櫛を失くした男 九
女性の姿が米粒ほどの大きさになってから、惟臣はようやく足を進めた。しかしその足取りはとてもゆっくりである。惟臣としては早く寒さから逃れたいのであるが、万が一にも追いついてしまってはことだ。慎重に慎重を重ねての行動であった。
草履の底で地面をねぶるようにじりじりと道を行く。太陽はもはやその頭を少しばかり残すだけで、輝かしいその御体を地に沈めてしまった。影が闇に溶けていく。
目指す先の提灯明かりがまばゆい。闇からぬるりと人影が現れ、赤いともし火に惹かれて惟臣より早足に光を目指す。
花街の光に近づくにつれ、大通りで感じた冷たい風はかぐわしい香りの染みた温もりのあるものに変わり、闇は壁際へと押しやられる。しかし、人影はあまり増えることがなく、少なからず神隠し事件が影響しているようだった。
花街の大門を抜け、出迎えてくれたそれに惟臣は目を見張った。
眼前に、桃の花が咲いている。満開に、今が盛りと、提灯の光を余すことなく受け、輝くように咲き乱れていた。
息がつまった。足も止まった。心臓が大きく跳ねる。
「どうかしましたか?」
門番が惟臣に駆け寄り気遣わしそうに声をかけた。
「……いや、桃の花が、綺麗だったもんで」
空笑いで応対してみれば、門番は気にしたふうもなく、むしろ納得した面持ちで桃の花に目を向けた。
「見事なものですよね。桃苑の旦那が毎年贈ってくれるんですよ」
もたらされた説明に生返事をするしかできず、立ち止まってしまったことを謝り、ついでに松の旦那が訪れたという茶屋の場所を聞き、その場を辞した。
茶屋は桃の並木の前にあるために、いやでも目に入る。ほのかな甘い香りが無遠慮に鼻に入り込む。
惟臣が武陽に出府してから半年は経つ。
兄貴に連れられ、仕事として花街にも一、二回出入りをしたが秋の初めであったから、この通りには紅葉の木が並んでいた。その時、兄貴は季節ごとに入れ替わる言っていた。
まさか桃の木もあるとは思わなかった。そもそもどうして花街に桃を贈る必要があるのか。少し歩けば武陽一と謳われ、将軍すら訪れると噂のある桃苑があるというのに。桃苑は小高いところにあるから遊郭からでも残滓くらいは見えるだろうに。何故に贈った。馴染みの遊女でもいたのか、桃苑の旦那。
見も知らない、噂にしか聞かない桃苑の旦那を心の中で詰る。
桃の花が悪いわけではない。分かっている。この感情は後ろめたさから来ている八つ当たりでしかない。
惟臣は鼻の奥でくすぶる香りを押し出し、極力口から息をしながら、足早に目当ての茶屋へと急いだ。
人のまばらな通り同様に、開け放たれている茶屋も開店休業を強いられているところが少なくないようであった。店先で無駄話をして時間を潰している茶屋の人間が多い。顔をしかめたり、困り顔で腕を組んだりと、泣きわめく閑古鳥に頭を悩ませているようだ。
惟臣は物寂しい店々を通り過ぎ、目当ての茶屋に到着した。そこも周囲の茶屋と変わりなく、ひっそりと提灯の明かりの影に浮かんでいた。
「ごめんください」
気立ての良さそうな中年の女将が、がらんどうの座敷に座って店番をしていた。
惟臣が声をかけると女将は柔和な顔を傾け、
「おいでなんせ」
と、人懐っこく甘い声色で迎えてくれた。にこやかに細められた目は抜かりなく、上から下まで品定めをしている。
その目に惟臣はたじろいだ。見た目に自信などないのだ。
なぜならば、花街まで来るとは思っていなかった。今日の午後とて人探しと言っていたので、年季が入り端々に擦り切れが見え始めた淡茶の無地の着流し姿である。赤茶の髪も総髪であるから、見ようによっては浪人。とてもではないが金がありそうには見えない。
