第9話 消えた惚れ薬と婚約破談書

「けひひっマスターもまだまだだなあ~。まだお預け~ってされてあっさり引き下がるんだもんな~。どうせ無理強いしたら嫌われる~んとか日和ってたんだろ~?」


 寝室に突然響いた奇妙なダミ声に、マックスは眉間にシワを刻んでベッド脇すぐの床に目を落とす。

 そんな彼の視線のまさに先に、突如として黒い波紋が浮かび上がった。その中央からはあたかも水面に魚が顔を覗かせるかのように一体の黒猫が少し鼻先を覗かせる。

 一応は探るためなのかくんと辺りの匂いを嗅ぐと、次には全身でひょいっと飛び出してきた。

 その喋る長毛猫は行儀よく床にちょこんと座ると、赤い瞳でマックスを見上げる。


「何か用か?」

「けひっ、そう冷たくしてくれんなって! にしてもフェリシアはいつもいい匂いだぜ~。なあなあおいらを飼い猫扱いにしてあの子に紹介してくれよ~? 大人しくしてるからさあ~?」

「黙れエロ猫」

「へっ、マジでフェリシアの事となると相変わらずケチケチしてんなマスターはっ。心狭~。フェリシアも気~の毒~~。マスターに好かれるって事は、死んだ後も魂をマスターに束縛されて永遠に一緒に地獄ってこったろ~? おいらなら絶対に願い下げだね~。こんな執着心の塊のおっかない男なんてな~けひひっ!」

「百年くらい黙れないのか? 尻尾をたま結びにして魔界に送り返すぞ?」

「おお~こわっ、尻尾は一番のお気になんだからよしてくれよ~。しっかしさすがは悪魔戦士とまで言われるお方だぜ~。その素晴らしくお強い男には実は本当に半分悪魔の血が流れてるなんて誰も思わないだろうがな~。……あ、一人例外がいたっけ? あの敬虔深い魔法塔の奴。定期的に暗殺者送り込んでくるのあいつだろ~? 無駄なのにな、けひひっ!」


 調子のよい猫は言うだけ言うとフサフサした尻尾をひらりとさせて黒い波紋へと飛び込んで消えた。こうやって意味なく揶揄して帰っていくのがあの黒猫の姿形をした悪魔の嫌なところだ。

 マックスは苦々しい息を落とす。


「この先フェリシアと親密になる以上、奴が彼女にまで余計な真似をしないように警備を強化だな。まあ、彼女は普通に善良な人間だから危害を加えるとは思わないが、油断は禁物だ」


 奴と言うのは先刻の悪魔猫ではない。


 魔法塔のとある魔法使いの事だ。


 時に必要とあれば使役する悪魔を利用して戦うマックスを以前から目の敵にしている。


 魔物や悪魔の殲滅を堂々と掲げる件の魔法使いは、悪魔を地上に召喚するマックスごと消してしまいたいようで、頻繁に刺客を送り込んでくる。

 とは言え今夜は寝ようと横になった。


「フェリシアのためにも、何が起きようとも動じずにいられる男に、そうありたい」


 何となく上へと伸ばした右の拳を一度ぎゅっと握り締め、そっと瞼を下ろした。色々と忙しくなるだろう明日からのために無理にでも眠っておきたかった。





「――ない」


 翌日の朝一番、マックスは婚約者の荒らした書斎机の引き出しを整えながら、ある時点でふと眉根を寄せた。


「惚れ薬が、ない」


 実はマックスはフェリシアよりも早くに手に入れて保管していたのだ。この秘密は墓まで持って行こうと昨晩決めたのだが、雲行きが怪しくなってしまった。


「確かに昨日の夕方まではあったはず……」


 以前衝動的に手に入れたものの、使うのは卑怯だとの葛藤があり、しかし目に入る所に保管しては思い余って使ってしまいそうだったのもあり、書斎の普段はほとんど開けない引き出しの奥に入れて鍵まで掛けておいたのだ。

 昨日はやはり徒に持っているのも良くないと、後で破棄しようと思って所在確認だけはしておいた。


 それが無くなっている。


 昨晩フェリシアは言及していなかった点から、彼女よりも前にやってきた何者かの仕業だろう。わざわざ開けた鍵をまた閉めて悟られないように偽装工作までしていくのは単なる物盗り目的ではない。

