第7話 すれ違いの真実
つんとした、鼻の奥が。
視界がぼやけて瞬いたら幾らかクリアになる。そんなのを何回か繰り返してようやく気持ちを立て直せそうになって身動ぎした。もう押さえ付けられてはいないから自由に身を起こしてその場に座り込む。涙も拭った。
マックスは、彼もさっきまでの様子が嘘みたいに放心しているようで、隣から私を見開いた両目で見つめて固まっている。
どうしてこんな所にいるんだって目が言っていた。
私が起き上がった事で彼も正気を取り戻したのか瞳を揺らすと私の乱れて顔に掛かった髪の毛を直してくれようとしてか腕を持ち上げた。
その瞬間、私は意図せずも反射的にビクッと肩を跳ね上げてしまった。
正体を知った彼にもう乱暴をする意思はなかったのはわかるけど、反射的にそうなってしまったんだから仕方がない。
彼は無言で指を握り込んで手を膝に下ろした。
「暗殺者かと思ったから、手加減できなくて悪かった」
暗殺者……?
ええと夜中に部屋に未知の他人がいるのは怖いけど、出てくるのが泥棒じゃなく暗殺者って、可能性としてそんなにさらっと出てくる存在だっけ?
もしかして彼はそれに疑問を抱かない程度には暗殺者とご対面した経験があるの?
こんな予想外の思考のせいか、私は直前までの怖さが嘘みたいに薄れていた。だって悔いるように深く俯いてしまった彼を見ていたら本当に申し訳ないと思ったから。
もしも彼の環境が人より暗殺者遭遇に近しいものなら、私への対処は決して過剰でも間違ってもない。
「マックス様はすぐに気付いて力を緩めて下さいました。透明魔法まで使って押し入った私が悪いんです。マックス様は何も悪くないんです。ですから謝らないで下さい。顔を上げて下さい。勝手に忍び込んでごめんなさいっ」
「しかし俺は怖い思いをさせただろう」
「……っ、たたっ確かにすごく、殺されるかもって思うくらいに怖かったのは認めますっ。ですけど今はもう怖くありませんっ」
「嘘はいい。まだ震えている癖に」
「だっ……それはっ、そんなすぐには心拍数だって下がらないんですからしょうがないでしょう!」
小さく手がまだ震えているのは隠せない。
でも心はもう前向きなの。
彼の手を私は飛び付くようにして両手で握り締めた。びっくりしてか向こうは咄嗟に手を引こうとしたけど私がより強く掴んでさせなかった。
「どうして避けようとするんですか! 私は全然知らなかったから愚かにもあなたを傷付けてしまいましたけどねっ。マックス様みたいに魔物と戦う兵士の皆さんって眠る間も本当に気を抜けないんでしょう? 命懸けなんですもの、不審な相手を打ち負かそうとするのは必然的な行動です」
「いいんだフェリシア。害か無害かを的確に判断できなかった未熟な俺のせいだから」
「だっからあなたのせいじゃありませんってば! 何でわからないんですかっ! いいえホントはわかってますよね? ねええっ!?」
鼻息を荒くして前のめりに訴えれば、目を丸くした彼はようやく「圧すご……」とかそこはかとなく失礼な戸惑いを浮かべた。
「だが俺のこんな一面を君には見せたくなかった。危ない奴だって怖がらせたくなかった」
「え、手負いの獣みたいに危険なマックス様も魅力的ですよ?」
「……」
彼から不可解そうな目をされた。特殊性癖なのかって薄ら疑われたんだと思う。激しく誤解です。この話題はやめようと咳払いする。
「本当の本当に怖いけど怖くないですからね! しつこく言いますけど誤解しないで下さいね?」
「わかったよ。信じるから」
「良かった。あの、ところでマックス様はそこそこ命を狙われる事がおありなんですね?」
「まあな」
誰に、とはどうせ名前や正体を聞いても私にはわからないだろうから問わなかった。こうやってみると私って彼にしてみたら役立たずよね。結婚するメリットなんてホントない女よ。魔物と戦えるわけでもないし、暗殺者から護ってあげられる力もないし、政治的にも大した盾にならない。
ここで一つの考えが浮かんできた。
「もしかしてうちを巻き込まないように破談にしようと?」
「……理由の一つではある」
「一つですか。主な理由は私を嫌いだからでしょうけど、うちの家族の安全まで気にかけて下さっていたのは素直に感謝致します」
そうよ、忘れそうになっていたけど、破談書よ。さっさと破り捨てるに限るわね。まだベッドの上にあるそれへと手を伸ばそうとすると、マックスから意外なくらいに強い声で呼ばれた。
「フェリシア、今何と言った? 俺が君を嫌い? だから破談にしたいと?」
「そうですけど……」
彼はどうしてか非常に険しい顔をしている。
「俺は君が嫌いだとは一度たりとも言った覚えはないんだが? どこから聞いた話だ?」
あなたのこれまでの態度で一目瞭然でしょうに。ホント何を言い出すんだか。密かに腹を立てていると彼は落ち込んだように声を落とす。
「君が俺を嫌いなんだろ。隠さなくていい。俺はそれを知っているから、だからこそ君とは居られないと思ったんだ。君を不幸にする」
「ええと何をいきなり……? 私だってあなたが嫌いだと誰かに話した記憶はありませんけど」