女将の顔色は変わらないのが、胸中は穏やかではないだろう。
追い返されるだろうか。一抹の不安がよぎり、惟臣は女将が口を開くよりも早く、懐から松の旦那から託された手紙を差し出した。
「俺は桃苑町で何でも屋をやっている惟臣という。松館屋の旦那の使いで来たのだが、昨夜、旦那が忘れ物をしなかったか?」
女将は胡乱げに惟臣を見詰めながら手紙を受け取り、眉間にしわを寄せてそれを開く。
しばし黙読し、それから惟臣を上目に見遣る。そしてもう一読。ぱたぱたと手紙を閉じて顔を上げた時には、先ほどまでの警戒さはなくなっていた。
「ええ、お手紙に書かれていた蝶のつげ櫛でしたら、確かにお預かりしておりますよ」
女将が奥から若い男を呼び、例の櫛を持ってくるように頼めば、男は足早に裏方へと引っ込んだ。
惟臣はようやく一つ息付けた。
「昼間に届けさしに行ったのですがね、松館さまがお留守でしたようで。昨今は物失せが多いので、奉公人に預けるのも忍ばれましてね」
「ちょうど俺のところに櫛の捜索依頼をしに来た時かもしれないな。行き違いか……、松の旦那、本当に運がない」
「運をすべて商売に振っていらっしゃるのでしょう」
女将は袖口で口元を隠し上品に笑う。その気はない惟臣であっても、彼女の艶やかさに、頬が熱くなるのを感じ、意味もなく胸をかく。
少し待ったが使いの男が戻ってこないので、女将に勧められ彼女の隣に腰を下ろす。足を組んで、いやいやながら桃を眺めていた。
「やっぱり人が少なくなっているのか?」
「ええ、減ってますねえ。例年なら花見客も来て、もっと賑わっておりますのにね」
何も言わなくとも茶が出てきた。探すのに時間がかかっているのかもしれない。
出された茶にひとつ口をつける。冷えていた体が胸の辺りから温かくなる。
「そういえば、噂に聞いたんだが……」
惟臣は茶器を置き、女将を手招く。女将がおしろいの香りがするほどに、音もなく膝を寄せてくる。
惟臣は女将の耳に手をかざした。
「花街で見習いの神隠しがあったとは、本当か?」
女将の顔色は変わらなかった。表情一つ動かない。惟臣から体を離し声を出さずに笑う。
「声を細められるから何事かと」
「噂なのか?」
「ええ、ええ。ここは兎月と違って、なかなか警備が緩いもんでしてね、脱走ですか、よくあるんですよ」
「松の旦那は神隠しがあったから、火切をしてもらったと言ったぞ?」
女将もお茶をすすり、一息つく。
「商人さんは、ほら、縁起を気にしなさるでしょう? そうなもので、ここでもしばらくは火切をしますかって。神隠しなんてありゃしませんよ。噂、噂」
そして女将はまた茶をすする。
「松館さまは誰かにからかわれたんですよ。どこのどなたか存じませんが、変なことは言わないでほしいですわあ」
女将は表情を一つも動かさず、言葉も淀まず震わさず、何食わぬ顔で淡々と言いのけた。堂々とした姿が不自然だった。
惟臣がジッと見据えるものだから、女将が首を傾げる。惟臣はいやと首を横に振り、少しぬるくなった茶を飲み干した。
「しかし、来ないな」
女将は使いの男が引っ込んだ板戸を見遣る。
「来ませんねえ……」
出しづらいところにしまったのだろうか。
「ちょっと見てきますわあ」
女将が物静かに立ち上がるのと、裏方へと続く板戸が控えめに開くのはほぼ同時。
女将越しに惟臣も板戸に視線を投げると、青い顔をした使いの男が、板戸を寄る辺のようにギュッと握り、泣き出しそうな顔で震えいた。
「申し訳ございません……、櫛が見当たらないのです……」
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