第5話 飲まされた中和薬
翌日も同じように公園ベンチで一緒した。
そこでは何とマックスは私の催促に応じて肩に手を回して抱き寄せてくれたの。大好きな男性の大きな掌に包まれる肩にほとんどの神経が集中しているみたいだった。
「ああ至福にまみれて死にそう。でも本望~」
独り言だったけど、マックスはきちんと聞いていて、私の口に昼食と言うかデザートと言うかフルーツサンドを押し込んできた。
「縁起でもない口を叩いていないで、君もしっかり食べろ。大体な、死なれたら困る」
「あー、不審死だと色々と手間がかかりますしね」
「そうではなくて、君に会えなくなるのが嫌なんだ。少なくとも俺より先には死んでくれるなよ?」
「てっ亭主関白……っ」
でも、彼は亭主じゃないし亭主にもならないんだろう。
どうにか彼の気持ちを翻す方法はないかなあ。
自分の考えに耽る私はさぞかしアホ面だったに違いない。暫くしてからハッと我に返って羞恥を圧し殺してそろりとマックスを見やった。
ところが、彼もらしくなくベンチの前を通り過ぎる人々をぼんやり眺めていた。だけど私程にはぼんやりしていなかったのか横目でこっちを一瞥すると噛み締めるような口調で言う。
「フェリシア、明日からはもう俺達は婚約者ではなくなるな」
わかっていたけど考えないようにしていたのに。
「そっそんな事を仰らないで下さい。私は別れたくありません。うちにある破談書なんて破棄します! それで無効です!」
「書類はもう一組あるのを忘れたのか?」
「それも破り捨ててやります!」
「フェリシア、落ち着いてくれ」
マックスは困った風に私の顔を見つめてくる。
「ご馳走様、今日も美味しかったよ。ところで午後からは非番なんだが」
「何ですかもう、わざとらしく話題を変えて!」
こっちは大真面目なのに、と腹が立って頬を膨らませた。
「屋敷まで一緒に乗って送って行きたいんだが、どうだろう?」
ふ、ふーんご機嫌取り? 点数稼ぎ? まんまと稼がれちゃいますよ!
そんなわけで承諾した馬車では言うまでもなく彼の隣にべったり寄り添った。
体の片側に大好きな温もりと匂いを感じながら明日からも変わらない……のかは正直わからない彼の態度に不安になる。
婚約者という位置付けがなくなれば、この端正な横顔はまた嫌悪に大きく背けられるのかもしれない。その時どれ程惚れ薬は私の背を押してくれるだろう。
「あのなフェリシア」
静かな問い掛けに我に返る。考え込むあまり無口になり不審に思われたのかもしれない。
「何、ですか?」
「――中和薬ができた。今持ってきてある」
公園のベンチででも話はできたはずだ。なのに彼は狭い馬車で話を切り出した。公共の場所だと耳目があるからなのと、私がはぐらかしたりベンチを立ってその場から逃げたりできないようにを考慮したのかもしれない。
ええそうね、間違ってないわ。私はムカついて立ち去ったかもしれない。
「飲みませんよそんな物。飲んでも何も変わりません」
「変わらないならどうか飲んでくれ」
マックスは懐から小瓶を取り出してその口を開けると私へと差し出してくる。
「嫌です。またゲロ不味いに決まってます。お昼食べたばかりなのに吐いたら勿体ないじゃないですか」
つーんとしてやれば、彼も頑固にも退かない。
「フェリシア、飲まないと後悔するから頼んでいるんだ。どうか飲んでくれ。味は店主にイチゴ味にしてもらったから不味くはないはずだ」
「イチゴ……。本当に不味くないのか味見して確かめたんですか?」
「いや、してないが……」
「ならして下さいよ」
「俺が飲んでも無意味だろうに」
「無意味なら飲んでも構わないでしょう?」
意地悪かと思ったけど、そう言わずにはいられなかった。こうして仲良くなったように見えて、その実彼は私を嫌いだ。渋々薬の効果のある間だけ、と付き合って我慢している彼はどうしても私に中和薬を飲ませたいんだろうけど、飲んだところで真面目に無意味。
この気持ちは薬で作られたわけじゃないから消えないもの。
「それ、捨てて下さい。私は惚れ薬を中和する必要はないって言ってるんです。薬とは無関係にあなたが好きなんですから」
「その思考こそが薬の暗示効果なんだよ」
彼は飲めと私の手に小瓶を無理やり握らせてくる。
「違いますよ。ですから要らないと言ってるんです!」
構わず手を払った。口を開けていた小瓶の中身は車内の床にぶち撒けられて染みを作る。
「あ、謝りませんからっ」
「こうなるかもしれないと思ったよ」
マックスはやや深い溜息をつくと、何ともう一本小瓶を取り出した。
「予備を作ってもらっておいて正解だった」
「呆れた……。それもどうせ無駄になりますよ」
「どうかな」
何か引っ掛かる言葉に怪訝にした直後、彼が小瓶を呷った。
仰天する間もなく彼の方にぐいと後頭部を引き寄せられて見る間に互いの顔が近くなる。
それを意識する前にもうキスされていた。
強引に薬を流し込まれて私の喉がごくんと音を立てて動く。確かにイチゴ味で不味くはなかった。
驚きにフリーズして目を見開く私の文字通りの目の前にあるマックスの瞳が閉じられる。
……これは確実に薬を飲ませるのが目的なんでしょう?
