追憶 二

 氷雨の降る夜だった。

 月は暗雲に飲み込まれ、何もかも闇に沈んでいた。この闇黒に色を差すのは、二人分の白い息と、闇よりもなお深い黒い血色のみだった。

 すでに主人を失くして久しい屋敷は荒廃が進み、もう時を置かずに自然に還っていくだろう。いや、もしかしたら、今この時に雨避けとしての役目すらも終えるかもしれない。

 闇の中、見据える先、体の真ん前に構えられた刀の、光るはずもない刃が赫々と煌めく。

 その光に照らされる人の姿をした何かが、口角を吊り上げた。覗く鬼歯は、血肉を求めるが如く、絶え間なく唾液をしたたらせる。

 対する青年は眉根を寄せ、口端を噛み締めた。腰を低く落とし、得物を握る右腕を後ろに引く。その切っ先が狙うのは奴の胸。

 一撃――そう、一撃で終わらせてやらねばならない。

 青年が息を詰める。苦渋をにじませる双眸を細め、眼前の奴から目をそらしはしなかった。

 奴はおぞましい笑みを浮かべ、毒を吐く。血涙を流し、悲哀を叫ぶ。体に刻まれた無数の傷から血を流し、許しを請う。

 ゆらりと奴が傾ぐ。

 青年は両足に力を込める。柄をぎゅっと握り締める。走り続ける鼓動を鎮めるように深く息を吐く。

 奴を殺す。殺してやる。殺さなければならない。

 一瞬迷った。刹那、隙が生まれた。

 奴がそれを見逃すはずがない。息つく間もなく間合いを詰められ――。

 にたりと笑っていた口が呆けたように丸くなった。赤かがちの目が見開かれる。脇に構えられていた刀が床板に落ちた。

 青年の胸が大きく上下する。吐き出された息は、ことさら白かった。

 奴の胸を貫き、天井を目指した切っ先が微かに震える。

 奴の膝から力が抜け、体がくず折れそうになるも、胸を貫通する刃がそれを阻む。しかし、奴は青年から顔をそむけなかった。

 青年の喉が震える。

 ゆるゆると奴の赤かがちの眼が瞼の裏に隠れていく。憤怒にまみれ、血に染まり、人とは見えないその瞳は、最後まで泣きじゃくる子供のものだった。

 青年の持つ刃が、確かに奴の命を吸い取ってしまったのだ。

 氷雨が屋根を強く打ちつける、――音が戻ってきた。

 風があばら家を吹き抜けていく、――感覚が戻ってくる。

 鉄の臭いが鼻を衝く――、鬨の声がする――、胸がざわつく――、目頭が熱を持つ――。

 現実が、迫ってくる。

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