刀を失くした大道芸人 一

 松の旦那の店は何事もなく開いていた。しかし、やはり旦那は店先には出ておらず、番頭に尋ねてみれば、

「臥せっております」

と、顔に陰りを見せた。

 松の旦那の妻は昨夜に姿を消したまま、まだ戻らない。

 寝込んでいる御仁を叩き起こして依頼品の盗難を告げるのもはばからわれ、汚い話、失せ物が出ると失せ人があると言われている昨今、心労のかさむ旦那が正常に対応ができるとは思えなかった。面罵は良いところであるも、最悪、縁切りを言い渡されてもおかしくはない。

 内心、胸を撫でおろす。それは兄貴も同じで、対応してくれた番頭が気付かないほど微かに肩を落としていた。

 兄貴は袖手し「仕方がない。戻るか」と店を出てすぐのところで、松館の店に別の客人が姿を見せた。

「あれ、こんにちは」

「奇遇ですね、チヨさん。お使いですか?」

 昨日のように縦長の布袋を抱えて、チヨがきょとりとした顔でそこに立っていた。

「はい、真之助さんから松館さまのご様子と、女将さんが失踪した時の状況を聞いてくるようにと」

「松の女将のは桃苑の旦那へ依頼がいったということかい」

 兄貴の問いかけにチヨは何も答えずただにこりと笑い、兄貴の視界からそれる。そして、日の光を受けて彼女の溌溂とした黒い惟臣をその瞳に写し込む。

 昨日、彼女に威嚇を受けたためか、惟臣の胸が騒めき、知らずに足が半歩退く。

「体調はよろしいのですか?」

 木鈴を転がしたような軽やかで愛らしい声が惟臣を気遣う。惟臣の足がさらに半歩さがる。

「あ、ああ、気遣ってくれてありがとう」

 引きつりそうになる顔を頑張って笑顔に変えて返してみれば、彼女もにこりと笑い、

「いえ、真之助さんが気にしていたので」

やはり牙を剥いてきて、いらない情報まで付随させて噛みつかれた。今度こそ口元がひくついた。

 なんなんだ、この娘は。昨日ぶつかったことをいまだ根に持っているのか。はたまた彼女が大事そうに抱えている布袋を一方的に借り受けたことか。

 チヨを睨み下ろすが、彼女はまったく堪えることもなく、惟臣を半眼に見上げて鼻を鳴らして過ぎていく始末。

「桃苑の旦那と知り合いだったのか?」

 チヨの猫かぶりに気付いていない、なかなかに鈍感な兄貴がそう訊ねてくる。

「いや、昨日初めて会った」

 嘘ではない。そうとも、嘘ではない。惟臣は視線を泳がせる。

 少しばかり不自然な話のそらしかたであったのだが、兄貴は「そりゃそうか」とあっさりと引き下がる。むしろ兄貴の納得の早さが不自然に思えた。

「旦那が他人の心配をするわけねえよな」

 さらに追撃する兄貴の言葉。

 誰が他人の心配をしないと言ったのか。桃苑の旦那が他人を心配しないと、心配しないというのは蔑ろにするということなのか。手を差し伸べないということか。見捨てるということか。

 ならば、桃苑の旦那はアイツではない。アイツは自分を犠牲にして他人を助け続けた。無償で助け続けて、人の言葉と心に踊らされながらも手を差し伸べ続け、そして死んでいったのだ。

 アイツは臆病だから、人に嫌われる恐ろしさを知っているから、だから、困っている人を助けないなどあり得るわけがない。

 桃苑の旦那は違う。アイツではない。

――そう思うのに懸念が消えない。昨夜、桃苑の旦那が兄貴にかけた感情のまったくない声が頭を掠めると、やはりアイツなのではないかと確信が立つ。

 あの地獄を生きたからこそ、アイツはもう他人を救いたくないのではないか、と。

「ごめんください。真之助さんの使いで参りました、チヨです」

 店の中からチヨの声が漏れ聞こえる。少ししてから足裏で畳を擦る足音がした。

 惟臣の位置からは店の影となってチヨは見えなかったが、兄貴からは彼女が見えていたらしく、店の奥から出てきた人物に少し驚いていた。

「ありゃ確か、藤乃井の旦那じゃねえか。なんでここにいるんだ」

 惟臣も店の中を覗く。

 昨日よりも鋭さを増した鷹のような目を持つ偉丈夫が、松の旦那の店の奥から顔を出し、チヨに応対している。

「松と藤の旦那は幼馴染みだと、昨日、松の旦那が言っていたような」

「ほう、様子を見に来たのかねえ」

 兄貴と惟臣は日よけ暖簾の影に二人で隠れ、こそこそと諜報のように藤の旦那とチヨを観察する。番頭が二人を気にしている素振りを見せるが、告げ口はしそうにないので放っておく。

「兄貴、桃苑の旦那へ依頼がとか言ってたけど、旦那も便利屋なのか?」

「まあ、あっちは本業じゃないから時間があればやってるって感じだ。けど、旦那は依頼を選ぶからなあ。商売敵にはなっちゃいねえよ」

 やはりアイツではないと思いたい気持ちと、アイツが変わってしまっただけではないのかと疑う気持がせめぎ合う。

 藤の旦那とチヨの会話が聞き取れない。番頭が気まずそうである。

「本業って何をやってるんだ。桃苑の管理とか?」

「バカか。あの人は――」

「赤おにさんともう一人のお兄さん、ちっと頼まれてくれませんか?」

 チヨを見ていた藤の旦那の顔が、瞬き一つの間に、兄貴と惟臣に向いていた。ついでにチヨの呆れたような目も向けられている。

 言葉を失くす惟臣より先に兄貴が動き、頭を掻きならが日よけ暖簾の影から出ると、店の敷居をひょいと跨ぐ。

 惟臣はチヨの目に気圧されながら、恐る恐ると敷居を跨ぐ。チヨに怯えてしまう自身の心持ちがどうにも納得できないが、チヨから目をそむける。

「お初にお目にかかります。そっちの男、赤おにさんと便利屋を遣ってる佐吉と申します。どうぞよろしくお願いいたします」

 頭を下げる兄貴を、藤の旦那は昨日惟臣にしたように、上から下へと見定め、惟臣へと確認のように目配せする。惟臣が静かに頷けば、藤の旦那も頷き返した。

「こちらこそ、お初に。尾長通りで藤乃井という名で呉服商をしております、錦兵衛と申します。以後よしなにお願いいたします」

 お互いに頭を下げ合い一息ついたのちも、藤の旦那は兄貴を見続けている。兄貴と、彼の影にいる惟臣の力関係を見抜いたのだろう。

「それで頼みとはなんでしょうか?」

 兄貴が切り出す。

「なに、源郎の様子と、アイツや店の者から聞いた女将失踪時の様子をしたためたので、桃苑の旦那に手紙を届けてほしいのですよ」

 それから藤の旦那はチヨをちらりと見遣り、

「チヨさんには源郎がいなくならないか、見張っててもらいたくて。アイツまでいなくなるのは、流石に堪えるのです」

泣き出しそうな顔で、ぶっきら棒にそう言った。

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