きになろうと思っ――!?」
不意討ちでキスされた。馬車でみたいに。
今は一度だけですぐに解放してくれたけど、彼の目はその限りじゃなさそう。
「他の男をなんて、もう金輪際思わせない。どうか俺だけを見ていてくれ」
懇願の響きを孕んではいるけど、これは要求とか命令に近い。ただとても抗えない甘い毒を内包していた。
「お馬鹿ですね、マックス様は。あなたが私を好きだと言ってくれたのに、どうして私があなた以外に目を向けるなんてするんです? そんな日は未来永劫来ません」
私は両腕を彼の首筋へと絡める。
「ちゃんと仲直りした記念として、もう一度キスしませんか?」
「おそらく長い一度になるが?」
「望むところです」
ふ、とマックスは吐息で微笑んだ。
どちらが先にってわけじゃなく、お互いにそうしたくて唇を寄せ合う。
馬車の時より鮮明だからか幸せで全てが蕩けそう~。大満足っ。息が上がって彼の胸を押して顔を離すと、同じく頬を上気させた彼が艶を含んだ眼差しで囁いてくる。
「フェリシア、このまま帰すと思うのか? 危ないから夜這いはしないように言ったのに」
「え? 帰りますよ?」
「……」
「両想いだとわかったからこそ、安心して節度は守りましょう」
「……そうだな」
不承不承同意するマックスは意外にも情熱的だし積極的な男だった。でも私の意見をちゃんと聞いて考えてくれる。押し切らないで踏み止まってくれる人。余計に愛しさが込み上げた。
本当はもっと甘えたいけどこれ以上はリア充初心者な私の頭がパンクしちゃうわ。
「マックス様、不束者ですが、明日からも婚約者としてどうぞ宜しくお願い致します」
意識して小悪魔っぽく囁くと彼は小さく溜息をついた。頑張って気を取り直そうとしているみたいに。
「フェリシア」
「何ですか?」
「ありがとう。俺を諦めないでいてくれて」
彼はすっかり私に心酔しているような顔ではにかんだ。救われた者があたかもその神を心から信じ切るように。
「……その可愛さ反則です」
「可愛さ?」
彼は自身に向けられる言葉としては大人になってからは初めて聞いたに違いないそれに怪訝にした。でも可愛いのは可愛いんだし他に表現しようがないんだからどうしようもない。
「はは、何を言うかと思えば。可愛いのはそっちだろうに」
「な、う、反則です~っ。罰としてこうしてやります! くれぐれも動かないで下さいね」
キュンと言うよりはドキューンよ。
堪らずぎゅうっと抱き締めて頬にちゅっと口付けると、彼は観念したようにして罰の間向こうからは何もしてこなかったけど、仄かな照明だけの二人きりの深夜の寝室は、至福の時で満ちていた。
双方の屋敷じゃ私達当事者以外はこの一連の出来事に気付いていなくて幸い騒ぎにはならなかった。
明日からの新生婚約者ライフはきっと一味も二味も違うんだろう。
ううん、私が同じになんてさせない。
夜風に吹かれる帰りの愛馬の上で、私は堪え切れなくてによによとして怪しく笑う。
「マックス様覚悟してーっ! もっともっとどっぷり私に首ったけにさせるんだからーーーーっ!!」
どこまでも続く星空の下、訪れるだろうめくるめく明日へのわくわくとドキドキに包まれていた。
「はあぁ~~~~。死ぬかと思うくらいキツかった……。俺の自制心は神レベルだなホント」
一方、マックスはげっそりしていた。
罰と言われて大人しくされるがままにしていたが、そろそろ限界にきてよし手を出そう決意した矢先『罰はこのくらいにしてあげます』とフェリシアが終了を告げた。
『このままオールナイトラブしたいのはやまやまなんですけど、ちゃんとしたのは、当初の予定通り私の十八での結婚式まで取っておきましょう! うふふっあと何ヵ月かの辛抱ですね! それまではもっとデートをして親睦を深めて参りましょう!』
『え……』
『それではご機嫌よう、親愛なるマックス様!』
赤く火照った頬を可愛らしく両手で押さえながらも朗らかにそう告げてきたフェリシアが、艶やかな笑顔でバルコニーからまるで怪盗のように颯爽と去った寝室で、屋敷まで送ると言う事もできず一人取り残されたマックスは、恋人を名残惜しげに見送る深窓の姫君宜しく窓辺に佇んだ。
ややあって窓枠に手を突きガックリと項垂れて今に至る。
「は、何て無邪気……。こっちは耐えるのに必死で全然足りてないってのに」
今日までの数年、嫌われていると思い込んで勝手に拗ねていた自分にグーパンだ。百回くらい。
彼女への愛情を露わにしていたならもっと素敵な許婚ライフを送れていただろう。
結婚時期の決定も曖昧にされて先伸ばしになどされず、今頃は同じベッドで仲良く寝起きしていたかもしれなかったのだ。
毎朝おはようのキスを交わしていたかもしれなかったのだ。
すれ違う以前も、相手方の両親への印象を良くしようと言うよりは、フェリシアに無駄に警戒されないようにと節度ある男だと真面目ぶったのも失敗だったかもしれない。下手に本気で手を出せなかった。
本当のマックス・エバンズは世間一般の男よりも余程狭量で執着心の強い人間だ。沈着と言うよりは冷淡だ。
もしも婚約者がフェリシアではなかったならば、不仲だろうと親密だろうと何の躊躇いもなくとっくに抱いていただろう。
フェリシアだったからこそ、こうも躊躇い手こずっている。
「彼女はきっとわかっていないんだろうな。俺が彼女の人生最大の脅威であり、最高に厄介な男なのを」
一度は彼女の幸せのために離れようとしたが、向こうからこの手を掴んで引き留めてきたのだ。たとえ意思を翻そうとももう遅い。
綿で包むようにして大事にして嫌われたくないと思うのに、離れようものなら全力で捕まえて卑怯に鎖で繋いででも共に居てくれと懇願しかねない。彼女が折れて頷くまで解放だってしないだろう。
「はあ……こんな自分の性格が嫌になる」
軽く自分を小突く。フェリシアはそんな昏い感情など知りもしないだろう。
「俺はもう君なしではいられないんだよ、フェリシア。他の誰にも渡さない。それがたとえ神だろうと、君は俺だけのものだ」
つい先程までのプチ幸せ時間を思い出しながら、彼は改めての揺るがない決意と共に窓辺から踵を返すとベッドに戻る。
ついさっきまでフェリシアのいた余韻の残るシーツの乱れ。
極上の甘味さえ霞む好きな女の口付けにほとんど忍耐を総動員させていた彼は悩ましい息を吐き落とす。
真夜中だと言うのにすっかり目が覚めてしまっている。
「……罪作り」
ここにはいない婚約者へと恨み言のようなものを呟いた。眠れそうにない男の夜は更けていくのだった。
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