櫛を失くした男 九

 女性の姿が米粒ほどの大きさになってから、惟臣はようやく足を運んだ。しかしその足取りはとてもゆっくりである。万が一にも追いついてしまうことがないように、慎重に慎重を重ねての行動であった。

 草履の底で地面をねぶるようにじりじりと道を行く。太陽はもはやその頭を少しばかり残すだけで、輝かしいその御体を地に沈めてしまった。影が闇に溶けていく。

 目指す先の提灯明かりがまばゆい。闇からぬるりと人影が現れ、赤いともし火に惹かれて惟臣より早足に光を目指す。

 遊郭の光に近づくにつれ、大通りで感じた冷たい風はかぐわしい香りの染みた温もりのあるものに変わり、闇は壁際へと押しやられる。人々の足はゆるやかに、昼と見まがう騒ぎが響く。

 遊郭の大門を抜け、出迎えてくれたそれに惟臣は目を見張った。

 眼前に、桃の花が咲いている。満開に、今が盛りと、提灯の光を余すことなく受け、輝くように咲き乱れていた。

 息がつまった。足も止まった。心臓が一度、大きく跳ねる。

「どうかしましたか?」

 門前の男が惟臣に駆け寄り気遣わしそうに声をかけた。

「……いや、桃の花が、綺麗だったもんで」

 空笑いで応対してみれば、男は何も気にしたふうもなく、むしろ納得した面持ちで桃の花に目を向けた。

「見事なものですよね。桃苑の旦那が毎年贈ってくれるんですよ」

 もたらされた説明に生返事をするしかできず、立ち止まってしまったことを謝り、ついでに松の旦那が訪れたという茶屋の場所を聞き、その場を辞した。

 茶屋は桃の並木の前にあるために、いやでも目に入る。ほのかな甘い香りが無遠慮に鼻に入り込む。

 武陽に出府してから早三年。兄貴に連れられ、仕事として遊郭にも出入りしたことはあったが片手で足りるほどの回数であったし、時期がずれていた。だから、茶屋前の並木は桜だと勝手に思い込んでいた。

 まさか桃の木だとは思わなかった。そもそもどうして遊郭に桃を植える必要があるのか。少し歩けば武陽一と謳われ、将軍すら訪れると噂のある桃苑があるというのに。桃苑は小高いところにあるから遊郭からでも残滓くらいは見えるだろうに。何故に贈った。馴染みの遊女でもいたのか、桃苑の旦那。

 見も知らない、噂にしか聞かない桃苑の旦那を心の中で詰る。

 桃の花が悪いわけではない。分かっている。この感情は後ろめたさから来ている八つ当たりでしかない。

 惟臣は頭を横に振り、極力口から息をし、足早に目当ての茶屋へと急ぎ歩を進めた。

 神隠し騒動の影響か遊郭内にも人は少ない。開け放たれている茶屋の座敷に人影がないところも多く、惟臣が訪れた茶屋もまさしくそうであった。

「ごめんください」

 がらんどうの座敷に座って、気立ての良さそうな中年の女将が一人で店番をしていた。

 惟臣が声をかけると女将は柔和な顔を傾け、

「おいでなんせ」

と、人懐っこく甘い声色で、にこやかに細められた目で上から下まで品定めされながら出迎えられた。

 惟臣は遊郭まで来るとは思っていなっていなたために、淡茶で無地の着流し姿である。赤茶色の髪をした普通の人である。

 女将の顔色は変わらないのが居た堪れない。彼女の胸中は穏やかではないだろう。

 惟臣は出かけた溜め息を飲み込んで、懐から松の旦那より受け取った手紙を女将に差し出した。

「俺は桃苑町で何でも屋をやっている惟臣という。松館屋の旦那の使いで来たのだが、昨夜、旦那が忘れ物をしなかったか?」

 女将は胡乱げに手紙を受け取り、眉間にしわを寄せながらそれを開く。

 しばし黙読し、それから惟臣をもう一度見上げた。そこには先ほどまで見せていた一見さんに対する厳格さはなくなっていた。

「ええ、お手紙に書かれていた蝶のつげ櫛でしたら、確かにお預かりしておりますよ」

 女将が奥から若い男を呼び、例の櫛を持ってくるように頼めば、男は足早に裏方へと向かった。

 惟臣はようやく一つ息付けた。

「昼間に届けさしに行ったのですがね、松館さまがお留守でしたようで。昨今は物失せが多いので、奉公人に預けるのも忍ばれましてね」

「ちょうど俺のところに櫛の捜索依頼をしに来た時かもしれないな。行き違いか……、松の旦那、本当に運がない」

「運をすべて商売に振っていらっしゃるのでしょう」

 女将は袖口で口元を隠し上品に笑う。その気はない惟臣であっても、彼女の艶やかさに、頬にわずかばかりの熱が上がるのを感じ、意味もなく胸をかく。

 女将とぽつぽつと世間話をしながら使いの男を待った。もう少しかなと思いながら待った。勧められ、女将の隣に座って茶をすすりながら待った。桃苑の旦那が最近よく来てくれると嬉しそうに顔を赤らめる女将の横で待った。いやいや桃を眺めながら待った。

「来ないな……」

「来ませんねえ……」

 来ないのである。

「ちょっと見てきますわあ」

 女将が物静かに立ち上がるのと、裏方へと続く板戸が控えめに開くのはほぼ同時。

 戸の引かれる音に惟臣が振り返ると、青い顔をした若い男が、板戸を寄る辺のようにギュッと握り、泣き出しそうな顔で震えて呟いた。

「申し訳ございません……、櫛が見当たらないです……」

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