櫛を失くした男 七

 善は急げとばかりに惟臣は立ち上がり、及び腰である松の旦那を立たせた。

「藤の旦那、ありがとうございました。ほら、松の旦那。急がないと、細君にバレちまうぞ」

 松の旦那は無言で藤の旦那に頭を下げ、しょっ引かれる罪人かくや、とぼとぼと惟臣についていく。

「ちょっと待て」

 暖簾をくぐろうとした二人を藤の旦那が呼び止めた。番頭に向かって手招きすると、番頭も心得たと番台の影から物を持ってやってくる。

 藤の旦那はそれを受け取るや立ち上がり、二人に背中を向けろと指示をした。

 言われるがまま藤の旦那へ真っ直ぐに背中を向ける。何事なのだろうと背後の気配を読みながら、目だけで背後を確認しようとして目を傷めた。

 挙動不審げになっている惟臣の隣では、松の旦那が勝手知ったると立ち尽くし、虚無の眼差しのまま大通りの流れる風景を眺めている。

 藤の旦那が松の旦那の頭部に両手を近づけて、

――カンッ、カンッ

と、小さな火花が生まれ、ほんのわずかに留まり、空気へと溶けていく。

「切り火?」

「悪縁切りだそうですよ……、花街でも神隠しがあったようで……、昨日、茶屋でやってもらいました……」

 松の旦那が消え入りそうな声を出す。

「だから櫛を忘れちまったんじゃねえのか?」

 松の旦那が小さくなる。

 藤の旦那が笑った。

「あんまりいじめてくれるなって、赤おにさん。コイツ、櫛が直って本当に浮かれてたんだからさ。ここで小躍りしてたもんな、営業妨害め」

「錦兵衛!」

「茶屋に行く前からはっちゃけてたのか。あと、藤の旦那、赤おにさんはやめていただきたく」

 番頭がうつむき肩を震わせている。彼の仕草が、藤の旦那の言葉が真実であると雄弁に語っていた。

 耳まで赤くする松の旦那を宥め、ふと藤の旦那が表情を引き締めた。

「けど、真面目な話、ここ十日ばかり続いてる神隠しは、何かを失くして探してる人に多いって噂だ。あまり気に病むなよ、源郎」

「……分かっているよ……」

 松の旦那は唇を尖らせた。

 藤の旦那の手が惟臣にも伸びる。惟臣は正面に顔を戻し、背筋を正す。

「赤おにさんも仕事とは言え、探し物に関わるなら気をつけな」

 惟臣は目を細くして藤の旦那の忠言を耳にした。

 大通りを行く人々の姿がおぼろに歪み、眼前に二振りの刀を幻視する。オナガドリの目貫の一振り、桃の花の目貫が一振り、細部まで蘇った幻に思わず手が伸びそうになる。

――カンッ、カンッ

 背後で切り火を打たれた。途端に幻は霧消して、人の往来が鮮明に視界を彩る。刀はどこにもない。

「赤おにさん?」

 松の旦那が呼びかける。惟臣は上がりかけていた腕を押しとどめ、こぶしを握った。

「……何でもねえよ。それよりどこの茶屋だ? まさか兎月域とげついきじゃないよな」

 武陽は城を中心として十二域に区分されており、惟臣たちがいるのは城から見て真東にある商人が多い鶏旦域けいたんいき。武陽一の花街がある兎月域とは正反対である。

 歩いていけない距離ではないがために可能性がある。むしろはっちゃけた勢いで行きかねない。

 じりじりと松の旦那に目を据えていれば、松の旦那は両手を前に突き出し、残像が残る速さで手を横に振った。

「違いますって。鶏旦の馴染みの店です。東雲です」

 鶏旦域の花街であれば歩いても夕暮れ前には辿り着けるだろう。

 惟臣は暖簾を押し上げた。

 とぼとぼと松の旦那が続こうとしたところで、唐突に店前に滑り込み、急停止をする影が。

 砂埃が激しく舞う。周囲の人々は咳をしながら埃を払い、惟臣たちも袂を振ってそれを払いのける。

 砂煙の消えやらぬうちにそこからぬっと何某かが躍り出た。

「旦那さん! やっぱりここにいた――、ブフッ」

 松の旦那に飛びかかろうとした影を、惟臣が咄嗟に腕を伸ばして制した。今度は急停止の利かなかった影が、惟臣の腕に腹を直撃させもんどりうつ。

 声の高さから若年と予想した通り、店のたたきでコロコロ転がる何某は総髪の少年と言ってもいい体格の男だった。

「どうしたんだ、平松」

 転がる少年に目線を合わせてしゃがむ松の旦那に、少年は転がるのをやめて、涙目で訴えた。

「おかみさんに、バレました! 旦那さんをただちに連れてこいと……」

 少年の目の縁に涙が溜まる。言葉尻にも涙がにじむ。

 比例して松の旦那の顔から血の気が引き、こちらの目にも涙が浮かぶ。人懐っこい双眸がきらりときらめく。

 その不運さは本当に哀れなり、惟臣は片手で両目を覆うと天を仰いだ。

「源郎、別れ話になったら来い。間に立ってやるから」

 絶句する松の旦那に代わって、悲愴を漂わせる藤の旦那の声が店内によくよく響き渡った。

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