 ともかく、昨日この書斎に侵入したのはフェリシアだけではなかったらしい。


 こんな真似をするのは十中八九マックスの動向を探りに、もしくは暗殺に来た刺客だ。


 もし、フェリシアが書斎に滞在していた時もまだその刺客が潜んでいたとしたら、と考えただけで背筋が寒くなり動悸が激しくなる。

 彼女は本当に命が危うかったかもしれないのだ。


 侵入者対策としてこの寝室には魔法が掛けられていて婚約者の侵入にもすぐに覚醒はしていたが、書斎には何もしていない。暴かれてまずい物は置いていないからだ。ただしその例外があるとすれば惚れ薬だった。

 注意を払っていなかったのが悔やまれる。


「一体何を企んでいる、ロレンツめ」


 マックスは憎たらしい魔法塔の当代塔主の男の顔を思い浮かべ、木っ端微塵と消してやった。

 深く考えるのは後だ。今日は重要な用事がある。屋敷の者に外出着一式を用意させ手早くそれに着替えた彼は、フェリシアの顔を思い浮かべ頬を緩める。今日は彼自らで婚約解消を取り止めたと先方に報告兼挨拶をするつもりでいた。


 その上で、一つ大事な提案もあった。


「きっとフェリシアは不安になるだろうな」


 案じたばかりなのもあって彼は一刻でも早く最愛に会いたいと願った。






 その頃、王都にある魔法塔では、一人の黒いフードローブの男が膝を突きこうべを垂れて両手で恭しく惚れ薬の小瓶を押し上げていた。


 エバンズ家に侵入した刺客だ。


 ここは魔法塔の最上階。


 まるで大聖堂かと見紛うばかりの造りだ。これもひとえに現在の塔の主人――マジックマスターの意向に沿って改築されたもの。


「ロレンツ様、これがマックス・エバンズが密かに購入し隠し持っていたと思われる魔法薬です。分析の結果惚れ薬だとわかりました」

「惚れ薬?」


 恐ろしく耳触りの良い男声が辺りに響く。高さは大体テノールだ。怪訝と言うよりは純粋に不思議に感じての響きを有している。

 マジックマスターの彼ロレンツも、目の前の配下同様に裾の長い黒ローブを身に纏う。彼の背後には荘厳なステンドグラスまでが再現されていて、朝日に透けるカラフルな彩光を背負う様は気分屋や根暗とよく言われる塔の魔法使いとは思えない程に神々しい。

 魔法使いのよく着る黒ローブ姿にもかかわらず、彼が王国教会の聖職者と言われてもほとんどの者は疑問すら抱かないだろう。


 そもそもロレンツはそこらの魔法使いとは別格。


 魔法塔は基本実力主義なので、現在この彼が最もこの組織で強く権力もあり、塔所属の魔法使いは彼の命令には絶対服従だ。


 ロレンツの白銀の長髪が光を細かく反射した。ローブの黒の上に揺れるので一際目を引き美しい。彼は薄紫の瞳を配下の差し出す小瓶へと向けて、長く細い誰もが羨む完璧な指先でそれを掴み上げた。


「ふむ、毒ではなかったのは意外だね。隠し持っていたのがよもや惚れ薬とは」

「同感です。こんな子供騙しを一体何に使うつもりだったのでしょう」


 二人は揃って暫し思案する。

 あの悪魔戦士には到底似合わない代物だったからだ。結局答えは出なかった。


「ああ、そう言えば、昨夜は自分の他にもう一人侵入してきた者がおりました。透明魔法で姿はわからなかったのですが、おそらくは女性かと。正体を暴こうかと思いましたが向こうも室内を荒らしていたので、新手の同業者かと思い放置して先に出てきた次第です」

「へえ、彼には敵が少なくないとは言え、私と違ってそこまでするのは珍しいね」


 しかし暗殺や失脚を望む目的は自分とは異なり俗物的な理由だと、ロレンツは窓外を眺めやり蔑みに目を細めた。


「国を護る彼が穢れた悪魔なのだとは、金銭的な利益にしか目のない彼らの誰も想像すらしていないだろう。嗚呼嘆かわしい」


 それまでまだ一人で考え込んでいた配下は悩んだような意見を口にする。


「あのーその惚れ薬ですが、彼は婚約者と不仲だと社交界では周知の事実ですよね。しかし破談にならず、更には長年婚約しているにもかかわらず結婚もしていません。二人の年齢的に巷の貴族ならとっくにしていてもおかしくないのにしていないのは、そこはやはり不仲が原因なのではないかと思うのです」

