刀を失くした大道芸者 六
侵略者のお兄ちゃんとは、随分と古い呼称で呼んでくれる。
それは今よりもずっと昔、それこそ惟臣という名でもなく、この肉体でもない時に何度も投げかけられた呼称であった。
惟臣の横をチラチラと横目に人が行く。それはそうだ。空気に向かって拳を突き立てている姿勢で固まる男など奇異、滑稽以外に何がある。
事実——。
「何やってんだよ、お前」
菓子が包まれた竹の葉を片手に、兄貴が訝しげに惟臣を見下ろしていた。
この態勢が少しだけ恥ずかしくなってきた。
惟臣は上体を起こすと襟を正し、一息を入れた。
「ちょっと怪しい影がひょいと過ったから、つい反射的に」
「……猫か、お前は」
兄貴の疑わしい眼差しは薄れやしない。眉間のしわが、気持ち、深くなった気がする。
恐らくは惟臣の奇行の原因が寝不足にあるのではと思っているに違いない。昨夜のことで寝付けずに夜を明かしたせいで、今朝、顔を合わせた時と同じ目を兄貴はしている。朝飯を食べて幾分か持ち直したが、兄貴の中で惟臣の寝不足事案は解決していなかったようだ。
「お前、今日はもう上がれ」
仮説だった兄貴の思惑は、見事に確定であった。
「いいって。大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ。こっちのことは気にするな。どうせ今日も人探しだけで終わる」
「だとしても、手紙は……」
桃苑の旦那に会わなくすむかと仄暗いわがままが首をもたげる。しかし、藤の旦那からはきちんとお届け賃をもらっている。ならば勤めを果たさなければという思いが自我を押し込める。
「手紙は俺一人でも届けられるだろ。馬鹿にすんな。お前はとっとと
兄貴の妻に面倒を見てもらえとまで言わてしまう始末。
拳で空振りをしていた奇行はさて置いて、そんなに顔色が悪いのだろうか。
「姐さんの手まで煩わせるには」
兄貴には今年から学所に通い出した息子と、最近歩けるようになった娘がいる。兄貴たち家族は表長屋に住んでいるから、惟臣がお邪魔したとて窮屈ではないが、子供二人の面倒を見る姐さんに、元服を果たしている男の面倒まで見せるのは申し訳なさと羞恥が湧くというもの。
遠慮を申し出ようとする惟臣に、しかし、兄貴は真剣な面持ちで退こうとはしなかった。
「いいから、伊音の所にいろ」
有無を言わせない気迫に、考えるよりも早く首を縦に振っていた。
それに満足したように兄貴も頷く。そして反故にするなとばかりに肩を強めに叩かれた。
その時、鶏旦域の外れにある寺の鐘が鳴った。太陽は中天に昇ったのだ。
「ああ、昼か。んー、となると——前言撤回だ、惟臣。先に手紙の配達に行くぞ!」
「えー」
思わず押し込めたわがままな本音が漏れた。
兄貴は惟臣の漏れた本音を一切無視し、惟臣の腕を掴むと歩き出す。
引っ張られた惟臣は、知らない内に足へ相当力を込めていたらしく踏み出そうとした足がうまく動かずつんのめる。転けそうになるのをなんとか踏みとどまるも、兄貴の眉間のしわが、見間違えではなく、一本増えた。
兄貴の口がゆっくりと開いていく。
これはあれだ。今夜は泊まっていけという提案という体の命令がくる前触れだ。兄貴に拾われてすぐの頃、生活が困窮しても頼れなかった惟臣に、剛を煮やした兄貴が自身の家に引っ張って行った時の顔である。
こうなった兄貴は問答無用である。そして、姐さんもまた兄貴と同じ性分なのである。
つまるところ、甲斐甲斐しくお世話をされる道一直線ということで。
「兄貴、急ごう」
何かを言われる前に、今度は惟臣が兄貴の腕を取り引っ張って歩き出す。兄貴が惟臣に呼びかけるが、これもすべて聞き流し、足早に人の往来を進んでいく。
幸いにも桃苑へ近づくにつれ人の影は増えていき、賑わいも増していく。兄貴の声も雑踏に紛れ始めて、ついには諦めたのか聞こえなくなった。
人波に順じて歩き続けていた惟臣であったが、掴んでいた腕がくいっと抵抗を見せたので、首を傾げた。肩越しに振り返ると、再び掴んでいる手を、自身の腕ごと引く兄貴と目が合う。
「桃苑の旦那の家はそっちじゃないぞ」
指摘されて初めて気づく、惟臣は桃苑の旦那の家を知らないという事実。桃苑の旦那と呼ばれてるくらいだから苑内にあるのだと思っていたが、考えてみると、来たこともない場所の地理など知るよしもない。
兄貴も分かっているようで、呆れた顔で手招いた。
「迷子になるなよ」
そうして、人の流れを大いに横切り妨げていく。彼が切り開いた隙間が塞がる前に、惟臣は慌てて駆け入った。
慣れたふうに人を掻き分けて進む兄貴の後を、えっちらおっちら、時々ぶつかる人に悪態をつかれながら惟臣が進むと、程なくして人波から抜け出せた。兄貴はそこから少し後戻る。
大人しくついていくと、その内、膝丈までの竹の透かし垣に囲まれた区画が見えてきた。区画の中にも桃の木が植っていて、桃苑と同じく枝の先を桃色に染め上げている。その桃の木の下は人工的に配された庭石などが認められ、溢れんばかりの人々がその区画にはいないことを鑑みても、誰かの所有地であることは明白であった。
そしてそれが十中八九、桃苑の旦那であると勘が告げていた。
ややもすれば、この区画の入り口であろう門柱まで辿り着く。
門から家屋までの道には飛び石が転々と置かれ、玉砂利がそれらの間を埋めている。道の右脇は低木が並び、左脇は庭へと伸びていた。青葉や枯れ木の季節であれば落ち着いた雰囲気になるだろうと思われる庭の出立ちであるが、今の時期、桃花爛漫では忙しない派手さしかない。加えて、家屋内から聞こえる甲高い子供たちの声がそれに拍車をかけていた。
「——子供?」
子供、いるのか、アイツに。所帯持ちなのか、アイツが。
一瞬、惟臣の中のあらゆる感情を押しのけ、素で驚愕した。もっと言ってしまえば、少しだけ相手の顔を見てみたいとも思った。同時に「いやそれはないだろ、アイツだぞ」と冷静に否定する気持ちもちらつく。
そんな惟臣の否定を、兄貴は肯定した。
「子供がいてもおかしくはないだろ。ここは佐助を預けてる学所だぞ」
ほれ、と兄貴が指差し示すのは門柱に掲げられている『桃木堂』という捻りのない、つまらない銘が打たれた板。
なるほどと納得し、アイツが所帯持ちではないことも確信して頷き、そして疑問。
「ここって桃苑の旦那の家じゃないのか?」
家の一部を学所として貸しているのか。
兄貴は首を傾げた。
「桃苑の旦那は、ここの師匠だぞ」
「……嘘だあ……」
所帯持ちかと疑った時以上の衝撃が惟臣を襲う。
ここまできて桃苑の旦那はやはりアイツではなかったということか。惟臣の勘違いであったのか。
何故ならば、アイツは、子供が嫌いだったはずだ。
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