櫛を失くした男 十

 女将は絶句し色を失った。さしもの惟臣も目を剥き、使いの男を見詰めた。

「失くした?」

 惟臣がやっとの思いで出た言葉は相手を責めるような口調で、案の定、使いの男は派手に肩を跳び上がらせ、その場で額づいた。

「昼間に松館さまの所より戻った時には確かにあったのです。女将にも箱の中身は改めていただきました」

 女将に目をやれば強張った顔であるもしっかりと首肯する。

「それからは帳簿の棚にしまっておりました。私はそこで仕事をしておりましたが、誰も棚には触れておりません。もちろん私も櫛の箱には一切触れておりません」

 使いの男の声がよく響く。

 桃の並木からほのかに甘い香りが届く。その香りを掻き乱し、せき止めるように人が足を止めだす。ざわめきに風が興じ、突風が大門に向かい花街の通りを駆け抜けた。軒を連ねる茶屋どもの戸が、障子がはずればかりに鳴る。人々は袖を引き上げて顔を守り、無意識に風下を向く。

『取ッタ! 取ッタ! 取ッタ!』

 風に力負けて倒れかけた女将を支えた惟臣の耳が若い女性の声をとらえた。はしゃぐ子供のような、とても楽しそうに弾んでいる。

『コレ誰ノ物、誰ガ追ウ者、追ウ者追ウハドンナ人』

 けれど語調がおかしい。安定しない。同じ言葉を繰り返しているのに、すべて違う音に聞こえる。雑音が混ざる。

 大風に桃の花が盛大に舞い上がった。

 人々の間に赤い着物が脱兎のごとく駆けていくのを、その目に見た。

「待て!」

 女将を座敷に残し、惟臣も駆け出した。

 夜闇にあってまばゆい花街において小柄な影は赤い着物も相まって目立つが、突風の中を駆けるがゆえに一般人の目にはとどまらないだろう。惟臣とて気を抜けば一瞬で見失う。無心に赤い着物を追いかけた。

 赤い着物はは大門へひたすら向かう。あそこを抜けられては夜闇に紛れて逃げられる。

 風を背に惟臣は足を速めた。けれど意識したところで速度は早々上がらない。舌を打つ。かつて仲間にいた足の速い者の面差しが脳裏によぎる。

 その時、

「なにごと!?」

この風切り音にも負けず劣らぬ大声を発する者が横道から飛び出してきた。

「物盗りだ! 赤い着物を追え!」

 言い終わるが早いか現れたその者は地を踏みしめ猛然と駆けた。その者の後には、中身の抜けた細長い布袋が力なく転がっていた。

「あの時の女か!」

 遠ざかっていくひよこ色の着物。女の左手には黒い鞘に収まった刀が一振り。

 惟臣は布袋を取り上げ、赤い着物と女を追った。

「門番! 盗人です!」

 どんな腹をしているのか疑問に思えるほどの声量が大門にぶつけられる。門番はハッとして振り返る。しかし棒を構え、赤い着物を視認したところで、門番の表情が固まった。棒の先が震え、足が逃げを打とうとしている。

 あれでは足止めができない。

 女もそれを悟ったのか明らかに速度を上げた。けれど追いつけない。大門まで残り僅か。

 惟臣は足を止め中腰にかがんだ。足全体に力を籠める。息を深く吸う。肺に押し込め、息を止める。

 足に留めた力を一気に解き放った。

 女との距離がぐんと縮まる。女は前ばかりを見て惟臣を見ない。それを良いことに、惟臣は彼女が手にする刀に手をかけ、問答無用にひったくった。

「すまん、女。借りるぞ」

 刀は女の手からするりと抜けた。女が盛大に「はあ!?」と上げる声を置き去りに、惟臣は今一歩踏み込む。

 赤い着物にはまだ届かない。赤い着物は動物のように四足で地を駆けている。だというのに、赤い着物の長い黒髪は四方八方にピンッと張っている。

『ドコ、ドコ、ドコ、ドコニイル』

 うら恐ろしい声が歌っている。

 異状な者。人間のなりをした異質なモノ。

 間違いない――、鬼だ。

 惟臣は腹に熱がこもるのを感じた。歯を食いしばり、踏み込む足に一層の力がこもる。一気に踏み出し、赤い着物との距離を一足飛びに無くす。間近まで迫った赤い着物の脇腹を、刀の鞘で容赦なく殴打し横に倒した。