「なるほど、そこで惚れ薬か」


 しかしそれは結局のところ無意味ではと疑問を浮かべれば、配下は信じられない考えを述べた。


「効果が薄れる前に既成事実を作ってしまって、婚約者が泣く泣く結婚せざるを得ない状況に持って行こうと目論んでいたのではないでしょうか」

「何と卑劣な!」


 ロレンツはわなわなと震えた。配下は続ける。


「彼のような死と隣り合わせの男には、家の存続のためにも跡継ぎの確保は急務と言ってもよいでしょうから、結婚を先伸ばしにされている状況に焦りを覚えたとしても不思議ではありません」

「故に、強引な手段をも視野に入れていると言うのだね」

「自分めの推測ですが」

「奴を倒し、憐れなその婚約者を今すぐにでも救わなければならないね。また誰か刺客を差し向けておいてくれ」


 了解した配下が出ていくと、彼は壁際へと近寄りそこに掛けてある一本の長剣をスラリと抜き放つ。単なるインテリアの一つではなかったらしい。

 澄んだ青白い剣身が鏡のように彼の顔を映し込んだ。

 しかしそれを日に透かすと剣身には複雑な模様が浮き出て見える。それは聖なる魔法を打たれた破魔の剣だった。

 聖剣とも言われ、魔物は勿論悪魔にも有効な力を内包している。


「必要ならば、この剣で斬り伏せるのもやぶさかではないね」


 マジックマスター・ロレンツ、この魔法塔最強の術士は魔法剣士でもあった。


 ただし彼がこの剣を用いるのは極々稀で本当に凶悪で強力な相手にしか振るわない。それ程に威力は凄まじいのだ。


「マックス・エバンズ。紳士の仮面を被っていられるのも今のうちだけだよ」


 ロレンツはふっと優雅に微笑むと、あたかも騎士が覚悟を固めるように長剣を顔の前に掲げてみせた。






「――ない!?」


 マックスとラブを確認し合った翌日朝、実家ウェルストン家で私は鏡台に両手を突いた格好で混乱と焦燥の声を上げた。鏡に映る顔は誰が見ても蒼白だ。


「婚約破談書がないいいいーーーーっ!!」


 そうなの、破談書類が見当たらない。愛馬を厩舎に連れていきテレポート魔法具で部屋にこっそり帰宅した昨日は、緊張の連続と夜遅かったのもあって疲れて眠くて明日にしようって鏡台に入れたまんまにしたの。


 だけど弟にだけは外出がバレていたみたい。


 私の愛馬がいないのを悟って何と厩舎で心配して待っていたのよね。両親や屋敷の誰にも言わないでいてくれたのは正直助かった。


 昔から健気な姉思いの弟にだけはマックスとの仲直りを報告した。


 良かったなって喜んでくれた彼は他の皆に気付かれる前に私だけ先にテレポートで部屋に戻るようにも勧めてくれた。ホント優しい弟なんだから。昨晩はマックスと弟のダブルの思いやりに気持ちが満ち足りて熟睡だったわ。


 それで、さて夜が明けて寝起きスッキリ~な頭でよし破談書類を燃やしてやろうと意気込んで引き出しを開けたってわけ。

 破るだけじゃこの恨み晴れぬわーって焼却処分に決めたんだけど、当の書類がなかった。

 空だった鏡台の引き出しを引っ張り開けたまま閉めもせず、債務超過で倒産の危機にある社長宜しく頭を掻きむしる。


「どうして、どうしてないわけ!? 確かに昨日ここに入れておいたのに!」


 どの道この世から消す気ではいたけど、マックスの元からもう一組を回収するのが先決で私の分の始末はいつでもできるからと後回しにしていた。

 それが良くなかった。

 仕舞った場所にそれがない。

 たぶん、誰かが勝手に持っていったんだろう。

 だけど、あんな個人的な婚約破談書なんて持って行って誰に何の得があるの?


「まさか、マックス様を狙う恋敵の手の者が?」


 誰が持ち去ったにせよ、私は必ずそれを見つけて破棄しないとならない。

 でないといつその書類を持った何者かが目の前に現れて「あなた達はもう婚約者同士ではないのよ! イチャイチャは禁止よ!」って引導を渡されかねない。

 また婚約すればいい話だけど、正式な書類を用意するまではマックスを誰かに持ってかれちゃうかもしれないし、社交界に変な噂だって立つ。そうなれば私はともかく真面目にコツコツ功績を積み上げてきたマックスの出世にだって影響が出るかもしれない。私だって足を引っ張りたくなんてない。

 だからこそすぐにでも捜索を開始しないと。


 そう意気込んで着替えたり何だりと朝早くから支度を整えていた私だけど、こういう切羽詰まった時に限って人生思うようには中々行かないようで……。


 マックスがうちにやってきた。


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