彼は憮然とした。嘘つきめと言いたげな目をして。
「それまでは嫌われていると微塵も感じた事はなかったのに、君の演技力は凄いよな」
「はあ? ですから何ですかそれ、皮肉にしても意味不明です。私はあなたを好きなんです。嫌いなんかじゃありませんよ。そっちこそどこから聞いてきたんですか?」
「君が言っていたのを直接この耳で聞いたんだよ」
「それはいつです?」
いくら関係が拗れていたとは言え「嫌い」だけは言えなかったのよ。
「まさか、あなたを好きな誰かが私の声を真似て言って仲を引き裂こうとしたとか?」
だとすればその卑劣な目論見はほとんど成功している。
「違う。君本人だよ。数年前の舞踏会で、君が友人と休憩室で話しているのを偶然聞いた」
「ええ? 休憩室?」
益々成り済まし疑念が強くなる。
「私、休憩室では基本的に恋バナしていますけど、マックス様の話題になるのは極々稀ですよ」
「もう律儀に様を付けて呼ばなくてもいい。君が友人の前では俺をマックスと呼び捨てにしているのは知っているからな」
「え……呼び捨て、ですか?」
「そうだ。躊躇いのない声だった」
あー、何か原因がわかったかも。
「確かに私は友人とのお喋りの際にはマックスと呼び捨てにしていますね。ですけどマックス様、それはあなたじゃなくて主人公マックスの事です。仮にあなたの話題を出したとしても様を忘れたりなんてしませんよ」
「どういう意味だ? 俺と同じ名前の男と親しいのか?」
より不機嫌な面持ちになる彼の追い付いていない理解に私はこれでどうだと言葉を投じる。
「そのマックスは、私の読んだ恋愛小説の中の登場人物です」
彼は怪訝にする。
「私は友人にはよく小説の感想を話すんです。たぶんその時もその手の話をしていたんじゃないですか? 読破した中には嫌いなマックスもいましたから」
「……それは、本当に?」
「本当にっです! お疑いなら友人にも訊いてみて下さい」
すっかり毒気の抜けた彼の胸中には一体何が渦巻いていたんだろう。
「一度ちゃんと言っておきますけど、私はマックス・エバンズ様、あなたが真実心底好きなんですからね!」
「フェリシア……?」
ここでマックスは失念していた何かを思い出したかのように瞬いた。
「そうだ、惚れ薬は抜けたはずなのにどうして……」
「ああもうわからない人ですねえっ、ですから惚れ薬とは関係なく私がマックス様をお慕いしているからですよ。私が薬を呷ったのは、私は完全に嫌われていると思っていましたし、嫌いな女に付きまとわれたらどんなにか嫌でしょうねーってあなたへの意趣返しのつもりだったんです」
「……時々、君は割といや結構いやかなり無謀だよな。こんな風に泥棒宜しく人の家に侵入するのも普通はしない」
彼はどこか照れたようにじっと私を凝視する。
「こんな夜更けに俺の所に来たのはやはり、夜這い……」
「ごっ誤解です! 夜這い発言は確かにした覚えがありますけど、私が今夜来たのは破談書を破棄するためですよ!」
「ああ、これか」
「あっ!」
彼は私が取ろうとしていたそれをひょいっと横取りするとしげしげと眺め下ろす。
「あの、マックス様、それをこちらに渡して頂けないでしょうか?」
「俺もこれをどれ程破り捨てて焼き捨ててしまいたいと思った事か」
「え? あなたが?」
「フェリシアのためだと何度も何度も自分に言い聞かせて耐えていたんだ」
「あのーマックス様、私のためと言うのはどういう意味でしょう?」
きょとんとしてしまった私へと彼はもどかしさを滲ませた怨じるような目を向けてくる。どうしてそんな目をされるのかわからない。
嫌われてはいないのはわかったけど、常識のない迷惑な娘だと腹を立てられているのかもしれない。
「フェリシアは、婚約解消を取り消しにして後悔しないのか?」
「しません。私はマックス様が好きですから」
「本当に薬のせいではなくて、君の本心なのか?」
「そうですよ」
「副反応が出たわけでもなく?」
「あの店主さんは少し変人ですけど、品物への誠実さは誰よりある方のようですから、彼女が言及していないのならそう言ったものもないと思いますよ」
「……まあ、そうだな。なら本当にフェリシアは俺を嫌いではなくて、全くその逆なんだな?」
「まだ言うんですか? そうですと言っているじゃないですか」
彼は何をそんなにもしつこく確認したかったのか、やけに表情が弛んでしまっている。
「ははっそうか。そうなんだな」
この人ってば頭のネジが何本か外れでもしたの?
何が可笑しいのかくすくすくすと笑い続けている。不気味だわ。
「あの、今更ですけどご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「迷惑?」
「夜更けにお騒がせしました」
すごすごと頭を下げると彼は「あー」と合点したように唸った。
叱責も覚悟していると、ビリビリビリと紙を破る音が聞こえてきて耳を疑った。
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