櫛を失くした男 十二

「真之助さん!」

 チヨがまるで子犬のように叫ぶ。

「桃苑の旦那まで出てきたか」

「使いに出していたチヨがなかなか戻らないもんで。神隠しにでもあったかなあ、なんて」

「私がそんなヘマをするわけなじゃないですか!」

 チヨの足が惟臣の視界から消えた。少しだけ顔を上げれば、大門に向かって小走りに去っていく草履が見える。

「佐吉さんはまだお仕事ですか? お疲れさんですねえ」

 耳に馴染む声で穏やかな口調なのに、記憶にあるものより幾分も色が見えない。 それが余計に怖く感じて惟臣は兄貴の袂を握ったまま、彼の影にそそくさと隠れた。

 兄貴はそんな惟臣を気にした風であったが何も言わず、手を振り払うこともしなかった。

「仕事といえばそうかもしれないけど、ま、旦那と同じ理由さ。連れが戻らねえから神隠しにでもあったんじゃねえかって、探しに来ただけさ」

「後ろに隠れている坊主のことですか? 珍しい毛色をしている」

「ああ、一年前から面倒を見てるんだ。赤おにさんとでも呼んでやってくれ。喜ぶから」

 兄貴の余計な冗談に抗議をあげる余裕なんてなかった。

「ほお、赤オニですか」

 聞き馴染んだ声が、聞いたこともない底冷えのする声で兄貴の言葉を反芻する。兄貴は桃苑の旦那の変調に気づいていないのか普通にしている。周囲はそんな瑣末なことを気にしているどころではない。

 惟臣だけが肝を潰している。

 本当にアイツなのか。いや、アイツだ。アイツの気配を自分が間違えるはずがない。でも、こんな声は聞いたことがない、記憶にない――、この声を自分は浴びるのだろうか。

「……兄貴……」

 惟臣の弱々しく震える声の正体を察した兄貴がきちんと反応してくれた。

「悪い、旦那。コイツの調子が悪いらしい」

「病気か?」

「いやあ、きっと仕事をしくじったせいだ。こう見えて線が細いんだ」

「それはこの武陽では大変だろうなあ」

 冷たさは消えたのに、戻ってきたのはまた色のない上辺だけの言葉。きっと冷たくても、無心でも心が痛むだろう。厄介な質になったと自嘲する元気もない。

 兄貴は桃苑の旦那の皮肉を軽くいなし、茶屋の女将に二、三言葉をかけた。それから惟臣の腕を掴み引き歩き出す。

 大門に行くにはどうしても桃苑の旦那の横を通らなければならない。俯き続けた視界に、まずチヨの足が入った。

「大丈夫か……、ですか?」

 どもりながらチヨが気持ち優しく尋ねてくる。返せないのが心苦しいが、そのまま彼女の前を過ぎたところ、

「お前は何を探しているだ」

桃苑の旦那がはひっそりと、確信めいた響きで惟臣にそう呟いた。

 止まりかけた足を兄貴が引っ張ってくれる。桃苑の旦那に向きかけた目を自分の意志でそらし、地面を睨み続ける。

「俺も探しモノをしているんだ。お互い、鬼に喰われないようにな」

 淋しげな色が惟臣の背中を追いかけて来たが、大門で鳴らされている火打ちの音にことごとく打ち切られた。

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