なのにどうして情熱的な深い口付けをされているんだろう。
イチゴの余韻がまだ残るうちにとでも言うように、何度も何度も唇が離れては合わさる。
腕で押して拒絶を示してやめさせるべきなのに、私の中は渇望すらしていた行為に悦びを覚えて震えた。自身の甘くてほろ苦い欲望と理性に翻弄されながら、まるで渇きを満たすかのように猛追する彼の唇を受け入れる。
マックス・エバンズ、愛しい人。あなたはどうしてこんな、真似……を……?
中和魔法の弊害なのかくらくらして意識が薄くなっていく。
顔を離した乱れた息遣いが告げる。
「フェリシア、済まない。目が覚めたら、君はもう自由だから」
自由……? どういう、意……味……――
完全に落ちる間際、最後に彼から強く抱き締められたような気がした。
明るいシャンデリアに煌めく沢山の銀器や金縁の食器達。皿の上には各種の美味しそうな料理が盛られていて嗅覚を刺激するだけじゃなく視覚的にも鮮やかだ。
舞踏会は始まっている。
十四歳で社交界デビューして先日十五になったばかりの私は、決してとびきり優雅じゃない動きだけど優しくて真面目な婚約者マックスとのダンスを済ませ、同じくダンスを終えた友人令嬢とお喋りに興じている。彼女も彼女の理由でパートナーとは別行動。
マックスも王宮兵士の若手有望株として挨拶したりされたり、或いは彼の友人と談笑したりと社交の場では大体忙しいから、私は彼の邪魔にだけはならないようにと友人と大体こうして休憩室の一つで過ごしていた。
別行動すると言い出した当初マックスはどうしてか懸念を示したけど、それも婚約者としての何の変哲もない責任感から出たものだろう。
私がこの友人令嬢と過ごすとわかってやっと表情を和らげ承知してくれたのよね。その頃はマックスとも普通に会話もしてダンスもして人並みには親しかった……とは思う。
少なくとも嫌われているなんて思いもしなかった。
とにかく、休憩室に軽食を運ばせての談笑は大体恋バナ。まあ私の場合それは専ら恋愛小説談義ね。
私がロマンス作品好きなのは他の友人達も知っている。だけどとりわけ男性主人公の名前がマックスって作品を好んで集めて読んでいるのまでは知らない。ああ勿論他の名前のも読むけどマックス作品最優先なの。
ただ、この幼馴染みの友人は唯一私のおかしな偏執趣味を知っているから繕う必要はなかった。
「あっそうだ、実は私また新しい小説を読んだの」
「今回もヒロインの相手役の名はマックス?」
素直に頷くと友人は些か呆れたように目を細めた。
「本当にフェリシアは大好きよねえ~、某マックス氏が」
「本人にはこんな事しているって絶対言わないでね。引かれるもの。まあそれはさておき今回の私の感想を聞いてくれる?」
気恥ずかしさ満載だった私は気分一新と小説の話に戻った。こんな下らない話を中座もせず聞いてくれる友人は生涯の宝だ。
彼女は基本的には科学書を好みベタベタ甘い恋愛ものをほとんど読まないからネタバレをしても何の問題もなく、私はやや興奮気味に劇的な胸の高鳴るストーリー展開を話して聞かせた。
「全くフェリシアも病的よね。その男に実際の婚約者を重ねながら読んでいるなんて」
この友人は歯にドレスの一枚も着せず結構ズケズケと物を言うから、多人数でのお茶会じゃ会話の途中で彼女と衝突する他の令嬢も少なくない。私は裏表なしのそこが好ましいと思うけど、感じ方は人それぞれだ。
「そこまで重ねているわけじゃないけど、ドキドキするシーンだと勝手にああもし現実がそうだったら~って妄想はするかな。真面目な彼はとても優しくて親切だけど恋愛的には全然甘くないんだもの。物足りないと言うか何と言うか」
「ああ、欲求不満?」
「そうそれ!」
ふう、と嘆息する。
「ただ、今回のは恋愛だけじゃなく推理仕立てのストーリーそれ自体は良かったんだけど、正直に言ってマックスが駄目だったのよね。どうしてこんなボカやる男なのってムカムカした」
「ふうん、マックスならどんなマックスでも良いわけじゃないんだ?」
「それはそうよ。これまで色々見てきたけど初めて思ったわ。――マックスが嫌いって。こういう男は生理的に無理って」
その時、ガタリと部屋の扉の方から音がして、私と友人はそっちを見た。
だけど変わりはなくて訝りを抱きそうになった矢先、扉を開けて見知らぬカップルがイチャイチャしながら入ってきた。
先客がいるとは思わなかったらしくびっくりしている。
気まずい微妙な空気が流れた。
「ねえ、そろそろ私達連れと合流した方がいいんじゃない?」
友人からそう言われて室内の柱時計を見て、案外お喋りしていたんだって知った。いつもなら帰ろうとマックスか友人のパートナーのどちらかが迎えに来ている頃合いだった。私はそうねと同意して椅子から腰を上げる。
気まずさを払拭しカップルに部屋を譲るのにちょうど良かった。友人はそこも見越して促してきたんだろう。
会場に戻った私も友人もそれぞれの相手とまたペアになって、帰りの馬車へと乗り込んだ。
その日は何か嫌な事でもあったのか、マックスが奇妙なくらいに喋らず静かに落胆していたように見えた。
ああそう言えば、その辺りからだったかもしれない。
彼との距離ができ始めたのは。
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