櫛を失くした男 八

 そのようなわけで、松の旦那はおかみさんの元へ帰らざるを得なくなり、惟臣が一人で茶屋に向かうこととあいなった。

 茶屋に伝手のない惟臣のため、松の旦那はのろのろと茶屋への連絡の手紙をしたためてくれた。それからべそをかき、何度も何度も振り返りながら、迎えに来た少年に手を引かれて自身の店へと連行されていったのだった。

 そんな彼の姿が見えなくなるまで惟臣と店主は見送り、影すらもなくなったところでお互いに顔を見合わせ苦笑う。

 惟臣は藤の旦那に別れを告げ、鶏旦の花街へ向かった。

 まだまだ春の先駆け、日の沈みは早く、加えて松の旦那の遅筆という無駄な抵抗もあったおかげで、知らない内に影が長く伸び始めている。大通りを行く人々の足も速くなっている。

 失踪者など武陽では珍しくもない。そうであるのに、人々が警戒心を抱き始めるくらいに、ここ十数日の間で失踪者が多発しているのだ。

「人の仕業にしてはおかしいよなあ……、やっぱり鬼か……」

 探し物を優先しすぎたせいで長年培ってきた勘が鈍ったのかもしれない。

「鬼だとすると夜に見回りしないとなあ……、となると刀が……」

 惟臣は髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

 いくら鬼退治という贖罪を負わされ、生まれ変わりを繰り返す身であれ、惟臣は異形ではなく人間である。日常の狭間で刀探しと鬼退治を同時にこなすことなどできない。

 今までは鬼の気配がなかったから探し物に専念できた。しかし、神隠し事件に鬼が関わっているとなると優先順位は逆転する。

 いや、と惟臣は首を横に振る。

 元から優先すべきは鬼退治だ。地獄の沙汰に、弟分を見殺しにし、友を殺した罪はなかった。

 だから、仲間たちを殺した挙句に鬼退治の輪廻に乗せてしまったこと、その罪を、刀を探してひっそりと持ち主に返すということは、惟臣――トリミが己に科した、押しつけがましく身勝手な贖罪で、何ら優先させるべきことではない。むしろ、早々に鬼退治の輪廻から下ろすために鬼を無心に退治するべきなのだ。

 頭では分かっている。けれど、けれども。

――やったな、トリミ!

 ずっとずっと昔に聞き馴染んだ声がする。閉じた瞼のうらでアイツが笑っている。刀を賜った時のアイツは、本当にうれしそうだったのだ。

 重なり合うカラスの鳴き声に目を開く。茜の空にたくさんのカラスが群れをなし、同じ方角に飛んでいくのをぼんやりと眺める。

「……仕方がないよなあ」

 カラスの群れが帰る先、大通りの奥にそびえる夕暮れの山を見晴るかす。

 アイツの刀を見つけたとしても、アイツの居場所など知らないのだから返そうにも返せない。それならば、鬼退治を進めていった方がいい。

 何も下げていない左の腰に手を当てて、あるはずもない物を撫で、溜め息をついて歩き出す。目下、日常の仕事をこなさなければ。

 風も冷たくなってきた。日が完全に沈んでしまえばもっと冷えるだろう。

 冷たい風は好きではない。冷たい風に乗る雨も苦手だ。氷混じりの雨が降る夜はとても嫌いだ。

 アイツのことを思い出したためか、トリミの罪が蘇る。

 冷たい雨の降る夜だった。トリミとアイツだけがいて。暗い廃屋の中で、赤い二つの光が爛々と輝いて、泣いて。泣きながら、迫って来て――。

 惟臣は走り出した。

 明るい場所に行きたかった。人の賑わう場所に行きたかった。暖かい場所に行きたかった。

「きゃっ」

 左肩に微かな痛みが走った。足が自然と止まる。呆然としていた頭を置き去りに、視線は無意識に足元へと落ちる。

 そこには黒い艶やかな髪を玉結びにした女性が、こちらに尻を向けて四つん這いになっている姿があった。正確に言ってしまえば、右腕は何かを抱えているので、腕一本と足膝二本で体を支えている。

 予想を立てる必要もない、惟臣が勢いよくぶつかってしまったのだ。

「悪い。だいじょう……」

 惟臣は腰を折り、女性に手を差し伸べて言いかけた言葉を飲み込んだ。

 女性が惟臣を振り返り般若が如き顔で、八重歯も剥き出しに睨みつけてきた。少し開いている口から瘴気を吐いていても不思議ではない気迫。

 そこまで怒るのか。

 顔を引きつらせ、唾を飲み、惟臣は勇猛に口を開いた。

「すまなかった。俺がちゃんと前を見てなかったから」

 言い訳がましいが嘘をつくよりかはマシだろうと素直に謝罪する。そのお陰か、女性の顔からは不自然なほど素早く剣は消え、柔和でおしとやかな、先ほどとは真逆の表情が現れた。

「いえ、荷物は無事だったので」

 涼やかな声で答え、惟臣の手を取り立ち上がった。ひよこ色の着物についた砂や埃を手で適当にはたき落とし、

「それでは、わたしは急ぎますので」

細長い布袋――転倒時に守っていた物だろう――を大事そうに抱え、女軽く頭を下げてると、さっさと惟臣に背を向けて駆けていった。

 彼女の向かう場所がどうにも惟臣と同じようなので、惟臣はしばらくその背中を見送ることにした。気の強そうな女性であったし、後ろをつけて因縁をつけられるのも面倒だ。

 それにあの女性、惟臣より頭一つ分低く、溌溂とした黒い目が愛らしくはあったが、握った手の皮が厚く固かった。体を引っ張り立ち上がらせた時もよろめくことはなく、人並みよりは体幹がよさそうであった。護身術やら何やらをやっているのではなかろうか。

 夕日の色に染め上げられた淡い着物がどんどん遠ざかっていく。ひょこひょこと揺れる玉結びの髪が時折布袋にぶつかっている。

 アレの中身が木だろうが、竹だろうが、鉄だろうが、関わらなければいいのだ。

 触らぬ神ならぬ、触らぬ閻魔に祟りなしである。

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