 赤い着物がようやく止まった。横に倒れたまま腕で顔を隠す。その手には長方形の木箱が納まっていた。

「お前」

 惟臣は顔を隠している腕を蹴って払いのける。

 すると、露わになったのは頬のこけた若い女の顔。翡翠の目は弧を描き、不気味に笑む口元には八重歯が覗く。そして、額から伸びる二本の反り返る黒い角。

 惟臣の手が刀の柄に伸びる、が。

「いったい何を盗まれたんだ……、ですか? てか、刀を返してください」

 女が追い付き、惟臣の手から刀と布袋を取り返した。女は刀を大事に抱き込み、惟臣が足蹴にした女を覗き込もうとした途端。

『見ィツケタ』

 薄気味悪い笑いと共に旋風が起こり、惟臣たちを吹き飛ばした。旋風は刹那の内に失せ、赤い着物と長方形の木箱がころりと転がっているだけだった。

 惟臣が急いで木箱に駆け寄り取り上げる。

「何が入ってるんです?」

「たぶん、櫛だと思うんだけど……」

 女も近寄って来て惟臣の手元を覗き込む。

 手始めに木箱を軽く振ってみる。うんともすんとも言いやしない。蓋を開けようとして、無意味に女に目配せる。女も上目遣いに惟臣を見ていた。共に唾を飲み込み頷き合う。

 惟臣は息を吐き、ゆっくりと蓋を開いた。

 はたして、そこには何も入ってはいなかった。

「お兄さん、大丈夫ですか」

 小走りで追いついてきた女将が惟臣の背に声をかけてくる。惟臣は肩越しに女将を振り返り、手にある箱を見せつける。

「女将、旦那の櫛って、この箱に入っていたのか?」

「ええ、それです。どうしてお兄さんが……」

 いらぬ疑いを向けらえると思ったが、意外なところから助け船が出された。

「盗人が、これだけを残して消えてしまったんですよ」

「盗人?」

「そうです、盗人です。ほら、これをかぶって逃げて、風が強いのをいいことに姿をくらませたんですよ。小賢しいったらない。ね、門番さん」

 女が苛立っていますと言うように片足で赤い着物を蹴り、つらつらとまくし立てる。挙句、放心している門番へ適当に振った。門番は青白い顔で周囲をきょろきょろとし、女を否定も肯定もしなかった。

 女将は門番を見て怪訝に眉をしかめ、女に視線を戻し、ふいと赤い着物を見下ろして息を呑んだ。

「……なんで、これが……」

 女将は門番のように顔が色を失い、口元を袖口で隠している。神隠しなど噂だと言い切った女将が、目に見えて動揺していた。

 女将を動揺せしむる赤い着物を改めてよくよく観察してみれば、汚れ、擦り切れているが、精美な絵柄の施された一品であった。あのみすぼらしい人間もどきの所持品とは思えない。

 噂の花街の神隠しで消えた誰かの物を盗ったのか、あの――。

「……やっぱり、鬼か……」

 惟臣の思考を引き継いだのは、隣に立つ女であった。

「アンタ、鬼って」

「え?」

 まん丸の瞳とかち合う。知り合いにはいない顔だ。女は赤い着物の人間もどきの角を見たのか。アレを見て迷わず鬼と断じたのか。いや、女はやはりと口にした、アレを見ずに先ほどの騒動を鬼の仕業と見当付けた口ぶりではないか。

 鬼の事情を知る生身の女。そんなもの、トリミの記憶、惟臣の記憶、どちらをかき集めても一人しかいない。

 前世にトリミと共に盗賊討伐に赴き、地獄の沙汰を受けたのはトリミを含めて四人。もし、この女が記憶に知る妹分の生まれ変わりであれば、この場にいられない。合わせる顔がない。

 三人を見捨て、見殺しにしたトリミに、妹分の舌鋒を流せる自信はない。

 女が抱き込む刀に目が移る。黒い鞘から鍔へ、そして肝心の柄へと目線が上ったところで、

「ここにいたか、惟臣! 一大事だ! 松館の女将が失踪した!」

遠くから夜闇を裂いて、兄貴の声が鼓膜と脳を震わせた。

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