櫛を失くした男 八
茶屋への連絡の手紙をしたため、べそをかきそうな顔で何度も何度も振り返りながら、迎えに来た少年に手を引かれて松の旦那は連行された。
そんな彼の姿が見えなくなるまで惟臣と店主は見送り、影すらもなくなったところでお互いに顔を見合わせ苦笑い、頭を下げて別れた。
惟臣は鶏旦の遊郭へ足を向けた。
まだまだ春の先駆け、日の沈みは早く、知らない内に影が長く伸び始めている。大通りを行く人々の足も速くなっている。近頃は神隠しが多くなっているために、暗闇を恐れている者も少なくない。
惟臣は大通りの行き当たり、さらにその奥にそびえる影に潜む山をぼんやりと見晴るかして歩いていく。茜の空に厚い雲が垂れ込め、カラスの群れが散る。吹き抜けるどこか冷たい風に眉をしかめた。
冷たい風は好きではない。冷たい風に乗る雨も苦手だ。氷混じりの雨はとても嫌いだ。
何も下げていない左の腰に手をあてて、あるはずもない物を撫でる仕種をして、手のひらが感じる空気に落胆する。
耳の奥によみがえる氷雨の音をかき消すように、乾いた地面を乱暴に踏みつけ走り出した。
今更あれを探し出してどうするのだろうと思う。返そうにも返す相手の居所など分からない、分かったところで会いたくない思っているくせに。
頭の中で二振りの刀が交差する。
――やったな、トリミ。
ずっとずっと昔に聞き馴染んだ声がする。笑っていた。刀を賜った時は確かに笑い合って、誇らしかった。
それなのに、その誇りで、笑った奴を貫いてしまったのは――。
「きゃっ」
左肩に微かな痛みを伴って衝撃が走った。足が自然と止まる。呆然としていた頭を置き去りに、視線は自然と足元へと落ちる。
そこには黒い艶やかな髪を玉結びにした女性が四つん這いになっている姿があった。正確に言ってしまえば、右腕は何かを抱えているので、腕一本と足膝二本で体を支えている。
前をきちんと見て走っていたと思っていたのだが、彼女の様子からして惟臣が背後からぶつかってしまったのだろう。
「悪い。だいじょう……」
惟臣は腰を折り、女性に手を差し伸べて言いかけた言葉を飲み込んだ。
女性が惟臣を振り返り般若が如き顔で、八重歯も剥き出しに睨みつけてきた。少し開いている口から瘴気を吐いていても不思議ではない気迫。
そこまで怒るのか。
顔を引きつらせ、唾を飲み込みながらも、惟臣は勇猛に口を開いた。
「すまなかった。俺がちゃんと前を見ていなかったばかりに」
言い訳がましいが嘘をつくよりかはマシだろうと素直に謝罪する。そのお陰か、女性の顔からは不自然なほど素早く剣は消え、柔和でおしとやかな、先ほどとは真逆の表情が現れた。
「いえ、荷物は無事だったので」
涼やかな声で答え、惟臣の手を取る。
女性は着物についた砂や埃を手で適当にはたき落とし、一度しゃがんで細長い布袋を手にして立ち上がる。
「それでは、わたしは急ぎますので」
細長い布袋と書物――転倒時に守っていた物だろう――を大事そうに抱え、女性は軽く頭を下げて、さっさと惟臣に背を向けて歩き出していた。
彼女の進む先がどうにも惟臣と同じようなので、惟臣はしばらくその背中を見送ることにした。気の強そうな女性であったし、後ろをつけて因縁をつけられるのも面倒だ。
それにあの女性、惟臣より頭一つ分低く、溌溂とした黒い目が愛らしくはあったが、握った手の皮が厚く固かった。体を引っ張り立ち上がらせた時もよろめくことはなく、人並みよりは体幹がよさそうであった。護身術やら何やらをやっているのではなかろうか。
夕日の色に染め上げられた淡い着物がどんどん遠ざかっていく。ひょこひょこと揺れる玉結びの髪が、時折布袋へぶつかっている。
アレの中身が木だろうが、竹だろうが、鉄だろうが、関わらなければいいのだ。
触らぬ神ならぬ、触らぬ閻魔に祟りなしである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます