櫛を失くした男 十一
息を切らせた兄貴が集う人など目にも入らないとばかり、一直線に惟臣までやって来て、膝の手をつき荒い呼吸を繰り返す。
「こっちに、女将、来て、ない、か?」
細切れにされた問いに惟臣は首を横に振る。
「兄貴、女将がいなくなったって、いつの話なんだ。夕暮れ近くに女将が呼んでいると店の者が旦那を連れて行ったんだぞ」
兄貴は顎にしたたってきた汗を拭い、深呼吸を一つ、ゆっくりと体を起こした。
「ついさっきらしい。気付いたら消えて、もしかしたらここに来ているかもしれないと」
「何故ここにいるかもしれないと?」
惟臣が口を出すより先に、隣から可憐な横槍が入る。
兄貴は今まさに気づいたと目を丸くした。
「あれ、チヨさん。何故こんなところに」
「兄貴、誰だ?」
惟臣が兄貴の袂を掴んで問う。答えようと口を開いた兄貴を遮って女――チヨが声を苛立たせた。
「そんなことより、女将が何故ここにいると思ったのですか?」
兄貴はチヨに向き直る。
「ここに女将の櫛があるかもしれないと聞かされたからな。取りに来たんじゃないかと思ったんだ」
「櫛?」
「ああ、松の旦那が女将の櫛をどこかに忘れたらしくて。うちのが探してたんだ。忘れた日に茶屋に寄ったと言ってたから、もしかしてと」
惟臣はカラの木箱を強く握る。
これは惟臣の過失ではない。けれど、櫛を見つけ出すと依頼を受け、それが手元に戻らず消失したとあれば不履行になる。依頼の失態は兄貴の責任となってしまう。
櫛が失くなってしまったことを告げたくない。黙っていたい。
ちらりと茶屋の女将と若い男を見遣る。両人、青い顔のまま、口は真一文字に引き結ばれている。
茶屋にとっても松の旦那は良い客なのだろう。手放したくないのだろう。
それは兄貴とて同じことだ。
兄貴に迷惑をかけたくはない。兄貴に嫌われたくはない。けど、これは仕事で、仕事には責任を持てと兄貴が――。
握りしめたカラの木箱がパキリと微かに悲鳴を上げる。チヨの目が木箱へ注がれる。意志の強そうな双眸が惟臣を責めているようで。
惟臣は考えるのをやめ、兄貴の袂をくいと引っ張った。
「すまん、兄貴。その櫛なんだが、失くしてしまったんだ」
そっとカラの木箱を兄貴に差し出す。兄貴は差し出されたそれを見下ろし、やはり眉間にしわを寄せた。
「失くした?」
「さっき風が吹いた時に蓋が開いて」
傍のチヨが口出ししようとするが、惟臣は小さく首を横に振り、それを制す。惟臣の仕草に、視界の端で茶屋の女将と若い男の肩が下りるのを見た。
惟臣は木箱を見下ろし静かに瞬いた。縁を指の腹でなぞる。ささくれの立っていない上等な箱だった。大事なものを守るために作られたそれが、とても哀れだと思った。
「……櫛のことは後日、旦那に報告しに行こう。今は女将が先だ。ここには来ていないんだな」
惟臣は無言で頷く。
「なら行き違いになったか……」
兄貴がぼそりとつぶやいた時だった。
「いや、行きずりの女性はいなかったな」
爽やかな青年の――聞き馴染みのある――声が降って湧いた。
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